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櫻雨-ゆすらあめ-  作者: 弓束しげる
◆ 一章一話 池田屋の桜 * 元治元年 六月
27/212

池田屋

 ――修羅場。


 紙に書けばたったの三文字で味気もないが、目の前に広がるのは、まさにそれだった。


 三条小橋にある旅籠、池田屋。一階と二階、すべて合わせたところで部屋数が十に足るか足らないかという程度の、決して大きくはない店。灯りが消され、夜よりも一層深い闇が塗り込められた屋内からは、刀のぶつかり合う金属音と太い気合の声、敵か味方かもわからない、倒れ伏した人間の呻き。そして、戸口に立つだけでむっとむせ返るような濃い血のにおいが漂っていた。


「……っ、近藤さんは無事なのか……? 新八? 総司、平助ッ!!」

「おい、原田!」


 鴨川四条から脇道を使い、駆けつけて早々。土方が指示を出す前に、原田が大声を張って屋内へ飛び込んでいく。


「ッの馬鹿が!」


 止めようとして空を切った手を握り締めながら、土方は声を震わせた。そうして何を思ったか、握り締めた拳で己のこめかみをガツンと殴りつけて、


「斎藤、裏ァ!」


 骨に響くような怒声を上げた。


 一瞬、不覚にも立ち止まっていた斎藤は、はっとして地を蹴る。後ろに数人がついてくる気配を感じながら建物の脇に回り込み、池田屋の裏口へと疾走した。


 ――濃い。


 駆けながら、スンと鼻を鳴らして袖口でこする。心悪さに顔をしかめ、知らず高鳴る鼓動を落ち着かせようと、大きく息を吐いた。


 ここまで濃い血のにおいをかいだのは初めてだった。殺した人間の数など知れたものではないし、怪我を負って己が血のにおいをかいだことも、手元を狂わせて全身に返り血を浴びたことだって過去に幾度かあった。しかし、こんなにも凝縮された生臭さは、かつて経験がない。


 近藤組は、総勢でも十名ばかり。それが一体、あの狭い屋内で何人を相手にしているのだろうか――。


 わずかに武者震いして、


 わずかに口角が上がったのには、自分では気付いていなかった。


 正面から見て奥行きの長い池田屋の裏口に駆けつけた時、二階の窓枠を越えて、屋根から転がるように裏庭へ跳び下りてくる人影が見えた。


 池田屋の裏庭は、塀際にいくつかの低木が植えられているだけの視界の開けた場所だ。跳び下りてきた二人が隊服を身に着けていなかったのは、すぐに見て取れた。


 斎藤は即座に抜刀し、相手がこちらに刃を向ける前に踏み込んで、真一文字に凪いだ。呼気が抜けたような呻きが眼前に漏らされる。名も出自も知らない男が、その場にくずおれた。


 もう一人の男が、震えた両腕で刀を振り上げたのが目の端に映った。が、とっくに修羅場の空気に圧倒されていたようで、罵声どころか気合の声の一つも上げず、気迫もない。


 斎藤はかがんで体をひねり、男の向こう脛を凪いだ。後のために生かそうと思ったのだ。


 しかし同時に、後から着いた隊士の一人が男の喉を突いて風穴を開けた。即死だった。


「必要でない限り殺すな、生け捕れ!」


 足を引いて倒れ込んでくる敵をかわし、斎藤は血刀を振って隊士達に命じた。改めて視線を巡らせ、意識を集中させて耳を澄ませる。


 中から、土方の指示した隊士達がなだれ込んだのであろう喚声が聞こえた。一層激しく剣を合わせる金属音が溢れ返り、恐らく近藤のものと思われる気合の声が、ひと際大きく轟いてくる。目を凝らせば、裏から覗く廊下には誰かが倒れ、また誰かは部屋の襖を突き破ってしなだれかかるように伏しているのが見えた。ちらほらと、うごめく人影も。


 完全に収拾がつくまで、まだしばらくかかりそうだった。


 ――中へ、()きたい。


 衝動に狩られ、うなじの辺りがぞくりと逆毛立つ。


「中の様子を――」


 見に行く、ここは頼んだ、と。


 言いかけた。


 ところがそれを、「斎藤先生!」と強い大坂訛りに引き止められた。


 斎藤は反射的に、相手を射殺すような意気を込めて背後を振り返った。しかし場違いな、しゃりんという涼しい金属音に正気を取り戻し、詰めた息を吐く。


 振り返った裏道の先には、手に錫杖を持ち、黒い袈裟に身を包んで笠を目深にかぶった一人の行脚僧がいた。修羅場には酷く場違いな姿だが、彼もまたれっきとした新選組隊士――島田と同じ諸士取調役、兼、監察の山崎(すすむ)という男だ。


