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櫻雨-ゆすらあめ-  作者: 弓束しげる
◆ 一章六話 揺りの根 * 元治元年 八月
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誰のため

 凝華洞屋敷は、金戒光明寺に比べれば小ぢんまりした佇まいだった。しかし御所のすぐ傍らに建つこともあり、造りも調度品も雅で繊細、寺とは異なる趣があった。広い境内に囲まれた寺よりさらに静かで、漂う香のにおいも寺のそれより上品で少し甘ったるい。


 そんな屋敷の、いつでも御所に入れる南門近くの奥座敷に、容保(かたもり)はいた。


 六畳二間続き、書院造の部屋。その上座で背筋を伸ばして座る容保の様は、良くも悪くも場の雰囲気に合っていた。いつ帝に呼ばれても構わぬように身に着けている直垂(ひたたれ)が、公家装束の(かり)(ぎぬ)直衣(のうし)だったとしても、違和を感じなさそうなほど場に馴染んでいる。


「――なるほど。委細は承知した。面を上げよ」


 森を流れる小川のせせらぎのような中低音に、斎藤は深く下げていた頭をゆっくり上げた。新選組からの遣いとして扱われ、顔も隠さず堂々と表から入ったことに落ち着かない気持ちを噛み締めながら、事の次第をすべて容保に報告し終えたところである。


 愁介は場におらず、次の間に控えて待つということだった。


「確かに斎藤の申す通り、今この状況で新選組に瓦解されることは、会津にとってもあまりに大きな痛手だ」


 建白書に目を落としている容保は、一つ、二つと頷いて深い息を吐き出す。


「永倉の名は余も記憶している。組の中核を成す者として認識しているが、相違ないな?」

「ございません」


 斎藤は首肯を返し、思慮深い伏し目がちな容保の瞳を窺いながら続けた。


「永倉という男は……新選組にとって、非常に貴重な男と存じます。近藤の求心力を支える一人であるばかりか、組の中では最強と言えるほどの腕前を有しております」

「そなたよりも強いのか」


 容保が、意外そうに顔を上げる。


「比べるべくもなく」


 斎藤は小さくあごを引いた。


「人を見る目が確かで、戦闘においても永倉のそれは生かされています。年の功もありましょうが、私では十中八九、負けを喫します。平隊士の二、三十人を失うよりも、永倉一人を失うほうが確実に痛手と見て間違いございません」


 淡々とした説明に、それでも容保は聞き入るように口を引き結んで頷く。


 ゆえに斎藤も、そのまま言葉を止めることはなかった。


「また、近藤はともかく、土方、山南という副長二人はお世辞にも誰からも親しみやすいという性質(たち)ではございません。これを大きく支えているのが、永倉なのです。副長助勤筆頭の沖田も親しみやすい人柄ではございますが、いかんせん、近藤や土方への傾倒が激しい。対して永倉は常に中立で、三者の間に立てる人柄ゆえ、今回のような突発行動に際しても、幹部に食い込んでいる同志の原田や監察方の面々も従うのです」

「……なるほど」

「ただ、永倉とて、新選組の瓦解を望んでいるわけでないのは確実と思われます。今回の署名に誘った隊士の数も、本当に必要最低限に絞られていると私は見ております。永倉の呼びかけをもってすれば、もっと大人数を集めることもできたはず……」

「それをせぬだけの思慮深さも備えている、ということか」


 斎藤の言わんとしたことを汲み上げて、容保は再び建白書に目を落とした。その瞳が、署名の筆跡をなぞるように往復する。


「……それほどの男の言葉が、あの実直な近藤に届いていないというのも少し不思議だな」


 独り言つ声が、部屋の中に溶け消える。


 斎藤が何も答えずにいると、しばらくしてして容保が改めて顔を上げた。


「余の知る近藤と、斎藤から聞いた『永倉の望む本来の近藤』の姿には差異がないように思える。しかし永倉から見て近藤が変わったというのであれば、一考の余地はあるのかもしれない。一度、近藤の意見も聞いてみないことにはどうするか決めかねるが」

「お手間を取らせることとなり、面目次第もございません」

「いや。双方の意見を聞いた上で、近藤ないし永倉を説得しようと思うが、それで良いか。折良くこの後、近藤が訪ねてくる。日々の働きを労うために、招いたところだったのだ」


 斎藤は畳に両手をついて深く頭を下げた。香の染み込んだイ草の香りが、ここを訪れたばかりの時よりも心地良く感じられた。


「御意のままに。勿体ないほどのご恩情、誠に痛み入ります」

「斎藤」


 呼ばれて頭を上げると、建白書を丁寧に折り畳んだ容保は、わずかにくつろぐように傍らの脇息にもたれかかった。体の弱さに加え、やはり近日の激務の疲れが抜けきらないのか、以前よりやつれ気味に見える頬に薄い笑みをかたどって見せる。


「一つ、訊きたい」

「何なりと」


 背筋を伸ばした斎藤に、容保はかしこまる必要はないと言うように軽く手を上げた。


「今回の一件、先にも伝えた通り、会津としても大ごとにはしたくない。ゆえに余の元へ迅速な報告を上げてくれたそなたの判断を、ありがたく感じている」

「勿体ないお言葉です」

「だが……そなたの行動はすべて、本当に会津のためのものなのか」


 思いがけない問いかけに、斎藤は表情を取り繕うことも忘れて動きを止めた。


 瞬きすらできず半端に口を開けて、数拍ほどの間を空けてしまう。


 しばらくの後、ようやく止まった時が動き出したかのように口からこぼれ出たのは、


「……それ以外に、何がありましょう」


 いつも以上に平坦で抑揚のない、斎藤自身すら何の感情も乗っていないと感じるような問い返しだった。


「何か……ご不安を煽ることを申し上げたでしょうか。ご迷惑を持ち込んだ咎は如何様にもお受け致しますが、今後において――」

「いや、そうではない」


 とつとつと言い募った斎藤に、容保は慌てた様子で制止した。


「……そうではない」と繰り返し答えた口元に、何故か寂しげな笑みが浮かぶ。


「すまない、聞き流せ。他意はない」


 そう言われては踏み込んだ追及などできるわけもなく、斎藤は口をつぐんだ。


 消化しきれぬまま、近藤との鉢合わせを避けるためにも退室を余儀なくされる。


 容保は最後まで、物憂く寂しげな笑みを崩さぬままだった。

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