斬ってください
愁介が、鋭い瞳で斎藤を睨み上げて――それまで以上に、酷く傷付いた顔をしていた。涙こそないが、泣きそうだ、とも見えてしまうほどに。
「何、だよ……自分勝手な奴。本当に非道い奴……! 世の中には、生きたくても生きることのできない奴が、たくさんいるのに! お前が死んで悲しむ奴だっているのに、そいつらのことは全然考えないんだ!?」
言葉を詰まらせたところに、まくしたてられる。
斎藤はそこで、呆気に取られかけていた意識を取り戻した。
「あ……っ、あなたに何がわかりますか! 俺が死んで悲しむ人間? その人はもうこの世にはいない!」
怒鳴り返すと、猫のような目がさらに大きく見開かれる。
斎藤は頭の芯が鈍く痛むのを感じながら、愁介の腰にあった脇差しを鞘から抜いた。
「ッ、おい、何すんだ……!」
「斬ってください」
斎藤は柄を返し、愁介に抜き身を差し出した。
愁介はいよいよ絶句して、体を硬くする。二人の立つ屋敷の濡れ縁の脇、中庭の木に止まってやかましく鳴く蝉の声や、むせるような夏の暑さなど忘れたとばかりに、顔から血の気が引き、寒々しい色に染まる。猫のような丸い目が大きく見開かれ、幼さの残る花びらのような唇が、小さくわななく。
けれど斎藤は、そんな愁介の手に柄を握らせ、刃を自分の首元に沿わせてもう一度、はっきり告げた。
「斬ってください。あなたなら構わない」
それは身分だとか、腕っ節だとか、諸々のことを含めて言ったに過ぎなかったのだが、愁介はそんな斎藤の言葉に、まるで自分のほうが刺されたみたいに悲痛に顔を歪めた。
細い腕に似合わぬ強い力で斎藤から逃れ、愁介は呼気を震わせながら一歩、距離を取る。弾みで互いの手から離れた脇差しが床板に転がり、ゴトンと重い音を立てた。
「……ん、なの……っ!」
愁介は全身で拒否するように首を横に振った。
斎藤が表情を動かさず小さく舌打ちして、落ちた脇差しを拾おうと身を屈める。
が、手を伸ばしたところで先に愁介が奪い取るように脇差しを自身の腰に戻した。
「わけ、わかんない……葛は……葛が、そんな……」
「は……?」
「今の、お前に……あわせ……」
かすかな呟きに、ガンと鈍器で頭部を殴られたような衝撃を受ける。
「会わせる? っ、それはどういう……!」
とっさに問い返すも、愁介は踵を返して脱兎のごとく駆けていった。
「待……ッ!」
斎藤は慌てて後を追った。
けれど廊下の角を曲がったところで、
「わ……っ!?」
そこから現れた人物にまともにぶつかってしまい、足を止められてしまう。互いに反動で一歩引き、ぶつかった肩口を押さえた。
「さ、斎藤先生?」
やわらかな大坂訛りに意識を向けると、普段着の濃茶の着物袴を身に着けた山崎が、困惑顔で斎藤と背後に交互に目をやっていた。
「そんな慌てて、何かあったんですか……? 今の、松平殿ですかね?」
見ると、愁介は既に姿を消していた。あの様子では、もう屯所も飛び出してしまっているだろう。今から追っても、追いつける気がしなかった。
――だったら、黒谷に……。
考えるものの、今の状況で仮に容保に請うてみたところで、目通りを許される気がしなかった。害を為すな、と言われているのに明らかに傷つけてしまったのだ。何に傷ついたのかは、全くわからなかったにせよ。
斎藤はくしゃりと髪をかき混ぜて嘆息した。
……かすかに、手が震えている。
静かに呼吸を繰り返し、ざわめく鼓動を落ち着ける。
少しして、斎藤は不思議そうに佇んでいる山崎に言葉をかけた。
「山崎さん……少し個人的なことを、頼まれてくれませんか」
「……松平殿のこと、でしょうか?」
驚くでもなく確認された問いに、ひとつ頷き返す。
いくら容保から見定めろと命じられているといえど、そもそも新選組への目付け間者として、会津の者に必要以上に近付けない今の斎藤の立場では、愁介を探るには限界がある。
「愁介殿の出自と、周りの人間関係を……」
「心得ました」
山崎は人の好い笑顔を浮かべて、首を縦に振った。
「先の明保野亭での一件の後、全く同じことを別の方にも頼まれておりますから。よろしければ、ご一緒にご報告差し上げますよ」
「別の……?」
思わず訊き返したものの、すぐに一人の顔が頭に浮かぶ。
――土方さんか。
肩の力を抜くと、山崎にも伝わったようで再び頷かれた。
「斎藤先生、お顔の色があんまり優れませんが……何か焦っておられるようでしたら、老婆心ながら一つだけ」
山崎は懐から手拭いを出し、それを斎藤に差し出すと、やわらかく頬を傾けた。
「無駄と思える遠回りこそが、近道ってやつです。少々、間はいただくことになると思いますが……何かわかり次第必ずお知らせしますから。どうぞ心穏やかに待っててくださいね」
的確な言葉に、斎藤は内心で舌を巻いた。
思わず頬に苦笑いを浮かべ、手拭いを受け取り、頭を下げる。
「よろしくお願いします」
「はい。ほな、私は失礼しますね」
山崎が去った後、借りた手拭いで首元を拭うと、赤茶けた色がにじんだ。視線と手拭いを渡されるまで気付いていなかったのだが、どうやら愁介の脇差しをあてがった時、わずかに切れていたらしい。
「……焦るな、か」
手拭いを汚した鉄錆び色を見下ろしながら、ぽつりと呟く。
まぶたを閉じると、先刻に見た、愕然と傷ついた愁介の顔が浮かぶ。
――よもやあの一瞬、愁介に葛が重なって見えたなど……
「……本当に馬鹿らしい」
確かに焦っているのかもしれないと、斎藤は自嘲するしかなかった。




