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櫻雨-ゆすらあめ-  作者: 弓束しげる
◆ 一章七話 至純の涙 * 元治元年 九月
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食えない会話

 首をかしげた山崎の問い返しに、土方は眉間に手を当てたまま「いや」と小さくかぶりを振った。その動作に呼応して、濡れ羽の髪がゆらりと肩口で揺れる。土方はそれを節張った指先で軽く梳き払って、わずかに力を抜くように息を吐いてから続けた。


「別に、これと言って気になることがあったわけじゃねぇよ。それっぽいと思ったことがあるわけでもねえ。ただ……私情で馬鹿なことを考えただけだ。気にしなくていい」


 そこまで、重ねて答えてから。


 ふと、土方は何かに気付いた様子で「……つーか」と、伏せていた顔を上げた。


「『女に詳しい』って何だ。別に詳しかねぇよ。山崎お前、俺を何だと思ってやがる」

「ああ、いえ。何っていうわけでもありませんよ。ただ単純に、人生経験の差って如何とも埋めがたいことがありますから」

「人生経験って、お前な……俺よりお前のほうが一つ二つ歳食ってるだろうが」


 土方は渋面を浮かべたが、山崎は「あれ、そうでしたっけ」と真剣な様子であごに手を当てた。茶化しているわけでもふざけているわけでもなく、事実だけを口にしたという雰囲気で、本気で「必要あらば再調査を」と言わんとしていたことは明らかだった。


 これには土方も、むっと口元をへの字に曲げた。部屋に入って間もなく、土方に似ている云々の話題で斎藤がつい閉口したのと同じように、返す言葉が見つからなかったらしい。


 まあ、斎藤から見ても、今の山崎の言は仕方あるまいと思える。土方は、やはり誰から見たって美丈夫で、実際江戸にいた頃などは、女を取っかえ引っかえ相当遊んでいたのを覚えている。巷で情け容赦のない男と恐れられている今でさえ、街や花街に出ようものなら付文(つけぶみ)(恋文)の一つ二つを懐にねじ込まれて帰ってくるのだから、何をかいわんや。山崎に反論など、できようはずもなかった。


 ――が、それはそれとして。


 食えない人達だな、本当に。


 そんなことを想って、斎藤は内心で苦笑いを浮かべずにいられなかった。何気ない今のやり取りに、胸中で密やかに立てていた一つの仮説に確信を強めることとなったからだ。


 山崎は本当に、多少冗談めいたことを言うことはあっても、それすら含めて普段から余計なことはほとんど口にしない。おおよそ必要な時に、必要なことを言う。だからこそ、土方は監察方の中でも特に山崎を重用しているのだ。


 だからこそ――……報告が始まる前、山崎が「ご馳走してください」なんて笑って言ったのだって、別の深意があったのではと、斎藤は密やかに考えずにいられなかった。


 もちろん先の言には、労いを求めるほど今件に苦労した、という偽りない心情もあっただろう。だが別途、『ご馳走』の時までもうしばらく愁介の観察を続けるから、という意も含まれていたのではないだろうかという仮説が、あの時一瞬、頭に浮かんだのである。


 何しろ今件での労いとなれば、自然と当日、同じ話題が口に上る。土方も、それを見越して承諾したのではないだろうか、という推測だって立ってしまう。


 そうして、必要があれば斎藤も『ご馳走の場』に呼ばれるのだろうし、別の必要が生じた場合は、斎藤は今日とは違って知らぬ間に『ご馳走の場』から弾かれるわけだ。そのために、あんな遠回しのやり取りが交わされたのではないだろうか。


 土方が先に言った通り、沖田と同室である分、斎藤はどうしたって愁介に近しく感じられるはずだ。愁介を快く思わない土方にとってそれは警戒を生むだろうし、むしろ斎藤が会津の間者である事実を踏まえれば実際に近しいわけで、土方の勘は正しく外れていない。そして、短いやり取りの中でそんな土方の危惧を汲み取るくらい、山崎は素知らぬ顔でやってのけるだろうし、それができるからこそ、山崎はいつも土方の『手足』たり得ている。


 ――ああ、しばらくの間、今まで以上に愁介との接触に際して警戒を強めなければ。山崎相手では、どこから見られているかわかったものではない。


 良くも悪くも思いがけない収穫を得られたことに、やはり斎藤は胸中で苦笑せずにはいられなかった。


「……ったく、好き勝手言ってくれやがる」


 反論を諦めた土方が、不服そうにぽつりと独り()ちた。

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