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櫻雨-ゆすらあめ-  作者: 弓束しげる
◆ 一章一話 池田屋の桜 * 元治元年 六月
22/212

嵐の噂

 昼間の晴天が嘘のように、夕刻から都の空には暗雲が垂れ込み始めた。日が沈んでからは湿り気を帯びた風が吹き始め、遠い囃子の音を曇らせる。明後日に本山を迎える、祇園祭の囃子だ。


 祇園感神院(八坂神社)門前の祇園会所。そこに置かれた新選組の陣には、開け放たれたままの戸口からコンチキチンという鐘を打つ音と共に、湿気た土の匂いが時折流れ込んでくる。そんな天候に引きずられるように、時が経つにつれ、場には鬱屈した空気が漂い始めていた。


 揃いの黒の羽織りを身に着けている三十余名の隊士達は、誰もが眉根を寄せ、顔をしかめ、口を閉ざしている。二十畳ほどの板張りの部屋には、蝋燭の芯を燃やす掠れた音だけが、時折酷く白々しく響いていた。


 ――黒谷からの連絡は。それが、まだ準備に取り掛かっているとのことで。

 ――もう待てない、行こう。いや、敵の数が不明瞭ゆえ、少数では危険だ。


 既に幾度、そんな会話が交わされただろう。


 約束の刻限を過ぎても現れない、来るはずのない会津兵を、新選組は待ち続けていた。


 部屋の入り口脇の柱にもたれ、片膝を立てて床に座っていた斎藤は、ぼんやりと呆けているふりをしながら事の成り行きを眺めていた。


 視線の先、部屋の最奥に近藤と土方がいる。二人は他の隊士達と同様に鎖帷子と羽織を身に着け、頭に鉢がねを巻き、並んで室内に二脚だけ用意された床机(しょうぎ)に腰掛けている。近藤は座禅を組むように目を閉じ、腕を組んで微動だにせず、土方は前傾姿勢で足に肘をつき、射抜くように斎藤の脇――既に薄暗がりになっている外の夜を、睨みつけている。


 ……そんなふうにしていても、会津兵は来ない。


 今という時がどれほど無駄か、斎藤はわかっているだけに複雑な心持ちだった。


 けれど何も言わず、ひたすら傍観に徹する。最終的に彼らがどうしようと、どうなろうと、斎藤は見聞きしたことを会津に報告する。それが仕事だからだ。


 ……不毛だな。


 待ち続ける新選組にも、己の役割に対しても、ふとそう思わずにはいられなかった。


 ――ところが待ち続けて、またしばらく経った頃のことだった。


「何だか雲行きが怪しいですし、こうしてる間に()が過ぎて行きそうですかね?」


 誰かが隣に立つ気配がして、斎藤は顔を上げた。


 沖田だった。


 表情を固めている平隊士達とは違い、沖田はいつも通りの飄々とした微笑みを浮かべていた。斎藤が静かに目を瞬かせれば、隣にすとんと腰を下ろし、「ね?」と同意を求めるように首をかしげてくる。


 ――嵐。


 それが何を指すのか思い当たり、斎藤は思わず薄く口の端を引き上げた。


「……嵐、か。そうだな、過ぎていくかもな」


 抑揚のない声で答えると、沖田はおかしそうに「ですよね」と口元に手を当てる。


「嵐は、逃げ足が速いですから」


 斎藤は小さく頷いて、そのまま近藤を窺った。


 ……不毛と思っているのは、どうやら自分だけではなかったらしい。


 沖田自身がそんなふうに(ヽヽヽヽヽヽ)動こうとするなら、斎藤の立場上、多少は便乗しないと不自然だろうか。


 思案して、斎藤は沖田に話を合わせるように少しばかり声の調子を上げた。


「ただの雨なら、ここまで気を揉まずに済むのにな」

「同感です。まあ、雨ならそもそも私達が大きく動く必要もないでしょうけど」


 声量を抑えるでもなく会話していると、近藤が悩むように、目を閉じたまま眉間のしわを深くした。


 顔を強張らせていた隊士達が、「何の話か」というような怪訝な視線を投げ寄越す。斎藤がそれをこめかみの辺りで受け流し、沖田が肩をすくめると、「いいこと言うねえ」と、会話の意図を汲んだらしい永倉が膝立ちになって歩み寄って来た。


