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櫻雨-ゆすらあめ-  作者: 弓束しげる
◆ 一章四話 望みの鎖 * 元治元年 六~七月
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生きること

 斎藤はゆったりとした動作で足を返して、体ごと後ろを振り返った。


「……生きてたね。良かった」


 途端に藤堂と同じことを、けれど藤堂よりも安堵しきった声音で呟いて、愁介が口元をほころばせる。


 斎藤は目礼し、周囲に他に人の気配がないかを確かめてから口を開いた。


「……殿は、ご無事ですか」

「うん。帝のお側にずっとついてたみたい。実はまた体調崩して臥せってたんだけど……寝てる場合じゃないって御所に入ってったよ。おかげで取り乱されていた帝も、父上の姿見てからは落ち着いた様子だったって聞いた」


 言い終えると共に、愁介は斎藤の目の前に歩み出た。木々の合間から降り注ぐ月光に照らされ、それまでよりも姿がはっきりと浮かび上がる。


 池田屋の時ほどではないが、それでも愁介は煤と返り血に汚れ、また池田屋の時と同じく瞳の光を失うことなく凛と佇んでいた。


 いつかの時よりも心なしか涼しい夜風が、草木を揺らしながら吹き抜ける。


 紅鬱金(べにうこん)の結い紐が髪と共にやわらかく流れた。月光を反射した結い紐がちかりと輝き、やはりいつかと同じように桜色を錯覚させる。


「……ひと月ぶりだね」

「ええ。貴殿がおいでにならず文だけを寄越すので、沖田さんがぼやき倒していましたよ」

「う、そっか……オレも総司には会いたかったんだけど……ていうか、総司のほうから会津本陣に来てくれてもいいんだけどなぁ」

「無理ですよ、あの人の立場では。組に余計な波風を立ててしまいます」


 抑揚のない声で答えると、愁介は「それもそうか」と納得の声を上げた。生真面目な顔をして「後で謝らないと」と呟きつつ、かと思えば突然、ふっと表情を崩して苦笑いする。


「あー、もう……本当、生きてて良かったぁ」


 先刻以上に切実で、いっそ気の抜けたような呟きだった。


 斎藤は目を伏せて、声色を変えず淡々と返した。


「……此度の戦では、死ぬつもりはありませんでしたから」

「此度の戦では、か……」

「ええ。貴殿が、会わせるとか会わせないとか、そのようなことをおっしゃっていたので」


 だから死ぬ気になれませんでした、とありていに言う。


 愁介は複雑に顔をしかめ、「んん」と相槌なのか呻きなのかわからない声を上げた。


「……オレさあ。このひと月、新選組の屯所に行かなかったのは、忙しいのもあったけど、斎藤と顔を合わせられなかったからでさ」

「私としては、できればさっさとおいでになって(かづら)様のことを洗いざらい話していただきたかったのですが……私も私で用もなく本陣へ向かうわけにはまいりませんので、叶いませんでした」

「トゲあるなぁ……」


 愁介は軽く頭を引っかいて苦笑を深める。


「オレは色々……考える間が欲しかっただけなんだけどね」

「会いにきてくださったということは、話す気になっていただけたのでしょうか」

「お前、葛のことになると本当に饒舌になるね……」


 愁介は目元を手で覆いながら、戸惑ったように独り言ちた。


 細く長い息を吐いて愁介が口をつぐむのを、斎藤はじれったく見据える。


 少しして愁介が顔を上げ、ようやく何か聞けるだろうかと思ったものの、


「……オレ、ほんっとーにわかんないんだよね、何が正しいのか」


 その声は言葉通り、本当に困惑しきった様子で普段より上ずっていた。


「あのね。斎藤がもうちょっと生きてくれたら、話してもいいかなって思うんだ」

「もうちょっとって……」


 斎藤は苦りきった顔をした。


「葛様が亡くなったと聞かされて、既に四年もだらだらと生き続けているのですが」

「その言い草が気に食わないんだよ、オレ。人生無駄みたいな……」

「無駄です」

「断言すんなよ、無駄じゃないよ」


 言葉と共に軽く向こう脛を蹴られた。池田屋の時でもそうだったが、愁介はどうも足癖が悪いらしい。


 少々じんとしびれた痛みを感じたが、表情を変えず見下ろすと、愁介は嘆息して頭痛に耐えるようにこめかみを押さえた。


「……生きるってね、投げ出さないことだと思うんだ、オレ」


 視線を横に流し、愁介は都に嘆くような目を向けた。


「葛はお前に後追いして欲しいなんて、これっぽっちも思っちゃいなかった。何があっても、お前にだけは生きて欲しいと望んでた」

「……勝手ですよ」

「うん、わかってた。それでも望んでたんだ、葛に『生きろ』って言ったのが、お前だったから」


 反論できず、口をつぐむ。


 愁介はそんな斎藤に目元をたわめて、薄く微笑んだ。


「ずるいのはわかってる。だからオレを恨んだっていい。でも、たぶん、今の斎藤に葛のことを話したって、本当に何も変わらない気がするから……それは、ダメだから」


 言葉を区切り、愁介は改めて斎藤に真っ直ぐ向き直った。


 曇りのない瞳で見上げ、腰に手を当てて軽くふんぞり返る。


「生きてよ。そしたら教えてあげる、葛のこと、全部」

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