息詰まり
リン――と涼しい風鈴の音が聞こえる。
水面をたゆたうような不確かな意識が、風鈴の音に導かれるように浮上していく。
「……あ、起きた?」
まぶたを開けると、頭上から気遣わしげな声が聞こえて藤堂が顔を覗かせた。
リリン、と風鈴の音がする。
視線を巡らせると、見たことのない天井や、箪笥や床の間が目に入った。まだ新しいイ草のにおいがする。どこかの屋敷の六畳間だろうか、斎藤は敷かれた布団に身を横たえている。風鈴のつり下げられた縁側の向こうには、青々とした椿の木と青空が覗いていた。
「ここは……」
「舞扇亭だよ。店の奥の住まいのほう。あのおばあさん、お富さんっていって、ここの大女将なんだって」
身を起こすと、額に乗せられていた濡れた手拭いが膝に落ちる。その折、落ちていく手拭いが擦れた頬に、何故か鈍い痛みを感じた。
「起きて平気?」
「……どうともない」
答えて視線を返せば、藤堂はようやく安堵したように深く息を吐いた。
「あー、もう……びっくった……。まじにお前が死ぬかと思った」
藤堂はせわしない勢いで手に持っていた団扇をはためかせながらぼやいた。
聞けば、意識を失ってなお呼吸が止まっていた斎藤は、しかし取り乱した藤堂の平手一発でどうにか息を吹き返し、現状に至っているのだという。頬が痛む原因はそれらしい。
今は倒れてから半刻足らずだそうで、医者の見立てでは、軽い暑気当たりだろうということらしかった。
「間が悪いっていうか……命がけの肝試しは勘弁してくれよ、ったく」
藤堂は苦笑交じりに茶化したが、斎藤は曖昧に口をつぐんで目を伏せた。
自分でも何がどうなっていたのか、よくわからない。まだ夢うつつのような感覚で、ひとまずわかることといえば――また死ぬ機会を逸し、しかしそれを残念とも喜ばしいとも感じられず酷く無気力だ、ということだけだった。
黙っていると、藤堂が身を屈め、下から覗き込むように斎藤の顔を見上げてくる。
瞬き一つで視線を返せば、藤堂は「心配だなぁ」と唇を尖らせた。
「そういえば、お富さんに会う前に言いかけて、結局言ってなかったことだけど」
「……何だ」
「オレが江戸から帰ってくるまで、お前、ちゃんと生きてろよー?」
軽い口調だったが、瞳は刺し貫かんばかりに鋭く、真摯だった。
「お節介だな」と呟くと、藤堂は苦く眉根を寄せて口元にだけ笑みを浮かべる。
そこへ部屋の外から「お加減、どうどすか」とたおやかな京弁がかけられた。
藤堂が「はぁい」と声を返すと、廊下に面した障子が音もなく開き、お富が顔を覗かせる。お富は斎藤が起き上がっているのを見て、ほっとしたように目尻のしわを深くした。
「えろうすんまへんどしたなぁ……暑い中、随分お手をわずらわせてしもて」
「いえ……」
首を振るも、お富はしずしず部屋に入ってくると、斎藤の前に小さな包みを置いた。
「心ばかりですが……」
確かめるまでもなく中身が金子であることは察せられた。炊き出しへの差し入れの量といい、元よりそういった性分なのだろうが、斎藤が倒れたことで余計な気を遣わせたらしいこともまた明白である。
斎藤は包みに手を伸ばし、けれどそれをそのまま、お富の手元へ返した。
「お気遣い、痛み入ります。しかしこちらは受け取れません。手前こそ、みっともないところをお見せし、大変なご迷惑をおかけ致しました」
「せやかて……」
「物入りのご時勢です。それに此度、都を護りきれなかった我らがこれを受け取ることは義に反します。どうしてもとおっしゃるなら、どうぞまた街にご支援をお願い致したく」
断る口実を淡々と述べたにすぎないが、お富は穏やかに表情をほころばせて頭を垂れた。包みを懐にしまうと、背筋を伸ばして人の好い笑顔を斎藤と藤堂に向ける。
「よろしければ後日、御礼の席を設けさせておくれやす」
「わあ、ありがとうございます。嬉しいけど……でも実はオレ、じきに江戸へ発つんです」
「左様でございますか……ほな、お戻りになられましたらお越しになっておくれやす。いつでも構しまへん、うちは藤堂様と斎藤様をいつでも歓迎さしてもらいますよって」
藤堂の遠慮に、お富は笑顔を崩すことなく答えた。
そこまで言われては斎藤も藤堂も断りきれず、「それじゃあ……」「お言葉に甘え、いつか必ず」と揃って返礼する。
斎藤の具合も悪くはなかったので、今日は退散させてもらうこととして、店を後にした。
「ほんとにもう平気?」
帰りの道中、幾度か藤堂に声をかけられた。
斎藤はその度「ああ」と頷いたが、藤堂の目はいつまで経っても疑わしげなままだった。斎藤自身、まだどこか地に足がつかぬ心地でいたので、上手くかわすこともできなかった。




