苦み
ぼんやりまぶたを開けると、眠りに落ちる前に聞こえていた雨音と打って変わり、蝉が必死に鳴きわめくやかましさが斎藤の耳を突いた。
……また、あの頃の夢か。
眠りで疲れが取れているはずなのに、体は重く気だるい。目を閉じて体が沈み込みそうなほど深い溜息を吐くと、ふと夢の――記憶の欠片が、改めてまぶたの裏によみがえった。
――『いげねッ……! お前らも怒られっぞ!』
――『おれ達と同い年くらいだったね。ふつうの、子……』
まさかとは思うが、あの時の子供が柴司か。顔ははっきり覚えていないが、そう思うと何となく腑に落ちる気もして、斎藤は再び嘆息した。
――余計なことを、思い出させてくれたものだ。
胸の内で毒ついて、小さく舌打ちする。
葛との思い出が『余計』だとは思わないが、当時の歯がゆさを蒸し返されるのは、ただでさえすべてが歯がゆい今の斎藤にとっては拷問に等しかった。
もう一度チッと舌を打ち、ふと視線を横に投げる。
開けっ放しの障子の向こう、軒端のさらにその奥の空に、いつの間にか晴れ間が覗いていた。わずかに欠けた真昼の月が、夏の濃い青空の中でぽかりと白く浮かんでいる。
――『おれが月に行っても、お前は来ちゃダメだよ』
鼓膜の奥に響く葛の声に、斎藤はそっと腕をわずかに上げて月に手を差し伸べた。
仮に今、死んだとして……果たして自分は、月に行けるのだろうか。
考えた時、不意に頭上に影が差し、持ち上げた手を優しく掴み取られて、
「……ッ!?」
冷や水でもぶちまけられたような衝撃に、斎藤は腕を振り払って跳ね起きた。
「あ、ごめん。何となく掴んじゃった」
振り返ると、驚いたように目を瞬かせる愁介の姿があった。
「な、……っ」
「えーっと……二日ぶり? お邪魔してます。総司はさっき厠に行ったよ」
少々ばつ悪そうにあごを引きながら、愁介は指先を障子の外に向けた。
しかしばつが悪いのはそれこそ斎藤のほうであって、とっさに言葉を返せなかった。寝起きとは言え何故気配に気付けなかったのか。一寸前の己を張り倒してやりたい気分だ。
心の臓が痛いほど激しく脈打つ。
視線を泳がせると、畳に手をついた愁介の手が、何となしに目に留まった。
――あまり大きくない、小さな手だった。多少節くれ立ってはいるが、指が細く華奢で、刀を握るにはどちらかといえば不向きな手。斎藤に比べれば、一回りは小さいのではないだろうか。女のようだとまでは言わないが、まるで成長過程で時が止まった少年のような――……
「……そんなじっくり見ないで欲しいんですが」
視線に気付いた愁介が、拗ねたような声音で呟いて手を引いた。
顔を上げると、愁介は気まずそうに視線を逸らして自身の手を後ろに隠す。
「ひょろっこいの、割と気にしてるから突っ込まないでね」
「……失礼しました」
斎藤も顔を伏せて、沈滞した空気を振り払うように立ち上がった。
布団を片付け、一瞬ばかり愁介に視線を投げかける。
「御前でご無礼仕りますが、着替えさせていただきます」
「あ……ごめん。どうぞお気になさらず」
言葉をまま受け取り、押入れ箪笥から着替えを取り出して寝巻きの帯を解く。
沖田がいる時は気にしたこともないのに、会話のない部屋に自分が着替える衣擦れの音が響くのが、非常に居心地悪く感じられた。
「……愁介殿」
「うん?」
灰の木綿着物に黒の麻帯を締めながら言葉をかけると、からりとした声が返ってきた。
改めて見やると、愁介は感情の読めない静かな表情で、斎藤に代わってじっと月を見上げていた。
「……葛様のこと、お聞かせ願えませんか」
率直に請うと、愁介は振り返った。
斎藤を見上げ、苦いものでも口に放り込まれたような顔をする。
小さな唇が何かを言おうと開きかけた時、しかし蝉の声に交じり、静かな足音が近づいてくることに気付く。斎藤が廊下へ視線をやったのと同時に、愁介も結局、口を閉じた。
程なくして沖田が戻ってくる。
「あ、斎藤さん。おはようございます、もう起きたんですね」
「ああ……」
「お帰り、総司」
「ただいまですー」
ころりと明るく表情を変えて迎える愁介に、沖田も笑顔で部屋に足を踏み入れる。
斎藤は小さく吐息して袴の紐を締め、体裁を整えた。
「あれ、斎藤さん、どこかに出かけるんですか?」
「別に……ただ、今この部屋にはいたくない」
低く返すと、それが自分達のせいだとでも思ったのか、愁介と沖田が揃いも揃って眉をハの字に下げた。
何故か捨てられた子犬二匹に見上げられているような、妙な罪悪感に襲われる。
「……あなた方のせいではないですよ。ただ少し夢見が悪かったので、気晴らしをしたいだけです」
沖田は「何だ、そうだったんですか」と息を吐いたが、愁介は曖昧に笑って視線を横に流していた。
「あ、そうだ、斎藤さん。そういうことなら気晴らしついでに、ちょっと表の様子を見てきてくれません?」
「表……? 屯所の?」
「はい。厠から戻る時、何やらちょっと騒がしかったんですよ。気になったんですけど、愁介さんを待ちぼうけさせるわけにもいけないと思って、そのまま戻ってきてしまったものですから――」




