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櫻雨-ゆすらあめ-  作者: 弓束しげる
◆ 一章六話 揺りの根 * 元治元年 八月
73/212

紙切れの重み

 永倉は、迷いのない目で頑然と言い放った。


「腹を切れと言われるならどの道それまでだよ、斎藤。むしろその覚悟もなく建白書なんか差し上げられるもんか。これくらいしないと、今の近藤さんには伝わらないんだよ」


 純粋な怒りと、わずかな失望と。しかしそれ以上の期待めいた親愛の情が、永倉の言葉と表情から垣間見えてしまった。


 ああ、と。もしこの場に斎藤一人しかいなかったのであれば、かつてないほど大きな嘆息を漏らしていたに違いない。


 ――『近藤さんが「頼む」って言ってくれるその一言だけで、俺ぁ頑張れるわけなのよ』

 ――『俺も基本ね、仲間を切り捨てるってのは嫌いなんさ』


 江戸にいた頃から、永倉はずっと近藤と共に並びたいのだと望み続けていた。京に上り新選組として共に都の治安を護るようになってもそれは変わらず、日々の永倉の言動の端々からも溢れていた。


 ――『むしろ必要があれば、誰より近藤先生を立ててくれる人ですよ、永倉さんって』


 いつかの日、沖田が永倉をそう評していた。その通りであったと思う。


 永倉は間違いなく近藤よりも強い腕っぷしを持っているし、人好きのする近藤ほどではないにしても、小隊を指揮し慕われるだけの人心掌握術は心得ている。それでも池田屋や禁門の戦の折のように、永倉は常に近藤の差配に従い、判断を仰ぎ、立てていた。共に並びたいと言いつつも、これまでの新選組の中では近藤を軽んじる言動は一切しなかった。


 だからこそ、此度の一件であからさまな『上下関係』を、他でもない近藤自身から突き付けられたことが余程腹に据えかねたのだろう。


 ……永倉ほどの男の『命懸けの訴え』を下げさせるには、同じだけの覚悟が不可欠だ。


 そう思わざるを得ない真摯な視線に、斎藤は思考を放棄しそうになる脳を叱咤した。


 単純に、今の斎藤が永倉を止めるために命を張れるか、と問われれば答えは否だった。個人的なことを言えば、永倉相手を死に場所と定めるのも悪くはない。が、今はどうしても容保や愁介の顔と葛の存在が脳裏をちらつく。要するに、あまりにも間が悪い。


 かと言って見過ごせばとんだ大ごとになるのは目に見えているし、立場上何もしないわけにもいかない。永倉の説得が不可能となれば結局、容保に負担をかけざるを得なくなるわけだが、それを最小限に抑える手立てを考えなければならない。


 ――何も考えず命を投げ出せたらいいのに。そう思うと同時に、命を投げ出せる相手がいることへの羨望がふつふつと永倉に向きそうになって、斎藤はきつく目を閉じた。


 またもいつぞやのような矛盾のめまいに襲われそうになったが、指の節で強く眉間を押して耐える。考えても無駄なことは考えないほうが良い。


 そうして逡巡して、しばらくの後――……


 斎藤は観念して、そっと息を吐き出した。


「……わかりました。私も署名します」

「おっ、斎藤。まじにか」


 成り行きを見守っていた原田が、喜色の声を上げる。


「ええ……正直、建白書はやりすぎではと思う気持ちは否めませんが」


 苦みは抑えきれなかったが、それでも斎藤は深く首肯した。


 穏便に済ませろという土方の任務からは逸れるが、そちらはどうにでも言い訳が立つ。想定をはるかに超えた永倉の覚悟は結局、斎藤一人の手には余りすぎるのだ。


「とにかく、永倉さんに腹を切らせるわけにはいきません。原田さんもそうですが……署名に助勤の人数が増えるほど、近藤局長も土方さんも、容易に我々に腹を切れとは言いづらくなるはずです」

「ああ、それは一理あるかも。ありがとうね、斎藤」


 永倉が明るく手を打つ。本当に気付いていなかったのか、気付いていた上で今日ここに斎藤を誘ったのか――真意は知れないが、真っ直ぐに向けられるこそばゆいほどの感謝が滲んだ熱視線だけは、間違いなく本物であろうと思えた。斎藤の打算に気付く様子もない、安堵の混じった視線だ。


「島田と尾関はどうする?」


 原田が、永倉に代わって二人を促した。


 互いに監察方として普段から交流も深いであろう島田と尾関は、視線を交わして間もなく小さく頷き合う。


 島田が先に、苦笑交じりの視線を永倉へやった。


「……斎藤先生のおっしゃる通りであれば、ここに監察方が二人加われば、局長にもより事の重大さを感じていただけるだろうな」

「どの道、組に『先』がなければ私とて行き場はありません。死なば諸共ですよ」


 尾関も同じく、覚悟を決めたように正座する膝の上で拳を握り締める。


 斎藤と島田と尾関は順に署名を済ませ、指先を切って血判を押した。


 葛山が最終確認をするように受け取って、狐目を鋭く細める。


「――ええ、こちらで問題ないかと」

「永倉さん」


 斎藤は静かに、改めて口を挟んだ。


「ん? どした」

「葛山殿に伝手があるとのことですが、私に預けてくだされば、愁介殿に頼んでみますよ」

「……斎藤先生は、彼の方と親しくしていらっしゃるのですか?」


 斎藤の提案に葛山が眉をひそめ、訝るように問うた。


「いや、斎藤ってより総司だろ。松平と仲いいのは」


 代わって答えた原田に頷き、斎藤は「私自身は特別仲がいいわけでもありませんが……多少の頼みごとをする程度なら」と補足する。


「ですが、それでは松平殿を介して、沖田先生に今回の一件が知れてしまいませんか?」


 尾関が危ぶむように口元に手を当てた。斎藤はそれに、そっと首を横に振る。


「口の軽い方ではありませんよ。それに万一伝わったとしても、沖田さんとて永倉さんの気持ちがわからない人ではありますまい」

「……だね。松平も総司も、ちゃんと汲んでくれる奴らだと思うわ」


 永倉が目を伏せ、ふっと何かを懐かしむようにまなじりを下げた。


「そうだな……葛山の発案はまじにありがたく思ってるけど、確実に会津侯に届けてくれそうって意味じゃ、松平以上の適任はないかもね。斎藤、頼んだ」


 永倉の判断に、葛山は一瞬ばかり気を損ねたように唇を歪めた。が、すぐに表情を引き締めると、最低限の礼を払うように頭を下げ、斎藤の膝元に建白書を差し出す。


 受け取り、懐に差し込むと――ただの紙切れであるはずのそれに妙な重みを感じて、斎藤は気分が沈むのを感じた。

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