葛《過去》
「そなたが山口殿の次男坊か」
蝉がやかましく鳴き叫んでいるさなか、聞き慣れぬ声に呼びかけられた。
屋敷の庭で素振りをしていた幼い一は、振り下ろした木刀を瞬時に止めた。
――周囲を木々に覆われた深い雑木林に、ひっそりと一軒だけ建つ、調度品すらほとんどない六畳四間のお屋敷。一刻半ほど歩かなければ城下町にもたどり着けず、辺りに集落もない、誰も寄り付かぬ文字通りの隠れ屋敷である。庭からはいつでも遠く当地の城を望めるが、ひとことで言えば、寂しい場所。
そんな場所での思いがけない声掛けに驚いて目を向ければ、いつ入ってきたのか、庭の隅に一人の見知らぬ侍が立っていた。
……誰だ。
眉をひそめて、身構える。
侍は、一の気迫に慌てた様子で「ああ、いやいや」と手を振った。
「殿の遣いにて、葛様に文を届けに来た者でござる」
信用していいものかわかりかねて、一は戸惑った。
これまでの来訪者には、葛よりも一のことを先に口にした者など一人もいなかったものだから、男がどうにも胡散臭く感じられて仕方がなかった。
が、殿の遣いと言う以上は失礼を返すわけにも行かず、一はひとまず木刀を下ろし、姿勢を正した。
訝りながらも一礼し、毅然と右手を大人に差し出す。
「ごくろうさまにございます。お文は、それがしが承りまする」
ところがこれを受けた男は、何故か突然ハハハと愉快そうにあごを上げた。
何がおかしいのか。一が顔をしかめれば、男は「いや申し訳ない」と歩み寄り、一の前にしゃがみ込んで、まるであやすかのように手のひらを一の頭に乗せる。
「いやはや、八つとは思えぬほどしっかりしておられる」
「……まだまだ子供にございますれば」
謙遜を装って、一歩引く。
「……父上のお知り合いのかたですか?」
「いや、知り合いではない。山口殿のことは、お噂で聞いているのみだ」
知り合いでないなら尚更だ。一は警戒を強めて、もう一度右手を差し出した。
「お文を、おあずかり致します」
言いながら、左手に持っていた木刀の柄をきゅっと握り直す。脇に抱えることはせず、いつでも振り上げられるように心構えた。
一は物心ついた時から左手が器用だった。相手が大人とは言え、いざとなれば木刀でだって、気を逸らすくらいはできるはずだ。怪しい動きをしようものなら、葛を逃がすための時をかせがなければと頭の隅で考えた。
しかし警戒に反して、男はにこやかな笑みを浮かべたままフムと相槌を打った。「では」と言葉を置き、懐から取り出した一通の文を一の手に乗せる。
「ところで、葛様はいかがされておられますかな?」
「……あ」
素直に渡された封筒の宛名書きは、間違いなく見慣れた殿の祐筆の字で書かれていた。乱暴に扱った形跡もなく、警戒に反して、男が本当にただの遣いであろうことが窺える。
「か、葛さまは……」
気が抜けた心持ちで、一は身を取り繕った。
「夕べ熱をお出しになられましたので、今はお休みなさっております」
取り越し苦労で良かった――。
肩の力を抜く。受け取った文を懐に差し込んで、一は改めて一礼した。
「ごそくろう大変いたみいりますが、それゆえに葛さまへのご面会はご容しゃくださいませ。本日は間が悪く、夕刻をすぎなければ他の大人も戻ってまいりませんので」
表情を引き締め、ようやくいつもの体裁で恭しく言う。
ところが男は、またハハハと面白そうに笑い声を上げた。
一度ならず二度までも笑われれば、いくら相手が怪しくないと知れたところで、いい気分にはなれなかった。一は顔を上げ、今度は不快感を隠すことなく顔をしかめた。
けれど男は意に介さず、やはり愉快そうに「やあやあ」と気安く一の頭を撫でてくる。
「ご立派だなあ、実に大人びておられる」
