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櫻雨-ゆすらあめ-  作者: 弓束しげる
◆ 一章二話 暮れの橋 * 元治元年 六月
32/212

見定めろ

 池田屋での一件から、三日が経った。


 まだ残党狩りは残っているものの、事の次第にある程度の区切りがつき、その日、ようやく訪れた金戒光明寺の最奥の間で、


「――本当に、すまなかった」


 斎藤の顔を見るなり容保(かたもり)が口にしたひと言が、これである。


 新選組との落ち合う時刻を、家老達が容保に通さず、結果的に会津の援兵が役に立たなかった件についてだ。


 斎藤は平伏したまま、ゆるりとひとつ瞬いた。太陽が天辺を回って間もない時刻。陽光も射し込まぬ、ひんやりとした畳の感触を手のひらに感じながら、またこのお方は……と感心するやら呆れるやら。


 容保に聞こえぬよう小さく吐息してから、そっと口を開く。


「……いいえ、殿。勿体のうございます。新選組に大した被害はございませんでしたし、ご家老方の判断とて、すべては御家のためを思ってのこと……」


 淡々と答えると、わずかに腹を立てたような、あるいは落胆したような低い声で「面を上げよ」と言われた。従えば、斎藤を見据えている容保の伏し目がちな瞳と視線が合う。


 今日は珍しく、容保の傍らに側近や家老が控えていない。二人だけしかいない八畳間に、シャワシャワと遠い蝉の声が響いた。部屋に焚かれた爽やかな檜香のにおいが、夏の暑さを遠ざけるように鼻腔をくすぐる。


「……そなたに言うべきことではないやもしれんが、余は、情けないのだ」

「情けない……?」


 突然の告白に、斎藤はわずかに片眉を上げた。


 容保は小さく頷くと、とつとつと言葉を重ねる。


「皆が御家のためを思うてくれたことは嬉しく思うし、ありがたくもある。だが、あんな形で一件が済んだのでは、余は何のためにここにいるのか――」

「……僭越ながら、殿をないがしろにするお気持ちなど、ご家老方にはありますまい。聞き及んだところによりますと、あの日、殿は夕刻からまたお倒れになられたとか……。ゆえに『報告を控える』という結論を出されたにすぎないのではないでしょうか?」


 斎藤が首を傾けると、容保は視線を膝元に落とす。


「確かに、最終的にはそう報告を受けた。彼らの話も理解できた。本陣の護りを思えば、結果として同じく援兵は遅らせたやもしれぬし、そうでなくとも援兵の数を減らすなどの決断を、余自身も下していただろう」

「なれば――」


 やはり気に病むことはない。


 告げようとしたのを、手を上げて遮られた。


「それでも、あれは余の判断ではなかったのだ。結果として新選組に助けられたが、守護職を承る身として、会津の主として、正しく見定め決断できなかったことは、やはり情けなく、申し訳なく思う。……すまなかった。新選組には、感謝している」


 哀しげに眉を下げる容保に、斎藤は言葉を返さず、代わりに深々と頭を下げた。


 ――律儀。真面目。良くも悪くも容保はそんな性分だ。騙まし討ちなど当たり前の今の世では、さぞ息苦しかろう。


 斎藤が上体を起こすと、容保は「……すまない、本題に入ろう」と声音を改めた。それまでとは別の意味で言葉の調子を抑え、神妙に池田屋の顛末を問うてくる。


 斎藤は目礼すると、視線を伏せたまますべてを簡潔に報告した。古高の吐いた企みが事実であったことや、浪士達が、それらを会津の仕業にして罪をなすりつけようとしていたこと。新選組が独断で動いた理由。その時の彼らのやり取りと、その後の一連の流れ――。


 最後に『長州では一部の軍勢が、池田屋での仇討ちを声高に叫び、挙兵を企んでいるらしい噂がある』ということも付け加えて、話を締める。


「……手綱はしかと握る必要があるでしょうが、新選組は現状、充分に利用価値のある組織と思われます。仮に長州挙兵の噂がまことならば、先駆けとして盾として、再び御家の役に立ちましょう」

「そうか……」


 言葉の終わりに、容保がかすかに苦笑したのが伝わった。


 ――何を笑うことが……?


