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櫻雨-ゆすらあめ-  作者: 弓束しげる
◇ 二章十話 再会の情 * 慶応元年 閏五月
207/212

悪夢

 そっと伸べた指先がまろみの帯びた愁介の頬に触れそうになった、その瞬間。毅然と斎藤を見上げるその表情が、酷く冷たい雪の塊でも押し当てられたように歪められた。


「……愁介殿?」

「ごめん。でも……お前の手、真っ黒なんだもん」


 掠れた声で告げられ、斎藤は己の手をびくりと引いた。


 その指先が、じわりと夜闇に馴染むように見えなくなっていく。それまで周囲にあった気がした景色すらいつの間にか暗く、黒く塗りつぶされていき、溶け始めた指先から闇が全身に広がって、己の姿すら圧し潰されていく。


 ――ああ、それもそうか。繰り返し裏切って(ヽヽヽヽ)いれば、黒く染まりもする。


 妙に納得してふと顔を上げれば、つい今ほど愁介の立っていたその場に、いつの間にか土方と沖田が並んでいた。


 二人は酷く冷めきった無関心な表情で斎藤を一瞥したかと思うと、そのまますぐに背を向けて歩き去っていく。


 ついて歩き出そうにも、その間に斎藤の身体は足先まで闇に呑まれていて、感覚がなくなっていた。追いかけることもできず、その場に留まったまま、次第に視界も暗く黒く染まっていく。


 そうだな、仕方ないなとやはり納得して、斎藤はその場にうずくまるようにして目を閉じた。



 直後、びくんと身体が軽く痙攣して目を覚ます(ヽヽヽ)


 斎藤は反射的に大きく息を吸って、瞬きを繰り返した。


 ……そろそろ見慣れ始めた、西本願寺奥間の自室の木目天井が見えている。


 えも言われ得ぬ不快感に額に手を当てると、じっとりとした嫌な寝汗をかいていた。ゆったりと上体を起こし、その手を改めて見下ろすが、別段黒くも何ともないいつも通りの手のひらがそこにある。


 隣を見ると、沖田が体を横向けたまま、スヤスヤと落ち着いた寝息を立てていた。


 随分と嫌らしい夢だ、と意図せず顔が歪んだ。


 ざわついた胸中を落ち着けるように、音を立てずゆっくり深く呼吸する。


 そうしてまぶたを閉じると、先日壬生寺で見た、愁介の驚いた顔が浮かんで、消えた。


 ――自業自得だ、と再び目を開ける。呼吸も胸のざわつきも凪いで、歪んでいた己の顔から表情が消え落ちていくのがわかる。


 改めて隣を見やると、沖田は変わらず穏やかに眠りについていた。


 それを見届けて、そっと気配を殺しながら部屋を抜け出す。


 外はまだ空がわずかに白み始めたばかりで、鳥の声もなく静かだった。


 初夏といえど日が昇る前はまだ涼やかで、開けたその空気を吸いながら、西本願寺の裏手側にある土間へ向かう。


 やはりまだ誰もいないそこで、竈の脇にあった水瓶から水を汲み上げ、喉を潤していると、不意にかすかな足音と気配が背後に現れた。


「……おや、斎藤くん?」


 振り返れば、寝巻に軽く羽織を肩にかけただけの伊東が立っていた。


「伊東先生……お早いですね」


 皆が寝静まっているがゆえ、自然と低まる声で答えれば、伊東も同じように声を抑えながらふわりと目元をなごませて言った。


「ふふ。少し、喉が渇いてしまったようで、目が覚めたんですよ」


 普段きっちりと整えられている髪が少し寝乱れて、伊東はそれを耳に駆けながらたおやかな足取りで斎藤に歩み寄ってきた。


「斎藤くんも……」


 言いかけて、ふとその言葉が途切れる。


 首をかしげれば、斎藤の傍らに立った伊東はどこか困ったように眉尻を下げて、ゆるりと手を伸べてきた。


 寝起きゆえか、妙に温かい指先が、手のひらが、斎藤の頬をかすめる。


 思わず軽く肩に力を入れると、伊東はそれに気付いた上で、己の体温を馴染ませ、なだめるかのように、改めて両手で斎藤の頬を包み込んできた。


「何だか……顔色があまり、よくありませんね。悪い夢でもご覧になったのですか?」


 いつもの甘やかさに加え、これまであまり聞いたことのない、随分と優しい声音だった。


 労わるを越して、それこそ子供を甘やかしでもするような態度に、思わずふっと薄く口の端がゆるむ。


「……伊東先生の手は、温かいですね」


 問いかけには答えずそう言うと、伊東は改めてくすりと微笑み、やはり甘やかすように触れている手の指先でぽんぽんと斎藤の頬を撫でる。


 それを受け入れる(ヽヽヽヽヽ)ように、斎藤はそっと目を伏せた。

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