いざ
ひたすら前傾姿勢で前方を睨んでいた土方が、不意にあごを上げた。
成り行きを見守っていた他の隊士達も含め、全員が一斉に土方を見る。
その視線を受け止めているのか受け流しているのか、上体を起こした土方は、一切ぶれずに隣の近藤だけを見据えて、自身の眉間のしわをぐいと指の節で押した。
「なあ近藤さん。俺ぁ、あんたの言うことに従うさ。けどな、すっかり忘れてたんだがよ」
「……何だ」
眉をひそめる近藤に、土方はわずかに逡巡するように視線を斜めに上げた。
厳しい表情だ。なまじ顔が整っているだけに、眉間にしわを寄せる表情は凄みがあり、阿修羅にもよく似ている。
が、土方はすぐにフンと息を吐き、首の後ろを引っかくと、突然不敵に口の端をつり上げて笑ったのだった。
「ああ、そうだ。忘れてたんだよ」
土方は妙にスッキリした表情で頷いた。
「新選組の奴らは、あんたと違って短気だぜ。俺も例外じゃねえ。なあ近藤さん、そうなんだよ。わかるか? 短気なんだ、俺達ぁ」
それは気負いがないどころではない、あっけらかんとした言葉だった。
近藤は、虚を衝かれたように目を丸くさせた。
斎藤も思わず瞬きを繰り返す。隊士達も、それまでのどこかピリピリした空気をどこへやったのか、呆けた様子で土方を見つめていた。
ぶふっ、と――そこで真っ先にふき出して沈黙を破ったのは、案の定というべきか、沖田だった。
「確かに近藤先生に比べたら、月とスッポンほどの差で短気なのが土方さんですね! なのによく今まで我慢してましたよね。そうですか、忘れてたんですか……っ、ふふっ」
沖田は大笑いするのをかろうじてこらえながらも、頬やら目元やらを引きつらせて声を上ずらせていた。これにつられ、周りもまるで術が解けたようにはっとして、ちらほらとふき出す声や、笑いを誤魔化す吐息を漏らし始める。
「……そう言えば、おれも緊張しすぎて自分が短気なの忘れてた」
「オレも……何で会津兵が来ないんだよって思いながら、何で自分がここに留まってるのかってことについて考えるの忘れてたっつーか……」
「足がしびれ切れてんのに、我慢して座ってた感じ?」
「ああ、それそれ。しびれてんなら、足崩して立てよって話なのになあ」
気を張っていたかに見えた平隊士までもが、そんなことをささめき合う。
斎藤は軽く目を瞠って、室内に視線を巡らせた。
心臓に毛が生えている試衛館組ならともなく、他の隊士達までそんなふうに考えていたなど、予想外だった。よもや虚勢を張っているのではとも疑ったが、それもどうやら違うらしい。隊士達の瞳には、相応の緊張はあっても、気後れや怯えは存在していなかった。
……そうか。
ひとつ納得がいって、斎藤は肩の力を抜いた。
討ち入りに怯える程度の隊士達なんて、最初から『夏風邪』という名目上、ここにはいないのだ。どうりで動ける隊士の数が少ないわけである。
――となれば、『勢い』は強みだ。『勢い』には単なる『数』では推し量れないものがある。『都のための命懸け』に不安がないのであれば、尚のこと。
この場の誰も、自分達が負けるとは思ってはいなかった。
皆が同じ思いで近藤に目を向けた。それらの視線を受け止めて、近藤はぐっと息をつめ、力強く頷く。頼もしいものを見るように、その瞳が輝いていた。
「……そうか。私はどうやら、慎重になりすぎていたらしい」
そこからは実に早かった。近藤が出陣を宣言し、場の空気が湧いた。部屋中が、頭上に晴れ間が覗いたかのような突き抜けた明るさに満ち満ちた。
――何ともはや。
斎藤は、互いを鼓舞し合う隊士達を横目に、静かに立ち上がって刀を腰に差した。
望んで自ら危険に飛び込もうというのだから、この新選組は、思っていた以上に上々の『駒』なのかもしれない。結局、役に立つか否かは会津の手腕によるのではないだろうか……などと思ったが、斎藤のこの考えを、あのお堅い会津家臣達が受け入れるか否かは、また別の話である。
もし今夜、少なからず成果を上げれば、何か変わることもあるだろうか。
斎藤は軽く首を回し、座りっぱなしで固まっていた体をほぐしながら深呼吸した。
「斎藤さーんっ、残念ですね、別々の班になっちゃいました!」
突然、ドンッと両手で肩甲骨を押された。
「……ッ!?」
