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櫻雨-ゆすらあめ-  作者: 弓束しげる
◆ 一章三話 竹取の月 * 元治元年 六月
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会津の助っ人

 その日は深夜から酷い雨が降り続いていた。


 池田屋の一件から五日ばかりが経った、本来ならすっかり日も昇っているであろう明けの時刻。しかし空が厚い雲に覆われているため、世間はまだ薄暗い。


 そんな最中、斎藤はまさに濡れ鼠となって夜勤の見回りから新選組の屯所に帰還した。一応は合羽も着ていたのだが、途中で野分き(台風)のような爆風が吹き荒れて、ほとんど無意味となってしまったのだ。着物は重く道も悪く、全く余計な体力を使わせられたものだと、屋根の下に入りながらぼんやり考えた。


「……下番の報告はしておくから、諸君は解散してくれていい」


 共に巡察に出た平隊士達に投げかけた斎藤の声は、少々剣呑な響きをはらんでいた。しかし別に機嫌が悪いわけではない。池田屋から向こうの疲れと相まって、単に眠いというだけである。


 返礼し去っていく隊士達の表情にも、相応に疲労の影が窺えた。


「おお、斎藤殿! 今お帰りか!」


 不意に廊下の奥から大きな声が響く。


 振り返ると、剃髪の中年男が大股で歩み寄ってくる姿が目に映った。


 濃い眉とひげが特徴的な、着物越しにもわかるほど筋肉質でいかつい体躯を持つ男。背丈は斎藤と同じほどだが、隣に並べば細いわけでもない斎藤が妙に華奢に見える――新選組副長助勤、武田(かん)(りゅう)(さい)である。池田屋の一件勃発の折、永倉と共に桝屋におもむき、古高を捕らえた男だ。


 斎藤はそぼ濡れた着物を軽く絞り、顔に張り付く髪をおざなりにかき上げながら低い声で「どうも」と挨拶を返した。


「ちょうど良うござった、申し訳ないが永倉殿のところにおる会津兵を一名、呼んで来てはいただけんか」


 武田はこちらを労うわけでもなく、慌しく羽織を着込みながら言った。


 玄関の上で立ち止まる武田を見やりながら、斎藤は「はあ」と気だるい声で答える。


「何か、あったのですか」

「東山の明保野亭に、不逞の浪士が潜伏しているという垂れ込みが入り申してな。池田屋の残党やも知れず、これから身共が御用改めに参るのだが……共に向かう一名の会津兵が、先刻から部屋に戻っておらぬようでして」


 そういうわけで身共は隊士を点呼して参る、と武田は言うだけ言って、そのまま道場へ足早に去っていった。


「……会津兵が、この屯所にいるのですか?」


 まだ場に残っていた一人の隊士が、後ろからおずおずと問いかけてきた。


 斎藤は視線を返すことはなく「ああ、昨夜から」と端的に答える。


「臨時の助っ人だ。十数名ほどだが……さすがにうちの隊士にも、連日の残党狩りで疲労の色が出ているからな」

「左様でしたか……。……わたくしが、呼んで参りましょうか?」


 永倉の部屋へ、ということだろう。けれど斎藤はこれに首を振り、袴の水気を絞ってから玄関を上がった。


「副長の部屋に伺うついでだ。気にしなくていい」


 答えると、隊士は深々と頭を下げる。それを受け流しながら、斎藤は静かに歩き出した。


 濡れた足裏の皮膚が板張りの廊下に張り付き、少々気持ちが悪い。


 それに、やはりどうにも眠く、とにかくさっさと会津兵を道場へやって、土方に巡察の下番を報告して、着替えて――。


 順を追って考えている間に、目的の部屋が見えてきた。


 近付くと、中から聞き知れぬ声と原田の豪快な声が漏れ届いてくる。


「これは何とも、ご立派な!」

「だろ!? この腹の一文字のおかげで『死損ねの左之助』っつって、一部じゃ恐れられたモンよ!」

「……失礼」


 ぼそりと形だけ礼を尽くして顔を覗かせると、永倉と原田、そして斎藤と同じ年頃の見知らぬ男が一人、揃ってこちらに視線を向けた。


 同室の藤堂は部屋の隅で眠っていた。雨の中でさえ外に声が漏れるほど騒がしいというのに、よく眠れるものである。とはいえ斎藤も、今なら同じように眠れる気がしたが。


「わあ、斎藤。巡察から帰ったの? ずぶ濡れじゃん、お疲れさん」


 書物を紐解いていたらしい永倉の呆気に取られた言葉に、斎藤は「どうも」と会釈した。


 そうして膝元を見やると、着物を諸肌脱ぎにして腹を突き出している原田と、その原田の腹に手を触れている青年の奇妙な光景があったわけだが、斎藤は細かいことには触れず、改めて青年に一礼する。


「副長助勤、斎藤一です」

「あっ、ご丁寧に……会津の(しば)(つかさ)と申します」


 柴は慌てた様子で姿勢を正し、会津訛りをこぼしながら頭を下げ返した。この真夏の雨天でも着物を崩さずかっちり身に着けており、気恥ずかしそうに伏せられる垂れ気味の双眸は、裏表のなさそうな爽やかさを感じさせる。


 なるほど、良くも悪くも人が好さそうな男だ。それで与太話に捕まったのか……と、斎藤は一瞬だけ原田に呆れた視線を投げかけた。


 要するに柴は、原田に腹の傷自慢を聞かされていたのである。


 原田は昔、仕官していた折に揉め事を起こし、「腹さえ切れぬ臆病者」と罵られた言葉をそのまま買って、相手の目の前で切腹をして見せたことがあるらしい。適切な処置のおかげで一命を取り留めて今に至るわけだが、以来、原田は自身の度胸の据わり具合を示す逸話として、事あるごとにこれを自慢する癖がある。


 両手の指の数では足りないほど繰り返し聞かされている元試衛館組からしてみれば、既に驚嘆の思いなどどこ吹く風となっている逸話だが、原田本人がさして気にしないものだから、余計に困ったものである。


 斎藤は吐息すると、改めて柴に「このような姿で失礼仕りますが」と平坦な声をかけた。


「武田さんが貴殿の戻りをお待ちですので、ご足労願えますか。御用改めに向かう由にて」

「あ……っ、申し訳ねえなし!」


 柴はハッと目を瞬かせて立ち上がった。


 永倉が「ほらぁ、左之が引き止めるから」と苦笑して横槍を入れる。


「すみませんね、柴さん。はいどうぞ、これ」


 永倉は、脇に置いていた槍と鎖帷子を取り上げて柴に差し出した。


「誠にかたじけない。拝借します」


 きびきびとした姿勢で永倉の前に膝をついた柴は、恭しい手つきでそれらを受け取った。


 詰まるところ、元は足りなかった武具を永倉に借りに来ただけだったのだろう。その立ち姿を見れば、なるほど永倉と背格好が近かった。


「……屯所の道場は、ご存知でいらっしゃいますか」

大丈夫(さすけね)……っと、すみません。存じております。では失礼致します」


 朗らかに頷いた柴は、改めて永倉と原田に一礼すると、斎藤にも軽く頭を下げてから部屋を出た。


 かと思えば、


「あ……?」


 廊下に出てすぐのところで立ち止まり、振り返って斎藤をまじまじと見据えてくる。

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