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櫻雨-ゆすらあめ-  作者: 弓束しげる
◆ 一章七話 至純の涙 * 元治元年 九月
98/212

不意打ちだらけの対峙

 振り向いた瞬間、視界の下方に素早い影が走るのを目で捉えた。


 身を反らすだけでは間に合わないと横手に飛べば、一瞬の後、それまで斎藤が立っていた場所へ空気を切る音が駆け抜ける。そのまま数歩後退り、ようやく斎藤は相手を視界に納めた。


 低身長だが骨太の体躯に、ぎょろりとした鋭い目で斎藤を睨み据える浪士風体の男。居合い斬りを避けられたことへのいら立ちか、小さな舌打ちが風に紛れて耳に届く。


「……河上彦斎(げんさい)だな」


 問うが、男は答えなかった。ただ改めて己の刀を鞘に納め、腰を低めて居合いの構えを見せる。斎藤が反対に腰の刀を抜いて正眼に構えても一切動じず、低い姿勢からこちらを睨む様は、さながら獲物を狙う獣そのものの気配をまとっていた。


 ――間違いなく河上だ。


 答えがないことがむしろ答えと納得し、密やかに細い息を吐く。


 と、そうして斎藤が呼吸を整え切る直前に、再び河上が踏み込んできた。


 とことん斎藤の呼吸を乱す攻め手につい舌を打ち、軌道を予測して刀を振り下ろす。読みが当たったらしく今度は河上のほうが渋面を浮かべ、「クソ」と悪態を吐いて二歩、三歩と跳ぶように後退をして見せた。


 直後、河上の背後――……祇園社の竹柵を飛び越えて、ひらりと舞う人影が目に映った。


 最低限の足音だけで猫のように迫った愁介が、河上にも一切引けを取らない素早さで抜刀し、その背に一撃を食らわせる。


 直前で殺気に気付いた河上は間一髪で横に跳び、しかし避け切れなかった一撃を二の腕に食らって、わずかな血飛沫を空に散らせた。


「チィッ……」


 大きな舌打ちをして、河上はそのまま逃げようと踵を返しかけた。


「おっと、逃がしませんよ」


 次いで現れた沖田に行く手を塞がれ、その足も引きつったように動きを止める。


 ところが、そうして三方から囲い追い込んだと思った、次の瞬間。


「よし。河上彦斎、観念し――……」


 さらなる一手のために姿勢を低めた愁介の頭上を、足元から覗くわずかな石山を取っ掛かりに、河上は文字通り人間離れした跳躍力を持って飛び越えていったのだった。


「ええっ!? 嘘でしょ!?」


 愁介が慌てて手を伸ばすも捕らえ切れず、河上の背は祇園社の境内へ消えていく。


 あまりの不意打ちに顔をしかめ、斎藤はすぐさま後を追うべく駆け出した。


 しかしそこで、同じく駆け出そうとした愁介が不意に小さく呻き、片膝をつく。


「愁介さん!」

「っ――!?」


 思わず斎藤も足を止めるが、愁介は追い払うように手を振って、存外鋭気のこもった声で素早く言った。


「行って! 逃す!」

「沖田さん、任せる!」


 愁介のことを目で示し、沖田がすぐにうなずいたのを見て斎藤は再び駆け出した。


 が、些細な遅れでもあの素早い河上に対しては致命的だったようで、境内に入ったところで視認できる範囲に一切姿は見えない。


 ふと足元を見やれば、ぽつぽつとわずかな血痕が落ちていた。どうにかそれを辿ってみると、血痕は斎藤らがいた北門とは正反対の南楼門へ続いていた。


 しかし案の定、境内の外へ出てしばらく進んだところで用水路にぶつかり、血痕もそこで途切れてしまっている。河上自身、血の跡に気付いてここへ飛び込んだのであろうことが容易に想像できた。


 完全にしくじった。その事実に、斎藤は深い溜息を吐いて乱雑に髪をかき混ぜた。愁介が膝をついたあの一瞬、気に留めることなく河上を追っていれば、まだ捕縛の可能性はあったかもしれないのに。


 むしろ何故足を止めたかなんて、考えたところで後の祭りだ。斎藤は念のために用水路の周辺をしばらく探索したものの、収穫なく祇園社へ戻るしか成す術がなかった。

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