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櫻雨-ゆすらあめ-  作者: 弓束しげる
◆ 一章七話 至純の涙 * 元治元年 九月
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謎への疑い

「すいません」


 んん、と咳払いをして、山崎が姿勢を正す。妙に微笑ましげにたわんでいた瞳を苦笑いにすり替え、山崎は改めて「ご報告致します」と口火を切った。


「まず、最近の情勢が情勢やったんで、片手間に()(つき)もかかってしまい、申し訳ありません」

「いや、むしろ休みも返上させるような形で働かせちまって、悪かったな」


 土方が軽く頷けば、「いいえ」と山崎は本当に気にした様子もなく首を横に振る。


「必要なことやったと思いますし、労ってくれはるんやったらまた今度、折見てどっかで美味いもんでもご馳走してください。それで充分ですよ」


 山崎は新選組の立ち上げ後しばらく経ってから入隊した男で、江戸にいた頃から付き合いのある、いわゆる試衛館(しえいかん)組ではない。が、監察方の中でも特に土方の手足となって動くことが多いためか、他の隊士とは違って、普段から土方に対して余計な遠慮を持たなかった。土方もそんな穏やかながらこざっぱりした山崎の気風を好んでいるようで、今の冗談交じりの言葉にも、小さく歯を見せて笑うばかりだった。


「わかったよ。何食いたいか考えとけ」


 そんな土方に軽く頭を下げ、山崎は「それで、松平殿のことですが」と話を本題に戻す。


「先に私自身の個人的な所感を申し述べますと、調べたところで『謎の人』っていう印象からは正直、何も変わりませんでしたね。会津の中でも、存在こそ既に受け入れられてはいますけど、誰も――恐らくですが、会津侯ご自身とその近々のご家臣以外は、ほんまに誰も正体を知らんみたいです」

「では結果としては、『何者かわからないことが、改めてわかった』ということですか?」


 わずかに眉根を寄せた斎藤の問い返しに、山崎は苦笑いを深めて「まあ、端的に言えばそうですね」と首肯する。


「ただ、経緯は探れるだけ探ってきました。松平殿が会津侯の元に現れたのが、今から四年前の春も終わりの頃やったらしくて……突然どこからか江戸の会津屋敷を訪ねてきて、いきなり『息子』を名乗ったそうです」

「怪しいことこの上ねぇじゃねえか。それまで、ご家中には存在の片鱗もなかったのか?」


 次いで土方が口を挟むと、山崎は「みたいですね」と再びあごを引いて頷き返す。


「そら、大わらわやったらしいですよ。ただ、その時点で既に会津葵の家紋が入った印籠を持ってたことと、会津侯ご本人が松平殿の言を否定せずに受け入れたことで、ご家中一同、下手に騒ぎ立てることもできんかったようです。早々に、外に噂とかが流れ出る前に収拾つけられたみたいですね」


 むしろ感心したとでも言うように、山崎は軽く肩をすくめて見せた。


 しかし斎藤は、さらに自身の眉間にしわが寄っていくのを感じた。納得しきれず、再び疑念を口にする。


「よく、収拾なんてつけられましたね。会津の気風なら、いくら会津侯ご本人が受け入れたとて、そんなぽっと出の若侍の存在など怪しまれて当然でしょうに」


 すると山崎は、斎藤の言に心底からの同意を示すように、ハハ、と眉尻を下げて笑った。


「斎藤先生のおっしゃる通り、当然、初めは怪しむ者しかおらんかったようですよ。ただ、跡継ぎは放棄する旨、松平殿と会津侯が揃って一筆したためたらしいんです。その上で、松平殿が献身的に働くようになってからは、周囲の目も変わっていったみたいですね」

「いくら一筆したためたところで、下手をすればお国の乗っ取りなども考えられるような事態なのに、ですか?」


 今ここで言ったところでどうしようもないのだが、それでも言わずにおれず、斎藤は顔をしかめたまま捻るようにしてさらに首を傾けた。


 山崎は、また斎藤の苦言に同意を示すように深く頷いて見せた。「そう思いますよね」と、続く言葉尻こそ穏やかだが、調査中、内心では山崎も会津に対して似たような疑念や不安を抱いていたのかもしれない。


