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櫻雨-ゆすらあめ-  作者: 弓束しげる
◆ 一章四話 望みの鎖 * 元治元年 六~七月
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解放されたいだけなのに

 ――無性にいら立つ。


 そんなやり切れぬ思いを抱えたまま部屋に戻る途中、驚いたことに濡れ縁の向かいから愁介が歩いてきた。


「……あ」


 気付いた愁介が、酷くぼんやりとした声を上げる。


 互いに足を止めたところで、斎藤はわずかに身を引いて道をゆずった。


「沖田さんなら、出かけましたよ。すぐそこの壬生寺に行くと言っていましたが」

「そう……」


 愁介は頷いて沖田を追って行くかと思いきや、何故かその場に立ち止まったままだった。


「……何か?」

「うん……柴さんの一件の折は、ありがとう」


 静かに頭を下げられる。


 斎藤は思わず胸中で舌打ちし、だから蒸し返すな、と八つ当たりで毒吐いてしまった。


「礼をいただくようなことなど、私は何もしていません」


 ほとんど切り捨てるように言って、愁介の隣をすり抜ける。


 沖田がいないのだから、もしかすると葛のことを訊ける機会でもあったかもしれないが……今は腹がむかむかして、落ち着いて会話できる心持ちではなかった。


 ところがすれ違いを果たそうとしたところで、不意に腕を掴まれる。


 驚いて視線を返すと、愁介はいやに痛ましい表情で顔を伏せていた。


「……何かご用なら、言葉でお願いできますか」


 不機嫌さをあまり隠すでなく、再び低く問いかける。


 愁介は驚いたように斎藤を見上げた。


 沖田と同じ、拳一つ分ほど低い位置からじっと見据えられ、えも言われぬ居心地の悪さを感じる。


「……柴殿の一件、慰めて欲しいのでしたら沖田さんのところに行ってください。私ではお役に立てませんよ」

「何、その言い方?」


 訝るように眉をひそめ、愁介は首を傾けた。


「別に慰めて欲しいとか、そういうんじゃないよ。オレはただ、お前に……」

「そうでないのなら、離していただけませんか。今は貴殿と話したくないのです」


 本来ならばかしずいてでも口にできぬ拒絶を、しかしここが新選組の屯所で、己が新選組隊士を名乗る者であることを利用して斎藤ははっきり言い切った。


 ……やり切れない。


 あの時、柴と声を揃え、むしろ柴より率先して迷いのない真っ直ぐな瞳を斎藤に返した愁介を見ていると、否応なく息詰まりを感じてしまう。


「何で……?」


 唖然としたその問いには答えず、斎藤は冷めた一瞥を返して「失礼」と腕を振り払った。


 改めて去ろうとすると、しかし愁介は斎藤の背に「オレは!」と悲痛な声を投げかける。


「柴さんを立派だと思った! でも、同じくらい胸が痛くて、苦しくて……」

「だから俺の知ったことじゃないと言っている!」


 反射的に声を荒らげ、斎藤は振り返った。


 愁介は面食らったように口をつぐみ、斎藤を凝視していた。それもそうだろう、仕えるべき身分相手に不躾に声を荒らげるなど、無礼討ちにされても文句は言えない所業である。


 けれどわかっていて、斎藤は愁介の言葉を跳ね除けた。


 むしろ、無礼討ちにされるなら、それが――。


 拳を握り締め、斎藤は平坦な声で、しかし本心から畳み掛けるように言った。


「愁介殿、はっきり申し上げて鬱陶しいです。人の死という現実を、側にいる誰もが悲しむだなんて、そんなお伽噺は信じないことですね。私は今回の一件で柴殿をうらやみ、妬みすらしました。皆が感じている『やり切れなさ』など私には理解しえないものなんです。理解したくもない!」

「……な、に……?」

「腹が立つんですよ、あれほどあっさり……俺は、どんなに望んだって――」


 未だに解放されないのに。


 続く言葉をつむぐ前に、表情を強張らせた愁介に突然、胸倉を掴まれた。


「お前、何言ってんの?」


 間近から覗き込む愁介の瞳には、大木の(うろ)のような深い漆黒が塗り込められていた。


 思わず息を呑むと、愁介は唸るように声を震わせる。


「うらやましい……? うらやましいって、死んだことが?」

「……ええ」

「お前、本当に死にたいの? 池田屋で俺に殺されようとしたの、本当に本気だったの?」

「……そうですよ」


 虚ろな瞳を見返しながら、はっきりと答える。


 途端に愁介は放心したように顔から表情を削ぎ落し、斎藤の襟元から手を放す。


「そう……本気で死にたかったんだ……」


 まるで己に再確認させるように呟きを漏らす。


 愁介は左手で額を覆い、かすかに吐息を震えさせると、


 次の瞬間、反対の手を力いっぱい振りかぶり、容赦なく斎藤の左頬に平手を叩きつけた。


 パァン、と乾いた音が響く。


 一拍遅れて、痛みが湧き上がる。斎藤は顔をしかめ、愁介を睨み文句を言おうとした。


 ところが視界に入ったものを見て、とっさに口を閉ざしてしまう。


 愁介が、鋭い瞳で斎藤を睨み上げて――それまで以上に、酷く傷付いた顔をしていたからだ。涙こそないが、泣きそうだ、とも見えてしまうほどに。

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