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櫻雨-ゆすらあめ-  作者: 弓束しげる
◆ 一章一話 池田屋の桜 * 元治元年 六月
29/213

ハーゲ、ハーゲ

 あまりの出来事に、斎藤は一瞬足をもつれさせて転びそうになった。その場にいた近藤や隊士達の口からも、ワッと驚愕の声が上がる。


 斎藤は慌ててたたらを踏み、それでも無意識に腰の刀に手をやった。


 が、抜くより先に、足を一歩引いただけで踏み止まった土方が、かしいだ体勢から腕を伸ばして愁介の額を鷲掴みに捕らえた。


「……ッにしやがんだ、手前(てめ)ェ!」


 口の中を切ったのか、唇の端に血を滲ませながら土方が怒鳴る。振り乱された髪の合間から覗く目が、夜叉のようにつり上がっていた。


「あ……ああ、何だ、待て! 待ってくれ、トシ! 斎藤くんも!」


 ところがこれに制止をかけたのは、意外なことに近藤だった。


 近藤は、元が濃い海老色の着物と黒の羽織を重く濡らしていたが、怪我一つなく至って元気そうに、いつもの威厳ある姿でそこに立っていた。そしてすぐ傍らまで駆けつけていた斎藤を押し止めるように右手を差し出し、もう片方の手で、愁介の頭を掴んでいる土方の腕を落ち着かせるように叩く。


 なのに、ギリギリと頭を締め上げられているはずの当の愁介が、苦痛に奥歯を噛み締めながらも、次いでこんな言葉を絞り出した。


「何しやがる、じゃねぇよこのトンチンカン!」


 あまりの暴言に、土方が一旦下ろしかけた手にまた力を込める。


「あァ!?」

「待ってくれ、トシ! 松平殿も、一体どういうことかまず説明を……」

「馬鹿野郎、阿呆ッ、間抜け、ナスビ、ボケ! ハゲッ!!」


 最後の愁介の言葉に、誰かが「ぶふぉッ」とふき出した。


 確実に、笑い声だった。


 思わず顔をしかめてチラと見れば、玄関土間の隅にしゃがみ込んで肩を震わせる原田の姿があった。傍らには、同じく肩を震わせてしゃがみ込み、血染めのたすきをぐるぐるに巻いた右手で原田の口を押さえ込んでいる永倉もいる。


「トシ、手を下ろせ、松平殿は敵ではないよ、本当によく立ち回ってくださったんだ。我々も非常に助けられた! 松平殿も! さすがにそれ以上の暴言を重ねるようであれば……! ……っふ……、いくら会津様のお身内と言えど、許せませんぞ」


 近藤は厳しく言い連ねたが、どうやらじわじわとこみ上げてきたらしく、最後の最後でほんのわずかに頬を引きつらせていた。


 張り詰めた緊張感が、一瞬でゆるむ。


 それでも土方と愁介、当人達は、ぴくりとも表情を動かさず睨み合いを続けていた。


 あまりに馬鹿馬鹿しくて、斎藤も静かに警戒の態勢を解いた。何やら子供のけんかに飛び込んでしまったようで、少々いたたまれない。


「……局長さん」


 少しして、土方に頭を掴まれたまま、愁介が硬い声で口を開いた。挑戦的に土方を睨み上げているその目を、一瞬ばかり近藤へ移す。


「助太刀に来てくれた隊士さんから、心配されてるって聞いたんですけど。沖田さんは無事です、安心してください」

「ああ、そうですか! 良かった……突入後、顔を見ていなかったものですからな」


 近藤が、肩からひとつ荷を下ろすように目をたわませた。同時に、愁介を掴んでいる土方の腕もわずかにゆるむ。


 その一瞬を見逃さず、愁介は土方の手を払い落として言葉を続けた。


「報告が遅くなってすみませんでした。……それで、話は変わるんですけど」

「はい、何でしょう?」

「ちょっと、この人お借りしていいですか。ケンカしないんで。ちょっと話すだけなんで。その後に皆と一緒に片付け始めますんで」


 愁介は土方の胸を刺すように鋭く指差した。明らかに剣呑な様子である。


 が、それに反して言った「ケンカしないんで」という子供みたいな言い訳に、近藤はどう対応していいものか困った様子で頭をかいた。間を置いてから「ええ、まあ。ケンカしないなら構いませんよ」と返した辺り、どうやら愁介の気迫に圧されているらしい。


 愁介は一礼すると、呆気に取られている周りを置き去りにして、早々に背を向けた。「あー、(いっ)てーっ」なんて呟いて、両手でこめかみをさすりながら再び階段を上り始める。


 かと思いきや、三段ほど上がったところで足を止め、振り返った。


「来てってば」


 足を動かさない土方に顔をしかめながら、不遜に言う。


「何で手前ェに指図されなきゃなんねぇ」


 土方はあごを上げて、愁介をきつく睨んだ。圧のある低い声は、地の底から湧き上がるような恐ろしさがある。当然だが、元々愁介に抱いていた悪印象が最悪に変わったらしい。


 しかし普通の隊士なら身をすくめて引き下がるその剣幕にも、愁介はたじろぐことなく、


「はァ?」


 小馬鹿にするように口を歪め、首を傾けて、一歩引くどころか三歩も四歩も踏み出す勢いで言葉を重ねた。


「大の大人が愚痴愚痴かまさないでくんない。でかい図体してワガママ抜かすな? 局長さんの許可下りてんだよ、来いって言ったら来いよ。例えそっちになくてもオレはあんたに用があるんだよ。それとも何? ハゲって言われてそんなにキたの? 実は図星だったの? 実はもう散らかしちゃってるの?」

「なんっ、てめ……ッ」

「ハーゲ、ハーゲ」


 愁介はべぇっと舌を出すと、再び踵を返して階段を上り、二階の奥へと消えてしまった。


 土方はしばらく拳を握り締めて肩を震わせていたが、不意に必死に笑いをこらえている隊士達を視線で串刺しにすると、


「……殺す」


 物騒な呟きを残して、愁介の後を追っていった。


「おい、殺すなよ! 仕返しは拳一発に留めてくれよ、恩人だぞ! ああ、いや身分から言えば拳もマズいか……? せめて暴言だけに留めておいてくれよ! あと、二階の指揮は任せたからな!」


 近藤がずれているのか沿っているのか、妙に間抜けな言葉をその背にかけたが、土方の耳に届いていたかはわからなかった。

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