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櫻雨-ゆすらあめ-  作者: 弓束しげる
◆ 一章一話 池田屋の桜 * 元治元年 六月
28/212

飛び蹴り

「隊長ッ!」


 切羽詰った声に呼ばれ、斎藤は本能的に身構えて振り返った。


 その瞬間、建物の奥から男二人が突進してきたのが目に入った。敵方は息をつく間もなく隊士の一人を鍔迫り合いで圧し、もう一人の隊士の足を見事に払って倒し、刀を振り上げる。


 斎藤はとっさに踏み込んで、刃を振り下ろそうとしている男の腹に低姿勢の突きを繰り出した。相手が顔を歪めたのを確認するのもそこそこに、男に刺さったままの大刀から手を離して自身の脇差を掴み、鍔迫り合いをしているほうへと向き直る。


 が、脇差を抜く必要はなかった。


 しゃん、と相変わらず場違いな涼しい音を響かせた錫杖の先が、敵のあごを見事に突いていた。


 あごを強かに打たれ脳を揺らした男は、骨を抜かれたように力を失って、昏倒した。


「……山崎さん、助かりました」


 斎藤は安堵の吐息を漏らした。


 助けられた隊士も、垣間見た死地に唾を飲み込みながら、山崎に深く頭を下げる。


「いえ、間に合って良かったです」


 山崎は落ち着いた動作で錫杖を持ち直すと、瞳を和ませ、普段見せる穏やかな表情で微笑んだ。


 純粋な戦闘員ではない、と言っても、山崎は抜きん出た棒術の名人である。いてくれて助かったと、斎藤はもう一度だけ静かに頭を下げた。


「では、すみませんが、表にも報告をお願いします」

「心得ました」


 山崎は深く頷くと、改めて笠を目深にかぶり、ざわつき始めた裏道の喧騒を縫って、足早に表通りへと消えていった。


「隊長……」

「さ、斎藤先生」


 調子の落ちた声に振り向くと、隊士達が面目次第もないといった様子で頭を垂れていた。


「ありがとうございます」

「お手をわずらわせてしまい、申し訳ありません」


 神妙にする二人を見て、斎藤は軽く自身の髪をかき混ぜた。


「……反省はすべてが終わってからだ。倒れている敵を縛っておいてくれ」


 抑揚のない言葉を返すと、二人は深く息を吐き、あるいは拳を握って「はい」と表情を引き締めた。そして迅速に、昏倒している男をたすきで縛りにかかる。


 一瞥して、斎藤は改めて池田屋に意識を集中させた。


 ――いつの間にか、近藤の気合の声も、戦闘中独特の雑多な音も、聞こえなくなっていた。今はそれよりも周囲の野次馬の喧騒が大きく耳につく。


 今の敵が、『最後のあがき』だったのだろうか。


 眉をひそめ、斎藤は一層目を凝らして屋内を見た。


 すると奥から、先刻様子見に向かわせた隊士の一人が戻ってきた。


「近藤先生と土方先生が合流されました! 新選組方の勝利ですッ!」


 隊士は拳を高く掲げ、ぐっと強く握り締めた。声を上ずらせ、安堵に頬をゆるませる。


 裏口に残っていた二人も、互いに手を握り合って喜びの視線を交し合っていた。


「……そうか。ご苦労だった」


 斎藤は一人表情を変えず、淡々と答えた。目を伏せ、事切れた敵に刺したままだった己の大刀を抜き取ると、懐紙でこびりついた血を強く拭う。


「……二人が合流したということは、敵が出て来ることもそうそうないだろう。俺も一度表に回ってこようと思う。ここを任せるが、いいか」


 手を握り合っていた二人に視線を送ると、二人ははっとした様子で姿勢を正した。


「承りました!」

「二度と失態は致しません!」


 頷き、「すぐ指示を出すようにする」と言葉を付け足して、刀を鞘に納める。


 そうして、ようやく血の雨が降ったであろう惨事の場に、足を踏み入れようとした。


「あ……ッ」


 その時だった。


 二階から、修羅場の跡に似つかわしくない澄んだ声が降ってきた。


 何の悪戯か、この瞬間、空を覆っていた雲がすうっと流れて月が顔を出した。


 斎藤の足元に、影が差す。


「はス……ッ、や、っ……あーっと、斎藤さん! 斎藤!!」


 何をどうひっくり返ったら蓮だの何だの呼び間違えるのか、斎藤は盛大に顔をしかめた。


 あごを上げると、瓦屋根に反射した月の光に視界を焼かれた。目を細め、視点を二階の窓の桟から乗り出している人影に合わせる。


 ――生きていたのか。……逃げなかったのか。


 相手の――愁介の姿を認めた瞬間、そんな思考が頭の隅をよぎっていく。


 愁介は白の着物をところどころ黒く(ヽヽ)染め、戦闘で上気した頬にも擦れた汚れをつけていた。髪も、汗だか何だかわからないものでしとどに濡れて、顔に張り付いている。


 しかしそんな黒ずんだ格好をしていても、愁介は瞳にギラギラと精気を溢れさせていた。怪我をした様子も、気を動転させた様子もなく、当たり前のようにそこに立っている。


 修羅場慣れ、しているようにも見えた。斎藤よりも明らかに年若く、新選組よりも実戦に出ることが少ないはずの、自称会津侍なのに。


「ねえ、土方さんどこ! おたくの副長!!」


 愁介が桟に手のひらを叩きつけながら問うてくる。何を急いでいるのか、言葉を出し切った後も桟を叩く手は止まらず、今にも駆け出しそうなほど足もうずうず揺れている。


「副長に何か――」

「副長に直接用がある!」


 言伝を承ろうかという斎藤の内心を見透かしてか、愁介は蹴散らすように斎藤の言葉を食った。戦闘の興奮故か、あるいは元来ああいった性分なのか、祇園会所に現れた時とは違い、口調も随分と粗野になっている。


「どこ? まだ着いてない? 着いてる? 中? 一階? 外?」


 矢継ぎ早にぽんぽんと問いを投げ寄越すので、それが頭上に一つ一つ重なってくるみたいに錯覚する。斎藤は、振り払うように軽く頭を振った。


「……副長は表口で指揮し――」

「表か、ありがと!」


 結局愁介は皆まで聞かず、顔の横を切るように手を振って、踵を返していった。とたとたと、軽い足音が遠ざかっていく。


 斎藤は眉間のしわを深くした。あまりいい予感がせず、自身も足を踏み出す。


 下駄を履いたまま池田屋に上がり、大股で先を急いだ。


 血に濡れた畳や床板は滑りやすく、障害物(ヽヽヽ)もいくつか転がっていたが、目を向けず通り過ぎる。裏階段の脇を抜け中庭も素通りして、ようやく奥に玄関土間を臨む厨へと出る。


 その瞬間、


「――おい、こらッ、そこの副長!」


 ドン、ダンッ、と、玄関土間の正面――斎藤の立っている横手にある表階段を、何段か飛ばしに駆け下りる音が響いて、


「何してたんだアンタは……ッ!」


 姿を現した愁介が、何事かと振り返った土方の頬に、


「この馬鹿野郎!」


 軽やかな足取りで勢い良く弾みをつけて、跳び回し蹴りをお見舞いしたのだった。

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