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櫻雨-ゆすらあめ-  作者: 弓束しげる
◆ 一章一話 池田屋の桜 * 元治元年 六月
24/212

落胤

「誰だ、テメェ!」


 斎藤が口に出しかけた言葉は、噛み付くような原田の声に遮られてしまった。


 斎藤と沖田は同時に、最小限の動きで会所の外に目を向けた。


 隊列を組んでいた皆々が、一斉にこちらに背を向けて警戒態勢を取ったのが見て取れた。鎖帷子が揺れ、土を踏み締める音が響く。


 互いに顔を見合わせてから、斎藤と沖田はそれぞれ土方と近藤の元へ駆けつけた。


「土方さん、どうしたんですか」


 斎藤は、傍へ寄るなり口早に問うた。しかし返答がない。


 訝しく思って見上げれば、土方は愕然とした様子で固まって、大通りに面した道筋に視線を投げている。


「土方さん……?」


 首をかしげ、斎藤が倣って視線を流した、その先に、


「――怪しい者じゃありません。新選組の方々とお見受けして、声をかけただけです」


 ひとつの人影が見えた。


 どこかで聞いた気のする、澄んだ声だった。快活だが、抜けるような青空に吹き上げる、穏やかな春風を思わせるような声。


 斎藤は目を凝らして、人影を見据えた。


 相手が街の明かりを背負っているせいで、顔がよく見えなかった。ただ、風になびく、高い位置でくくられた長い髪が――


 風に揺れる、たくましくも雅な桜の木を彷彿とさせた。


 その瞬間、相手が一歩前に踏み出した。隊士達が持つ提灯の灯りが、相手の顔を照らし出す。


 斎藤は小さく息を呑んだ。沖田に似た背格好に、あどけなさの残る猫のような瞳。そして、我の強そうな上がり眉。


 間違いない。昼間、四条の大橋で出会った少年だった。会津の侍ではなかろうかと感じた、あの少年。


 まさか、会津が援兵を寄越したのか?


 斎藤は驚きを隠せず、素早く周囲を見回した。


 しかし案の定と言うべきか、少年以外に人影はなく、気配もなかった。


 斎藤はすぐに援兵の可能性を打ち消して、改めて少年に目を向けた。


「重ねてお願い申し上げます。それがしも、同行させてください」


 少年は物怖じしない凛とした佇まいで、そんなことを言った。


 胸に、じわりと疑念が湧く。馬鹿がつくほど正直で忠義に篤く、和を重んじることで知られている会津の侍が……『殿の命』として布かれているであろう『待機』を無視して、単身で新選組に味方しに来るだろうか?


 ――否。


 ましてや少年を「会津侍では」と考えているのは、この場で斎藤一人だけだ。その上で、会津と新選組しか知らない情報を携えた見知らぬ侍が現れるなど、何らかの不測の事態が起きて敵方に情報が漏れたか、何か罠でも仕掛けにきたか、と訝るのは自然なことだ。


 思考が至り、斎藤は静かに腰の刀に手をかけ、いつでも抜けるように鯉口を切った。


「……誰だ、と……訊いている」


 そこで、ようやく土方もおもむろに口を開いた。推し量るような低い声だ。


 地を這う重い響きに、斎藤は視線だけで隣を見やった。


 土方は、先刻の絶句の表情はどこへやら。この初夏にさえ背筋が凍るような冷たい瞳を携えていた。それを鋭く細め、一歩前に足を出す。


 鯉口を切るだけでは生ぬるいとばかりに、土方は腰の得物を抜刀した。


 それに驚いたのか、少年が土方を見て息を呑み、身を強張らせた。


 かと思えば、はっとした様子で「あ」と抜けた声を上げ、無防備に両手を挙げる。


「ちょっ、と、待って……敵じゃない、です。えっと、あの……オレ、会津兵です。いや、援兵は来ないんですが、ちょっと……」


 少年は言葉を選ぶように視線をせわしなく動かし、たどたどしく続けた。


「オレ、ご家老のやり方に、反対で。あなた達と酉の刻に落ち合うという約束を、殿にまで通していなくて。あなた方を信用しきれないことと、万一、援兵を出して手薄になっている本陣を奇襲されたらどうするんだとか、長州側との全面戦争にでもなったらどうするんだとか、準備を遅らせるばかりで」


 少年は、斎藤の血の気が引くほどあっさりと、恐ろしく正確な御家の内情をぶちまけた。


 何故、それを知っているのか。


 例え会津の者だとしても、『新選組との約束の刻限を殿に通していない』だなんてこと、一兵卒の身分で知り得るなど不可能なはずだ。下々への命令というものは、あくまで『殿の命』でなければ意味がないからだ。


 では、身分の高い者なのか?


 斎藤は改めて少年を注視した。


 踏み込んだ会津の御家事情を知れるほどの身分であれば、斎藤自身が、あの少年を知っていなければおかしい。少年自身が間者の存在(さいとう)を知り得て、容保の側近の梶原平馬のように斎藤を使える立場にあるのなら、今回の御家事情を知っていたとしても納得がいく。


 ――しかし、顔のつくりからひとつ一つ眺めても、斎藤は少年に見覚えがなかった。どことなく胸の奥に引っかかるものがあるような気はするが、少なくとも都へ来て一年余り、今日の昼間に出会ったことを除き、見かけたことや挨拶をしたことは一度もない。ただでさえ沖田に似ていると感じるのだ、見たことがあれば忘れるはずはなかった。


 斎藤は混乱しそうな頭を回転させ、いかにして見極めるべきか逡巡した。


 その時、少年が右手を自らの懐に突っ込んで、何かを取り出した。それをおもむろに斎藤へ放り投げてくる。


 目の前に飛んできた物をとっさに左手で掴み取ると、少年は「それ、あの……その人に見せてください」と土方を目で指した。


 見れば、投げ渡されたのは、年季が入り少々くすんでいる印籠だった。それでも、漆で描かれた会津の家紋――会津葵は、色褪せず堂々とその身を主張している。


 土方がちらと、肩越しにこちらの手元を見やる。


「会津の腕章も着けてます。これ、先年の政変で出陣した会津兵が全員着けていたの、覚えてらっしゃいます?」


 少年は自身の左腕を指し示し、重ねて訴えた。先刻は気付かなかったが、確かにそこには見覚えのある黄一色の腕章が留められている。


 これには、さしもの土方もないがしろにできないと判断したのだろうか。戸惑いがちに、少年に向けていた剣先を下げたのが斎藤の目の端に映った。


 けれど斎藤は土方と違い、落ち着くどころか逆に頭に血が上るのを感じた。


 家紋入りの印籠など、持てるのは容保の『身内』だけだ。が――


「……何者、ですか……?」


 斎藤は印籠を握り締め、真っ直ぐに少年を睨み据えた。


 少年は両手を下ろし、背筋を整えて名乗りを上げる。


「松平愁介、といいます。会津松平家当主、容保の……まぁ、言わば落胤で」


 聞いた瞬間、斎藤は手に持っていた印籠を傍らの平隊士に押し付け、足を踏み出した。すぐさま抜刀し、あっという間に目前に迫った少年――仰天に目を見開いた愁介の頭上に、刃を振りかざす。


「ちょッ、と、斎藤さん、待った!」


 振り下ろした瞬間、ガキィッ! と金属の擦れ合う音が一帯に響いた。

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