「それでも、初っ端の会津侯ご様子が、元々周囲の疑念を揺らがしてたみたいなんですよ。繰り返しになりますけど、ほんま急に湧いて出た落胤なんか、初め誰も信じてへんかったそうです。でも、印籠を無下にできず渋々会津侯の前に引き合わせたら、松平殿の顔を見た瞬間に、会津侯ご本人が言葉もなく涙ぐんで、松平殿を抱擁なさったらしくて」


 その報告に、斎藤はぴくりと、己の目元が軽く引きつったのを感じた。


 ――容保(かたもり)は実直がすぎて、芝居を打てるような人柄ではない。斎藤自身それをよく知っているからこそ、愁介と対面した時の容保の様子とやらが、偽りでないだろうことは理解できた。結局家臣達が愁介を受け入れることにしたのも、間違いなくそれゆえだろう。が、なればこそ。尚のこと、愁介がどういう存在かについて何故誰も踏み込まなかったのか、という疑問に頭が痛くなる。


 いや、容保がそんな様子だったがゆえに、身近にいる者ほど踏み込めなくなったのだろうか。


 容保は普段から我侭を言うような暴君でもなければ、不平不満すら滅多に口にしない、責任感の強い人格者だ。そんな容保がもし、愁介だけはとかばう姿勢を見せたら――容保を想えばこそ、危険が及ばないことさえ確認できたならそれ以上は踏み込めない、と身を引いてしまったのかもしれない。


 当然その分、散々愁介の腹の底だって探っただろうし、でき得る限りの裏は取ったのだろうが。そこから四年も経っていることを考えれば、やはり会津にとって危険のない人物だと判断された、という現実は覆らないのだろう。


 そうして口元に指の節を当てながら思考を重ねていると、山崎が「もう一つ」と言葉を付け加えた。


「当時は、今は亡き会津公のご正室やった(とし)姫様もご存命やったようなんですけど。そのご正室も、ほとんど似たような反応やったようですよ。ご側近の方々も呆気に取られたそうですが、少なくともお二人共の態度によって、松平殿と、お殿様お姫様が旧知の仲であったことは間違いなく証明されてたわけですね」


 敏姫様までも――と、斎藤はさらに苦い想いを奥歯で転がした。


 敏姫。会津松平家先代の容敬(かたたか)侯の実子であり、同じく(かづら)の実姉にも当たる女性。葛と同じく病がちで、十八という若さで早逝してしまったが、容保が心より慈しんでいた正室だ。


 斎藤自身、直に顔を見たのだって一度くらいしかなかったし、会話すら交わしたこともなかったが、そんな程度の小者にも絶えず微笑みかけてくれる姫だったことは覚えている。実の姉ということもあり、葛を彷彿とさせる幼げなまろい目鼻立ちをした人だった。


 ……と、そこまで思い返して。


 不意に、四年前といえば、ちょうど斎藤自身が葛の死を告げられ、会津を離れた年だ、ということに気が付いた。


 途端に一つ、恐ろしくも、大きな引っかかりを覚える。


 愁介の顔を見た途端、涙ぐんだ容保と敏姫。愁介が現れた時期が春の終わりで、斎藤に葛の死が告げられたのが夏の盛りの頃。そこに因果関係はないのか。本当に?


 斎藤自身、以前にも一度考え、そうして否定した仮説だ。いや、仮説というより――あの時はただ、似ていると思っただけだった。愁介が葛であれば良かったのにと、戯言を言っただけだった。禁門の変の折。天王山の中腹で、本人にだってそれを告げたが、愁介の反応は酷く曖昧で、その曖昧さが逆に斎藤の言を否定しているように感じられた。


 だって、そもそもが突拍子もなさすぎる、ただの斎藤の願望でしかない仮説だったから。


 しかし、それこそが斎藤の思い込みであった可能性はないのだろうか。あの時、愁介は葛を知っていると言った。会ったことさえあるような口ぶりだった。その言葉にわずかでも、はったり(ヽヽヽヽ)はなかったのか。


 本当に……?

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