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櫻雨-ゆすらあめ-  作者: 弓束しげる
◆ 一章六話 揺りの根 * 元治元年 八月
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華麗なる土下座

 部屋に着くと、沖田は斎藤と愁介の姿を見た途端に満面の笑みを浮かべた。


 ただし言葉がない。部屋の中央にどんと正座しているが、ひたすら笑顔の圧が強い。


 さすがの愁介も、誤魔化し笑いすら浮かべられずにうろたえていた。暗闇の中から言葉を探るかのように、胸の前でやわやわとうごめく手が哀れだ。


「……沖田さん。実は今――」


 とりあえず助け舟を出そうと口を開けば、沖田はからくり人形のように首だけを回して斎藤を見た。満面の笑みは引きつりもせず崩れない。


 小柄(こづか)でも飛んできそうな鋭利な圧に呑まれかけた。


 が、稽古の頻度と付き合いの長さのお陰か、詰まったのは一瞬ですぐに言葉を続ける。


「……とりあえず聞いてくれ」


 言った瞬間、冷や水をぶっかけたように沖田がスッと真顔になる。


 隣で「ひえ」と小さな悲鳴が上がった。


「……短気は損気。あんたや藤堂さんがいつも周りに言うことだろう」


 斎藤は溜息を吐き、沖田の前に腰を下ろした。


「私も結構短気なんですよね実は。土方さんよりまし(ヽヽ)なだけで、近藤先生に比べたら断然」

「近藤局長と比べれば、誰でもそうだな」


 斎藤以上に平坦で抑揚のない言葉を投げる沖田に半眼を返し、もう一度溜息を吐く。


 促すように愁介を見上げると、愁介ははっとした様子で斎藤に並び座った。ご丁寧に正座して、流れるように畳に両手をつくと、


「ごめんなさい……っ」


 見事なまでの綺麗な土下座に、斎藤は片手で額を押さえるように頭を抱えてしまった。


 さしもの沖田も面食らっていたので、この隙に一通りの説明をするしかなかった。


「――はあ。なるほど、そんなことがあったんですね」


 説明を終えると、沖田はようやく納得したらしく、全霊で背負っていた圧を霧散させた。


「愁介さん、間に立ってくださってありがとうございます」


 まなじりを下げ、改めて愁介を見やる。いつも通りの、人好きのする柔和な視線だった。


 愁介も心底安堵した様子で口元をほころばせ、肩の力を抜いて言う。


「約束の件、本当にごめんね。埋め合わせは絶対するから」

「ありがとうございます、私こそすみませんでした。でも、そんなご事情なら先に言ってくだされば良かったのに」

「言う前から拗ねたのは沖田さんだろう……」

「えへへ、すみません」


 沖田はあざとく首を傾けてぼんぼり髪を揺らし、舌を出して見せた。


「うわあ、笑って誤魔化すときたか! くそう、許す!」


 わっと眉間を押さえて泣き真似をする愁介にも呆れた視線を投げ、斎藤は嘆息する。


「何の約束をしていたのか知りませんが、ともかく――」

「甘味屋のはしごですよ!」

「……いや、それは今どうでもいいんだが、ともかく」


 言葉を遮ってまで沖田から教えられた『約束』に呆れが上乗せされ、どっと疲れが押し寄せる。斎藤は眉間に寄ってしまうしわを指の節で押し解してから、再び口を開いた。


「こちらの都合に巻き込んで、その約束を反故にさせてしまったことは申し訳なく思っています。埋め合わせに何かできることがあれば、いつでも言ってください」

「相変わらず真面目だなあ、斎藤さんは」

「じゃあ、斎藤も今度一緒に甘味屋のはしご行く?」

「あっ、いいですね、それ!」

「いえ、それ以外でお願いします」


 斎藤は間髪容れず首を横に振った。甘味がそれほど得意なわけでもなければ、二人の調子について行ける気もしない。愁介は「何だ」と素直に残念がっていたが、初めから断ることをわかっていたであろう沖田は、楽しげにくすくす肩を揺らしていた。


 人が悪いという苦みを込めた視線で見やると、沖田は何故か少しだけ困ったように斎藤から視線を逸らした。珍しい反応が少し気にはなったものの、言及するほどでもないかと捨て置き、静かに立ち上がる。


「沖田さん。俺は永倉さんの元に行ってくるから、土方さんへの報告を頼んでもいいか」

「えっ、私からでいいんですか?」


 沖田が首をかしげ、つられたように愁介も斎藤を見上げる。


 斎藤は頷く代わりに、小さくあごを引いた。


「あんたは俺の立場を知ってるだろうが、永倉さんからすると今の俺が土方さんの元へ行くのは不自然極まりないからな」

「ああ、そうでしたね……。でも今から報告を上げてしまっていいんですか? まだ早いんじゃないかなって気もしますけど」

「いや、この流れも含めて、永倉さんは愁介殿への仲介を了承したものだと俺は思ってる。土方さんには、仔細は後日俺からも報告を差し上げると伝えておいて欲しい」


 淡々と答えながら、今からでは誰が動くにしても容保のほうが早いだろうと斎藤は踏んでいた。さすがに『直接会って話した』などとは沖田にも明かしていないが、既に建白書が渡っていることは伝えている。斎藤の立場上、土方への報告が遅れすぎても面倒になりかねないので、今頃が妥当だろうと頭の隅で計算した。


「頼めるか」

「ええ、わかりました。そういうことなら私も気が楽です」


 明るく胸を叩いた沖田に頷いて、斎藤は愁介にも目礼した。


 愁介がひらりと手を振ったのを見て踵を返し、部屋を後にする。


「……あれ。総司、何か難しい顔してる? もしかしてまだ約束の件すっきりしてない?」

「えっ、変な顔してます? おかしいな、もう納得してますし怒ってもいないんですよ、本当に――……」


 背中にそんな会話を聞きながら、軒端の屋根向こうに見える空を仰ぐ。


 日はそろそろ沈みかけているようで、空が茜に染まっていた。庭先には赤とんぼが数匹飛んでいて、季節の移ろい始めを感じさせた。

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