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櫻雨-ゆすらあめ-  作者: 弓束しげる
◇ 二章十話 再会の情 * 慶応元年 閏五月
210/212

只人ならぬ

 改めて上座に座り直した容保(かたもり)に、斎藤も背筋を伸ばして向き直る。


「彼のお方は、相も変わらずのご様子で……」

「あの方はどのような局面でも変わらぬ。最近は定敬(さだあき)に任せてしまうことも多くすまないとは思っているが、一橋(ひとつばし)様のああいった揺らがぬお姿は、頼もしく感じることもままあるものだ」


 容保は良いように答えたが、とはいえあの奔放さにはやはり振り回されることも少なくないらしく、眉は下がり切っていたし、浮かぶ笑みにも苦笑が混じっていた。


 斎藤は気づかなかったふり(ヽヽ)で目礼を返す。


 知ってか知らずか、容保は微笑んだまま、そこで話を区切るように静かにうなずいた。


「本題に入ろう。此度は如何した。江戸からの帰還後は落ち着いた様子であったが……その後、何かあったのか」


 山南の一件からまだ半年も経たぬこともあってか、斎藤の考えていた以上に容保には神妙な様子で問われてしまった。


「いえ……まだ、大事(だいじ)が起こったわけでは決してございませんが」


 そう言い置いて、斎藤もようやく本題として、報告を上げた。


 もちろん内容は、先日土方より命じられた間者の件だ。


「……二重間者、ということになるな」


 報告を終えてすぐ、斎藤が先日噛み締めたその立場を、改めて容保が重く呟く。


「そなたや土方の懸念がいっそ思い過ごしであれば良いが……その伊東何某(なにがし)という男、然程に危ういのか」


「正直今は、何とも申し上げられません。ただ……私から見て、会津の気風に合う男ではない、とだけ」


 答えると、容保は眉根を寄せて難しい顔をした。何かを考え、あるいは自身の懸念をなだめるように、右手で口元をゆるりと撫でる。


「……斎藤」

「は」

「そなたは、大丈夫か」


 想定外の言葉に、一瞬、何を問いかけられたのか理解が遅れた。


 とっさに答えることができずにいると、容保は気遣わしげな視線を斎藤に向け、「患者を任されるほど。新選組内でのそなたの信頼の篤さは会津にとっても、実に祝着だ」と低く続けた。


「しかし、重圧も酷かろう」

「それは……殿」

「新選組は、そなたにとって良き仮宿となっていたことは理解しているが、なればこそ。もし、今回の一件があまりに苦となるならば、何らかの事情をつけて一度会津に――……」

「あまりに過分でございます」


 斎藤は無礼を承知で、しかし黙っておられず深く平伏した。


「殿……一橋様も、そして殿ご自身も以前おっしゃっておられたではございませんか。私は『山口』でございます。只人(ヽヽ)のように扱っていただくわけには、参りません」


 いつも通りと聞こえるよう、努めて抑揚のない声で忠言すれば、容保から息を詰めたような沈黙が返された。そのまま斎藤が頭を下げ続けていると、しばらくの後、言葉を絞るように「……そうだな。そうだ」と言い聞かせるような呟きが届く。


 そこで改まって顔を上げれば、容保は固く表情を引き締めて「すまなかった」と斎藤を真っ直ぐ見据えた。


「先の言葉は、聞かなかったことにしてもらいたい」

「無論にございます」

「……すまぬと思っている」


 そうして最後に付け加えてしまうのが、実に容保らしく、そしてやはり過分ではあるものの――……これだから今の己があるのだと、どうしたってありがたく思う。


 その想いを胸の内だけで深く噛み締め、斎藤は表情を変えぬまま本題に戻った。


「今回の一件……山南の一件のように会津にまでご迷惑をかけぬようにするためにも、殿に逐一のご報告を差し上げられる余地を噛ませられたのは、喜ばしいことと存じます」

「確かに……やはり現状、新選組に揺らがれると、こちらも困るところが多い。場合によってこちらから先手を打てる可能性を得られたことも祝着だ。斎藤、よくやった」

「お言葉、痛み入ります。ただ……ひとつだけ、問題もございます」


 告げると、容保が「問題?」と先の表情の硬さを引きずったまま、斎藤の言葉を反復した。

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