 永倉は、獰猛な獣が獲物を狙うかのごとく鋭く目を細め、ぺろりと舌なめずりして言う。


「俺、嵐を見送るのは嫌いなのよねー。いかんせん、過ぎ去るのを待つだけって暇で暇で」


 そんな永倉の言葉に、さらにまた別の二人が四つん這いに集まってくる。藤堂と原田だ。


「はーい、オレも同感でーす」

「暇すぎて寝そうだ、俺は」


 藤堂が歯を見せながら無邪気に笑い、原田は柳眉を逆立てて心底不服そうな顔をした。


「い・つ・ま・で・待・た・せ・ん・だッ!」


 原田が怒りを手のひらに乗せて、床にバシバシ叩きつける。


「左之、怒鳴るのは良くねぇわあ」


 器用に片眉を跳ね上げて、永倉はそれをたしなめた。


 いつの間にか、斎藤を交えた五人の円陣ができ上がっていた。静かだった部屋の内、斎藤の周りだけが賑やかになり、他では戸惑いの視線が飛び交って、妙な空気の渦ができる。


「そうよ、左之っちゃん。短気はモテないって言うしね」


 藤堂が頷きながら原田の肩を軽く叩き、永倉の隣にあぐらをかいた。


 そんな藤堂と斎藤の間に両膝を立ててしゃがんだ原田は、むうっと鼻の頭にしわを寄せる。が、素直に忠告を受け取ると、まるで自分に落ち着けと言い聞かせるかのように、腕に抱えた槍で一定調子に肩を叩き始めた。


 藤堂はクスクス吐息を揺らし、「そういえばさ」と何か思いついたように視線を上げた。


「オレさあ、屯所で待ってる山南さんのことが気がかりなんだけど。熱があるのに、嵐が去ってっちゃいそうなんてことになったら、すっ飛んできそうでさ?」


 藤堂は肩をすくめてそんなことをぼやいた。そうして「はあーっ」と大仰に嘆き、手の甲を額に当てて天井を仰ぐ。


「オレ、あの人に『山南さんの分まで頑張って来んね』って約束しちゃったんだよねぇ。だから余計にソワソワしちゃって」


 言うだけ言った藤堂の視線が、チラと横目に近藤へ向けられる。


 相変わらずまぶたを落としたままの近藤のこめかみが、小さく引きつったのが窺えた。


「あー、そりゃ頑張りたいところだねえ」と、これまた大仰に深く頷いたのは永倉だ。


「話に聞いたところ、何か四条鴨川周辺の料亭にさ、()()()があるらしいけど?」

「それさあ、半端なく迷惑じゃない?」


 顔をしかめる藤堂に、永倉は満面の笑みで「迷惑だよねえ」と頷いた。


「ちょっと俺達でその()んとこ行ってみる? まじに勘弁してくださいーって」


 カラカラと喉を鳴らしながら、永倉も藤堂と同じく近藤に目を向けた。沖田も軽く両手を叩き合わせ、「いいですねえ。五人でちょっと抜け出します?」なんて言いながら、やはりさり気なく近藤に視線を送る。


「つーか、俺達は今、何待ちだ?」


 原田だけは、ざっくりと言葉を投げつけて半眼になった。


 斎藤は息を吐き、人知れず片方の口の端をわずかに上げた。


 ――隊内で一、二の腕を争う沖田と永倉、そしてその二人と同じだけ腕を買われている斎藤。それに沖田達には少々劣るが、日々着実に腕を磨き、世間一般の同年代よりは充分抜きん出ている藤堂に、槍の腕では右に出る者がいないほどの原田。そんな新選組の主戦力である五人が「ちょっと抜け出す」だなんて、よくもまあ言えたものである。


 けれど斎藤はともかく、他の四人は明らかに本気だった。


(てき)』を逃すくらいなら、自分達だけでも行かせてくれ。そう語る四人の瞳に浮かんで見えるのは、不敵で、尊大で、過剰ではない、揺るぎのない自信だ。


「……五人に行かせるなら、三十余人のほうがいい」


 ずっと黙していた近藤が、ようやくまぶたを上げて呟いた。


 一瞬、原田の瞳に喜色が覗く。


 が、それを打ち消すように低く、近藤は嘆息した。


「だが、やはり、少ないのだ……」

「……それはわかってますけど、ね」


 永倉が、苦悩する近藤の言を受けて視線を下げる。原田も肩透かしを食らったように顔をしかめたが、今度ばかりは声を荒らげず「そりゃあな」と目を伏せた。


 ――今回の御用改めの失敗は、すなわち都が火の海になることを意味している。だからこそ必ず『勝ちに』行かなければならない、一大事なのだ。半端は、決して許されない。万一にも、負けるかもしれないという危険を冒すわけにはいかない。


 わかっている。この場にいる誰もが、理解していることだった。


 ただし動かなければ結局失敗に終わることも、全員が理解していることだった。


 沖田と藤堂も、困ったように互いに目配せする。それから口を閉ざし、四人揃ってお手上げだというように沈黙した。


「……近藤さん」


 しかしその時だ。ひたすら前傾姿勢で前方を睨んでいた土方が、不意にあごを上げた。

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