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櫻雨-ゆすらあめ-  作者: 弓束しげる
◆ 一章五話 空ろの胸 * 元治元年 八月
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ぐらつき

 部屋に戻ると沖田はおらず、代わりのように愁介がいた。入り口に背を向け、何か文のようなものを読んでいるらしいが、斎藤が戻ったことは気配で察したらしく「お帰りー」と飄々とした声をかけられる。


 禁門の戦より少しの間を置いてからというもの、愁介は三日と空けず屯所に顔を出していた。ただ、ずっと沖田と行動を共にしているものだから、あの天王山のひと時からこっち、斎藤が愁介と二人きりになることは一度もなかった。


 ――それなのに何故、今日のこの時に限って沖田がいないのだろう。


 前にもそんなことを思ったような気がしつつ、斎藤は自室に入るのを躊躇って固まった。


 しばらくして、不思議に思ったらしい愁介がようやく顔を上げて振り返り、


「……あ、斎藤だったんだ。総司だと思ってた」


 どこか間の抜けた顔で呟いた。


 斎藤は答えず、首を回して所在なく視線を逸らしてしまった。顔は無表情だと思っているが、正直それも確証が得られない。


「何か顔色、悪くない?」


 視界の端で、愁介が腰を上げたのが見えた。迷わず歩み寄ってくるのがわかり、とっさに息を吸って小さな声を出す。


「……殺してくれませんか」


 よりによってこれである。


 愁介は一瞬、動きを止めて、


「ヤだよ、馬鹿」


 当然のように苦りきった言葉で切り返した。


 斎藤は眉根を寄せて下を向く。


「……頭がおかしくなりそうです」

「何かあったの……?」


 怪訝な問いかけに、しかし斎藤はゆるく首を横に振る。


「すみません、何でもありません」


 答えるものの信用されるはずもなく、愁介は改めて歩みを寄せ、斎藤の顔を覗き込んできた。


 気遣わしげにハの字に曲げられた眉の下、猫のような丸い瞳が澄んだ色を揺らめかせる。


 ――足元がふらつく。そんな感覚にさいなまれているだけで、斎藤の体は微動だにしなかったが、それでもまだ、めまいがした。


 愁介が腕を上げ、斎藤の額に手を当てる。熱はないよね、などと呟きを漏らす。


 ……この人は何なのだろう。改めて考えるも、やはり頭は上手く回らない。


 愁介に出会ってから、何かが少しずつずれてきている気がした。淡々と、淡々と、苦い思いを噛み締めながらも葛の元へ逝くことだけを望んでいただけの日々に、光明か深淵かも判断のつかない未知の何かが押し寄せてきているようで、酷く気味が悪い。


 さらに顔をしかめると、何故か愁介が傷付いたような顔をした。


 愁介は「生きてよ」とおもむろに口を開き、斎藤の胸、ちょうど心の臓の上の辺りに、触れるか触れないかの優しさで指を置く。


「……生きて欲しい。そう望むのが残酷だってわかってても、斎藤、お前には生きて欲しい。それが葛の――」


 皆まで聞く前に、それまで重くて仕方のなかった腕が勝手に動いた。


 斎藤は叩き落すように乱暴に愁介の腕を払った。


 愁介が、言葉を呑むように唇を引き結ぶ。


 斎藤は絞り出すように「すみません」と裏腹な言葉を口にした。芯のない声は自分でも驚くほど頼りなく、か細いものだった。


「――おい、斎藤!」


 息巻いた厳しい声が割って入ったのは、そんな時だった。


 横手を振り返ると、廊下の奥から永倉と原田が何やら目を三角にして駆け寄ってくる。その姿に首をひねると同時に、揺らいでいた足元が急に静止した。


「どうか、しましたか」


 返した声も、いつもの抑揚のない平坦なものに戻っている。


 よくわからなかったが、そのことに妙な安心感を覚えた。


「聞いただろ!? 池田屋の報奨金のこと!」


 永倉は斎藤の前で立ち止まるやいなや、きつく声を荒らげた。


「何だよアレ!」と吐き捨てて、激情をこらえるように曲げた親指の節に歯を立てる。


「腹立つ……ッ、近藤さんの奴!」

「近藤さん?」


 斎藤の後ろ、部屋から愁介が顔を覗かせて、不思議そうに問い返した。


 障子で死角になっていたのか、永倉と原田は愁介の存在に気付いていなかったようで、「あ、松平」「よう、いたのか」とそこだけ気が抜けたように手を上げた。


「近藤さん……なのですか? 土方さんでなく」


 斎藤が改めて問うと、永倉は部外者である愁介の顔を見て少し落ち着いたのか、鼻から深く息を吐いた。眉根を寄せた顔は不機嫌そのものだったが、それまでよりも静かな声で淡々と言う。


「土方さんはいいんだよ、あの人は近藤さんと組のことしか考えてないんだから。そういう役回りだし、悪いとは思わない。でも近藤さんはそれを踏まえた上で、きちんと周りに配慮しなくちゃダメだ」


 これに頷いて、原田が苦々しく吐き捨てる。


「池田屋以降、局長局長って敬われることに慣れてきてんじゃねえか、あの人!」

「それじゃダメなんだ」


 永倉はさらに深く頷いて、一つ舌打ちをした。

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