言っていることとやっていることの矛盾に、一は口元を歪めた。
男は、自分は無害だと主張するかのように一層笑みを深め、
「そなたの兄上のお噂も、かねがね伺っておりますよ」
途端に一は、文句の一つでも言ってやろうと開きかけた唇を震わせ、目を伏せた。
……何故、ここで兄の話などするのか。
「そなたの兄上も、お父君によく似てとても聡明だとか。十六になられたそうだが、噂によれば文武両道、剣術の腕も学問も大の大人より一歩先を行かれていると……幼い頃は天童とも呼ばれていたそうですな」
さすがはその弟君だ、とくしゃくしゃ頭をかき回される。
一はウンともスンとも返せなかった。いかんせん、一は兄とは違い、とても文武両道と言えるほどの頭ではなかったからだ。
性に合っているようで、剣の腕には自信を持てるし、読み書きも得意だ。が、一は唯一、計算が苦手だった。全くできないわけでもないが、数式が重なるとまだどうもよくわからない。
ゆえに一は周りの大人達から「あまりできの良くない子」と見られることが多かった。大人達が、まず何もかも完璧で聡明な兄を見てから一に目を向けるものだから、何をどうしても、一の実力や努力などは、かすんで見られてしまうのだ。
今も間違いなくそうだ――。
ちらと視線だけを上げれば、男は笑んだまま、やはり他の大人達と同様に、
「拝見する限り、剣術はお得意そうですな。学問も、もう学ばれておられるのですかな?」
「……少し、だけ」
「飲み込みも、お早いのでしょうな」
「……計算は、得意ではありません。そろばんもあまり使えません」
一の言葉に目を瞬かせ、男は案の定あからさまに残念そうな顔をした。口元は笑んでいたが、先刻までと違って、目から期待の輝きが失せてしまう。
それは昔からよく見慣れた、大人の誤魔化し笑いだった。
胸が細い針で刺されたように痛む。一はまた一歩引いて、男の手から逃れた。
「……これから、学んでいきます」
ぼそりと返す。
男はそれまでに比べると、随分乾いた声でハハと笑い、頷いた。
「そうか。うん、その通りですな、これからだ。まだ八つだ、慌てることはない。そなたも山口家のお子なれば、今に目覚しい成長を遂げられるに違いない」
気を遣っているつもりであろうが、男の口調が軽んじたものへと変わったことに気付かないほど、一は愚かでもなかった。
深くうなだれて、所在なく足元を見つめる。
するとそこへ、
「一、こっち来て」
目の前の男のものとは違う優しい声が耳に届き、一は顔を上げた。
「葛さま?」
お屋敷の縁側を振り返れば、そこには共に屋敷に住まう、一のひとつ年下の主人が佇んでいた。
葛はかくれんぼでも始めるかのように、実年齢より二つほどは下に見える小さな体を柱の奥に半分隠し、悪戯っけのある猫のような瞳を覗かせていた。熱が残っているようで、丸い頬はいやに赤く上気していた。しかし、寝間着一枚で一を見つめるその表情には、とても愛らしい花咲くような微笑みが浮かべられている。
一は胸の中にあった嫌な気分が、急に軽くなっていくのを感じた。
葛は大人に目をくれることなく、手を差し伸べてもう一度「一」と呼んだ。
「ね、こっち来て」
「葛さま、起き上がって大丈夫なんですか」
一は下駄を脱ぎ捨てて、縁側から屋敷に駆け上がった。
傍らに寄ると、葛は高く結い上げた濡れ羽色の髪をさらりと揺らして「へーき」と一の手を握る。それをぺたんと自分の頬に触れさせて、
「ほら、熱、下がったでしょ?」
「ん……まだ少し熱いように思いますけど」
「ええっ、ウソだあ」
クスクスと笑う様が、無邪気で愛おしい。
「葛様」と、背中から控えめな声が投げかけられた。
振り返れば、先刻の男が気安かった表情を引き締め、恭しく膝をついて頭を垂れていた。