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櫻雨-ゆすらあめ-  作者: 弓束しげる
◆ 一章七話 至純の涙 * 元治元年 九月
84/212

土方の譲れないモノ

「さっきの、どういう意味ですか?」


 無言で歩いて、しばらく。ようやく副長室にたどり着き、周囲に一切の人の気配がなくなったそこで、沖田が口火を切った。


 文机の前であぐらをかいた土方に向かい合う形で、斎藤と沖田も並んで正座する。


「明日、葛山に腹を切らせる」


 土方は眉一つ動かさず、伏し目がちに短く答えた。その手で淡々と煙管に煙草を詰め、火を点ける。締め切られた六畳間に紫煙が細く立ち上り、ほのかな甘苦い香りが漂った。


 一拍置いて、沖田が「えっ、切腹?」と目を丸くした。


 対して斎藤は、特にこれといった反応は返さなかった。静かに目を瞬いて、見るともなく不確かな軌道を描く紫煙を眺める。


 反応など、返すまでもなかった、というのが正しいかもしれない。


 ――先日の、建白書の一件。葛山が折々に吐いた近藤の出自に対する言及を、最終的にこと細かく土方に報告したのが斎藤自身だったからだ。葛山のあれらが土方の癪に障ったのは明白で、何かしら対処するだろうことは想定内だった。


 まあ、腹を切らせるところまで行く、というのは、少々予想を飛び越えてもいたが。


「あの一件、責任の追及はしない、って近藤先生がおっしゃってませんでしたっけ?」


 葛山の言動については何も知らない沖田が、困惑気味に眉尻を下げる。


「先生が出立した後でそれをおっしゃるってことは、土方さん。葛山さんの切腹って、近藤先生は不承知なんじゃないんですか? 永倉さんも」

「そうだな。あの一件、近藤さんは『自分が悪かったから』っつって、全部引き取っちまったからな」


 荒く煙を吐き出して答えた土方は、声音こそ落ち着いていたが、目を据わらせて不機嫌な様を隠すつもりもないようだった。


「じゃあ、どうしてです?」

「俺から言わせりゃ、あの一件、葛山だけは別口だ」


 吐き捨てるようなその言葉に、斎藤は小さく息を吐く。「土方さん、沖田さんには言っていませんよ」と口を挟めば、「あー」と投げるようにあごをしゃくられた。本当に、口にするのも嫌なくらい気に食わないらしいことは充分伝わった。


 今度は斎藤も隠さず明確な溜息を吐き、ゆるりと隣に首を回す。


「……沖田さん。あの時、葛山は局長の出自について物申してきたんだ」

「出自?」

「『元が浪人という立場を忘れ、偉ぶっているのはよろしくない』そうだ」

「は?」


 一瞬にして、それまで戸惑いを含みつつも穏やかだった沖田の声が、冷気をはらんだ。丸かった目が土方以上に細く据わり、眉が厳しく吊り上がる。


「元の身分がどうとか、今この時に何か関係あります? 神君家康公だって、元は将軍でも何でもない一介の大名ですけど? 関係あります?」

「ねえから、腹ァ切らせるんだよ」


 それはそれで話の飛躍にも程があるわけだが、この二人には言っても詮無いだろうと、斎藤は改めて口をつぐみ、そ知らぬふりをした。


 ……とはいえ事実、あの時の葛山の物言いはおかしかった。近藤の出自や身分に言及したということは、葛山はあの時の主題であった『近藤の振る舞い』ではなく、近藤の『立場そのもの』をよく思っていない、と言ったも同然だったからだ。


 意訳だが、要は「同じ浪人上がりで、何故近藤だけが『局長』と持ち上げられているのか?」と文句を垂れていたということ。だからこそ、斎藤も土方にこれを報告した。


 武士の社会において序列に疑念を抱く、というのは、単純によろしくない。そこから謀反に繋がる可能性すら否めないし、そもそも仁義がないし、正直キリもない。


 沖田が言ったように、徳川家とて元はただの一大名だったわけだが……だからと言って前後あらゆる功績を無視し、元が一大名でしかなかったのだから将軍職には相応しくない、などと言及するのはお門違いというものなのだ。それでも、どうしても物申したいと言うならば――その時は、正しく武勲で身を立てればいいのである。それこそ、近藤や土方がひたすら有言実行し、積み重ねているのと同じように。


 しかし葛山は、これをしなかった。どころか口先で不満を垂れるだけに留まらず、周囲の仁義に便乗し、近藤を追い落とそうとした。


 ゆえに取り押さえ、周囲へのけん制の意味を示すためにも、腹を切らせる。


 実に極端ではある。が、それでも土方のやろうとしていることは、間違いなく筋だけは通っていた。


「……土方さん。名目は、どうなさるんです?」


 斎藤が問うと、土方はチラと視線を寄越して、薄く口の端を引き上げた。


「建白書を出す、ってぇ案を出したのも、それを実際に書いたのも葛山だろう。謀反の意志ありと受け取るには、証拠も充分だろうよ」

「山南さんは、承諾を?」


 重ねて問えば、土方はそこで初めて剣呑な空気を薄れさせ、眉間に苦みをはらんだしわを寄せた。

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