「……山崎さん」


 確認するように呟き、斎藤は刀を持たない左の拳を握り締めた。


 一度目を閉じて、ゆったりと開く。そうして、しゃりんしゃりんと音を響かせてこちらに駆け寄ってくる山崎を横目に、隊士達を振り返った。


 四人の平隊士は険しく眉根を寄せて斎藤を、あるいは池田屋の闇を見据え、睨んでいる。


「……二名、中に入って様子を確認してきてくれ。くれぐれも油断するな、死んでいると見せかけて生きている奴もいるかもしれない」


 口早に命じると、「はッ!」と短く鋭い返事を残して、手前にいた二人が池田屋の中へ駆け込んで行った。


 見送り、「残りはここで待て」と残った隊士に指示を出す。


「先刻同様、裏から逃げる敵を逃がすな。屋根にも注意を向けていろ」


 隊士達は深く頷き、それぞれの刀や槍を握りなおし、緊張の糸を視界全体に張り巡らせるように構えていた。


「……山崎さん、お疲れ様です」


 斎藤はひとまず隊士達に場を任せ、傍までたどり着いた山崎に目を向けた。


「お疲れ様です、先生。こっちの様子はどうですか?」


 山崎は一体どこから疾走してきたのか、肩で大きく息をしていた。暑いのだろう、かぶっていた笠を大儀そうに脱ぎ、眉間に深くしわを寄せて池田屋を見上げる。笠の下、高く一つにまとめていた髪からも、細かい汗が小さく散った。


 年は斎藤より三つ四つ上ばかりで、普段は穏やかな笑顔の似合う人当たりのいい青年だ。が、高くも低くもない身長と声、人好きするが特別特徴もない落ち着いた相貌が、行脚層姿を見事必要以上に目立たせず、夜闇に溶け込ませている。この場だからこそ少々不釣り合いな格好だが、生まれ育ちによる大坂弁も相まって、都の人混みにまぎれれば誰にも違和感を持たれず動けることだろう。


 ただ、そんな山崎も、今は表情に行脚僧どころか、上人張りの威厳と険しさを滲ませていた。


 その横顔を見据えながら、斎藤は静かに告げた。


「私達も、今着いたばかりです。まだ中の様子も把握しきれていません。表は土方さんが指揮を取っています。中からは、局長の気合が聞こえますが……」


 改めて現状を口に出すと、波立っていた心が鎮まるのを感じた。


 完全に出遅れた――その悔しさと虚しさが胸に湧く。先ほど疾走してきたせいで今更になって噴き出してきた汗が、斎藤の頬やあごにも伝い、不快感がより増した。


 斎藤は握り締めていた左の拳を開き、その甲で汗をぞんざいに拭った。


「山崎さんは、何故ここに? 確か、屯所番だったのでは」

「山南先生の指示で動いてました。会津の援兵なしに出陣されると聞きましたんで、数の少ない局長の隊を補佐するようにと」


 答えて、山崎も身に着けている甲当てで首元の汗を拭う。


 斎藤は納得して、小さく頷いた。


「感謝します。……それで、屯所に報告を?」

「いえ、伝令は別の隊士が向かいましたんで、私は長州屋敷へ行っておりました。独断ですが、ここから逃げ出した浪士らに救援を呼びに行かれたら、厄介やと思いましたからね」


 確かにその通りだと、言われてまた一つ納得する。


 山崎は状況を冷静に判断することに長けている。土方ですら、先刻の様子からしてまだ長州屋敷にまでは頭が回っていなかったのではないだろうか。


「動きは?」


 斎藤が軽く首を傾けると、山崎は一度だけ首を横に振って、安心してくれと言うように頷いた。


「恐らく大丈夫です。硬く門を閉ざしたままでした。屋敷の近くに、ここから逃げたと思われる浪士の死体が転がっとったんですけど……放置されておりました。長州毛利家は、今回の騒動とは『関わりなし』の姿勢を貫くもんと思われます」


 筋の通った簡潔な報告に、斎藤は吐息しながら二度、三度と小さく首を縦に振った。


「わかりました。表に土方さんがいます。私はまだしばらくここを動けませんので、申し訳ありませんがそちらにも――」


「隊長ッ!」


 切羽詰った声に呼ばれ、斎藤は本能的に身構えて振り返った。

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