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櫻雨-ゆすらあめ-  作者: 弓束しげる
◆ 一章二話 暮れの橋 * 元治元年 六月
33/212

黒谷ではない

 見定めろ。


 言葉の真意を汲み取れぬまま、斎藤は黒谷の本陣を後にした。結局、愁介本人も不在ということで会えずじまいだった。


 屯所へ戻る道中、外気の暑さも忘れて黙々と思案する。


 見定めろと言われても、何を基点に見定めればいいのか。会津にとって益となるか否か、あるいは個人としての善し悪しか。いや、そもそも何故、斎藤が見定める必要があるのか? 害を為すなというなら、むしろ関わるなと命じるべきではないのだろうか。跡継ぎにしないとは言っていたが、何か別の役を負うべき人なのだろうか――?


 しかしいくら考えても納得のいく結論に至らず、斎藤は胸中に複雑な思いを抱えたまま、屯所に帰還してしまった。


 命じられた以上、他に道はないわけだが……とにかく、釈然としない。


 斎藤は、池田屋以来、屯所の入り口に立つようになった門番達の一礼を受け流し、深々と嘆息しながら玄関を上がった。


 屋根の下に入ると、こもった空気がまとわりつき、今になって夏の外気に不快を覚える。


「……暑い」


 意図せずぼやいた声は掠れていた。喉が渇きを訴えていると気付いて、もうひとつ吐息を重ねる。


 斎藤は再び下駄に足をつっかけ、庭を回って井戸端に寄った。


 道場からは稽古の喧騒がかすかに聞こえてくるものの、庭は人影もなく、静かだった。唯一、井戸端にある若いサルスベリの木では、大きな蝉が我が物顔で鳴いている。


 池田屋以来、まだ残党狩りなど慌ただしさの残る隊内。だが、動ける人手はほぼ出払っており、当番以外の者は皆、少しでも疲れを癒すべく部屋で休んでいるのだろう。


 息抜き(ヽヽヽ)()散歩(ヽヽ)と称して外に出る斎藤のような人間は、どちらかといえば今は稀有だ。


 斎藤は、井戸から水を汲み上げて口に含んだ。その冷たさに、気分が少し軽くなる。


 ついでに懐から取り出した手拭いを軽く絞り、首や胸元に滲んだ汗を拭き取った。


 夕刻というにはまだ早い時刻。さてこれから部屋で刀の手入れでもしながら、愁介について改めて思案してみるか――。


 考えて、着物の衿元を整え、手拭いをすすいだ時だった。


「――あっはは! っかしいの!」


 離れた場所から、この屯所では耳慣れない、いやに澄んだ声がかすかに聞こえた。耳慣れないが聞き覚えのある、青空に突き抜ける春風のような、高くも低くもない瑞々しい声だ。


 意図せず「は?」と剣呑な息が漏れる。


 斎藤は手を止めて、目をすがめた。


 ――自室の方角から聞こえたのは、気のせいだろうか。


 落ち着きかけていた気分が、途端にそぞろになる。


 ひとまず手近にあった桶に新しく水を汲み、それを手に自室へ足を向けた。


「――いやあ、ぱっと結びつきませんでした。認識していたのと、年齢も身長も違いすぎていて」

「ははっ、それはお互い様じゃないかな、オレだってそうだよ、人伝いだもん。それに、もう何年前の話だろう?」


 部屋に近付くと、開けたままになっている障子の向こうから、沖田と、そしてやはり聞き覚えのある声の主が、会話を弾ませているのが聞こえてくる。


 斎藤はこめかみに指を当てた。言いようのない気まずさに、部屋の手前で立ち止まる。


「あ。斎藤さん? お帰りなさーい」


 障子に影が映らないよう気をつけたにも関わらず、部屋に入るか入るまいか逡巡する暇さえ与えられず、沖田の声に呼ばれた。


 斎藤は苦く顔をしかめたが、仕方なく腹をくくり、表情を消して足を踏み出す。


 顔を覗かせると、部屋の中には、池田屋の一件で倒れて以来、微熱が続いて寝込んでいた沖田と、もう一人。こちらに背を向けて、あぐらをかいている人物がいた。


「……随分と楽しそうですね」


 声をかけると、寝巻きのまま布団に上体を起こしていた沖田が「あはは」と妙に明るい表情で笑った。


 そしてその脇にいた件の人物が、高い位置でひとつにまとめた艶やかな黒髪をひるがえしながら、斎藤を振り仰ぐ。紅の伊達衿が覗く白の単衣に、濃紺の袴をかっちりと身に着けている様が、随分と爽やかな印象を受けた。


 その人――愁介は、幼さの残るどんぐり眼を瞬かせ、気の抜けるような声を上げた。


「……あー」


 あー、ではない。何故ここにいるのか。次に会うのは黒谷で、と言っていたのではなかったか。


 疑問を喉の奥に押し込め、斎藤はその場に膝をついた。手にしていた桶を脇にのけ、「その節は失礼を致しました」と愁介に恭しく一礼する。


 返答がないので上目に窺うと、愁介は困ったように頭をかいていた。何故か沖田に視線を投げ、二人して苦笑を交し合う。


 何の目配せか訝る間もなく、愁介は「まあ、お互い様ということで。あの時はオレも世話になりました」と、あっけらかんとした様子で斎藤に軽く頭を下げた。


 ……何が、どうなっているのやら。


 胸の奥を爪先で引っかかれているような、とにかく落ち着かない気分である。


 斎藤は再度一礼してから、沖田の傍らに寄った。


「沖田さん、汗をかいてるだろう。後で使うといい」


 ぼそりと告げて、井戸から持ってきた桶を枕元に置いた。


「わ、ありがとうございます!」


 手を合わせて表情をほころばせる沖田を一瞥し、斎藤は部屋の奥にある刀掛けの元へ向かった。これ以上は二人の会話を邪魔する気もなく、さっさと部屋を出ようと考える。


 ところが先刻まであれだけ盛り上がっていたというのに、沖田も愁介も何も言わないものだから、刀を置くだけの間ですら居心地の悪さにさいなまれた。


 何やらいたたまれず、斎藤は結局、刀を置きながら沖田に声をかけた。


「……起きてていいのか」

「そこまで病人じゃないですよー、平気です」


 返ってきたのは、確かに病人とは思えないほどの明るい声だった。微熱が続くとだるいのだ、と文句を言っていた今朝方に比べ、幾分か回復したようだ。


 知らず小さく息を吐き、とにかく早く去ろうと刀置きに下げていた上体を起こす。


 愁介には色々と訊きたいこともあるが、どうせ沖田がいては話せない。今日は諦めて、ひとまずは道場にでも――。


 考えかけたところで、ちゃぷん、と桶水の波打つ音が聞こえた。

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