 疑問の瞳を投げかけようとしたところで、しかし容保は入れ替わるように目を伏せて「相わかった」と話に区切りをつけてしまう。


「ご苦労だった、斎藤。引き続き、しばらくは一件の後始末に追われることとなろうが、よろしく頼む」


 あからさまに、かわされた気がした。


「……承知、仕りました」


 まあ、せん無いことか。考えて、乾いた唇を軽く舌で湿らせる。


 一拍の間を置いてから、斎藤は膝の上に乗せていた手をきつく握り締めた。普段ならば一礼して部屋を去るところを、改めて容保を見据える。


 ――むしろ本題は、ここからだ。


 静かに息を吸い、伏し目がちな視線を庭に流している容保に向かって口を開く。


「殿、不躾ながら、最後にひとつお伺いしたいことが――」

「――愁介のことか?」


 皆まで言う前に切り返されて、斎藤はわずかに目を瞠った。


 また、容保が苦笑を漏らす。困ったように、どこか切なそうに。


「……先の報告から抜けていたので、黙殺するつもりなのかと思ったぞ」


 容保は改めて斎藤を見やり、たしなめるように言った。


 先刻の苦笑の意味を意外なところで知らされ、斎藤は知らず詰めていた息を吐き出す。


「……ご存知、だったのですか、殿」

「知るも知らぬも……。その節も、すまなかったな。愁介は一件において役にも立ったであろうが、面倒もかけたことだろう」


 容保は親しげに頬をゆるめ、小さく歯を見せて笑った。


 その表情に、胸の内がざわめく。


 ――あれは誰だ。


 あの日から抱いたままの疑問が、それまでよりも一層強く胸中をかき回し始めた。


 ……あれから三日経った。あの時、愁介は自身を『落胤』だと名乗っていたが、斎藤は未だにそれを信じていなかった。容保が亡き前妻との間に子を儲けられなかったことも、その後、女を寄せ付けず独り身を貫いていることも知っている。朴訥として生真面目な容保に、良くも悪くも他所で子を作る甲斐性がないことだって、周知の事実なのだ。むしろそのせいで跡取りを儲けられないことが、家老達の悩みの種でもあるわけで。


 なのに何故、容保は愁介について身内のことを話すように破顔するのか――。


「……恐れ多くも……()の方は、ご自身を殿のご落胤と名乗られました」


 斎藤は、かすかに震える吐息を抑えながら訴えた。


「失礼ながら、殿にそのような方がおられぬことは、家臣一同存じております。それを、どのような事情があろうと偽り名乗るなど、不届き千万ではございませぬか」


 言うと、容保が驚いたように目を丸くした。すぐさま眉根を寄せ、険しく表情を引き締める。


「まさかとは思うが、斬るつもりだったのか?」

「……お許しがあらば、そのつもりでした」


 ――既に一度ならず二度ほど対峙したとは、とてもではないが言えなかった。斎藤を見据える容保の瞳が「斬るなど言語道断だ」と真摯に語っていたからだ。


 斎藤が唇を引き結ぶと、容保は深く嘆息し、片手で目元を覆ってしまった。


 出方に困り、あごを引く。窺うように上目に容保を見るが、容保は目元を隠したまま動く気配はない。


 シャワシャワと蝉が鳴く。


 障子から吹き込む風が、生ぬるく包み込むように部屋全体を撫でていった。


「――厳密に言えば、確かに余の子ではない」


 充分すぎるほどの間を置いた後、容保がぽつりと呟いた。


 顔を覆う手は下ろしたが、視線は落としたままで、斎藤に向けられることはなかった。


「だが、余は実子同然のようにも思っている」

「……ご養子、ということですか?」


 聞き及ばぬところで、そんな話が進んでいたのだろうか。


 しかし容保は首を左右に振った。


「養子ではない。跡継ぎにするつもりも、ない」


 随分と無茶苦茶な言い分に、斎藤は顔をしかめた。


「では、何者なのです。彼の方は『山口』をご存知でした。私自身の存在だけならともかく、殿もご承知の通り、時に徳川将軍家の隠密すら務める『山口』は、容易に人に知れて良い家柄ではございません」

「愁介の身の保証は、余が請け負う。よって愁介に害を為すことは許さない」


 間髪容れず返された。厳しく、硬い声だった。


「……では、詮索無用と?」


 斎藤は声の調子を落として問い返した。要は駒ごときが知る必要はない、ということか――暗にそう結論付けて、力なく身を引く。


 ところが、


「いや」


 容保は慌てたように視線を跳ね上げた。「そうではない」と首を横に振って、


「余が、言えた立場ではないのやもしれぬ。だがこうなった以上、止め立てはせぬ。余、個人の頼みとして聞いてくれ。斎藤自身の目で、『愁介』という人間を見定めてもらいたいのだ」

「見定める?」

「ただし害は為すな。余が命じられるのは、それだけだ。……それだけ、なのだ」


 何か葛藤するように言葉を選ぶ容保に、斎藤は訝しく眉をひそめるしかできなかった。

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