衝撃に身を反らし、一歩たたらを踏む。斎藤は反射的に漏らしそうになった呻きを噛み殺し、後ろを振り返った。
そこには、悪気なくにこにこと唇で弧を描いている沖田が立っていた。
「……あのな、沖田さん……、……何だ、班?」
「おや。今の近藤先生と土方さんのお話、聞いていなかったんですか? ほら、会津様の援兵がいらっしゃらないでしょう? ですから私達だけで鴨川の東岸と西岸、両方を効率良く回れるように、その班分けをですね」
沖田は両手で目の前の空間を切り分けて、身振り手振りで説明した。
それらを要約すれば、旅籠や料亭の数が多く、敵の潜んでいる可能性が高い東岸を土方以下二十余名が受け持ち、数の少ない西岸を近藤以下、少数の手練が受け持つとのこと。そして斎藤は土方組、沖田は近藤組に配されたのだという。
「ああ、そういうことか。……悪い、考えごとをしていて」
「いいえ、構いませんよ」
そうこう話している間に、準備を整えた隊士達が斎藤らの脇をすり抜け、陣の外でそれぞれ隊列を組み始める。皆がいよいよだと表情を引き締めているのが見て取れた。
それらを一瞥したところで、沖田にぽんぽんと励ますように腕を叩かれる。
「まあそういうわけですので、お互い頑張りましょうね! 今日中に事が済めば、明後日の祇園祭、一緒に行きましょう」
沖田は瞳に無邪気な輝きを覗かせていた。遊びたくて仕方がない子供のような目だ。出陣はこれからだというのに、気楽そうである。
「……楽しそうで何よりだ」
斎藤は敢えて誘いに答えなかった。
沖田は「ええ? 別に楽しんでるわけじゃないですよ」と、ぼんぼり髪を揺らしながら小首をかしげる。
「でも、斎藤さんだって気負っていなさそうじゃないですか? それと同じです」
「いや……」
気楽なのと気負っていないのとは別物だと思うのだが――。考えるものの、言っても仕方ないかと、斎藤は小さな吐息一つで誤魔化した。
「……まあ、久しぶりに骨のある相手と仕合ができればいいなとは、思う」
心裏を本音にくるんで答える。
と、
「いやはやどっこい、この班分けも虚しく、今回は俺らのほうが手柄もらっちゃうかもだけどねー」
沖田と共に近藤組に配された永倉が、隣をすり抜けざま悪戯っぽく片目を瞑ってそんなことを言った。永倉は言うだけ言って、さっさと外の隊列へ混ざりにいく。
斎藤がとっさに言葉を返せずにいると、斎藤と同じ土方組の原田が、永倉の後を追いながら「何でだ、敵さんがいる可能性はこっちのが高いんだぞ!」と肩をいからせた。
「んー、わかんないけど、勘」
永倉の身も蓋もない返答に、原田は立ち止まって心底嫌そうに「げぇッ」と呻いた。
反対に、先に外に出て近藤の傍らに控えていた藤堂が「わっほい!」と嬉しそうに指を鳴らす。
「やった! ハチの勘は土方さんより当たるから! ごめんね左之っちゃん!」
「……それは勘弁しろ」
最後に小さな呻きを漏らしたのは、室内に残っていた土方だ。
振り向けば、土方は苦々しく顔を歪めながら大股でこちらに歩み寄ってくる。
「何のための隊分けだ……外れろ、永倉の勘」
「あっはは、そんな情けない声出さないでくださいよ、土方さん。あなたはあなたで、ご自身の下調べと勘を信じてくださればいいじゃないですか?」
沖田がおかしそうに腹を抱えた。
「それに万一の時のために、私が近藤組にいるわけですし。心配ないですよ」
不敵な笑みに、土方はフンと鼻を鳴らした。
「総司。近藤さんのこと、頼んだからな」
言うだけ言って返事を待たず、土方は隊列の先頭へ向かっていった。
「……当然です」
沖田は相手に届いていないことを承知で、それでも胸を押さえ、宣誓するように答える。
かと思えば、不意にケホンと体を揺らした。
「……?」
斎藤が眉をひそめると、沖田は二度、三度と空咳を繰り返して、小さく息を吐いた。
――そういえば、今朝も咳をしていたなと思い出す。
「風邪か?」
毎度のごとく滅入る気を立て直し、斎藤は低く問うた。
沖田は武者震いをするように、ふるりと肩を揺らした。
「風邪というほどのものじゃないですよ。都の夏の空気が、ちょっと苦手なだけです」
本当だろうか。風邪なら早く治すに越したことはない。医者に診てもらったほうが――
「誰だ、テメェ!」




