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櫻雨-ゆすらあめ-  作者: 弓束しげる
◇二章九話 忍びの想い * 慶応元年 閏五月
205/212

傾向した性分

 二人並んで戻るのはまずかろう、ということで、土方は先に壬生寺を後にし、西本願寺へと帰って行った。


 その後、斎藤は一人、元は土方が座っていた石段に改めて腰かけながら、ぼんやりと境内を眺めていた。日が暮れるほどではまだまだないが、じんわり空の青が薄くなり始めたからか、気付けば賑やかだった子供達もいなくなって、今の壬生寺には斎藤一人しか残っていない。


 そんな静けさの中で、ふと、己の小さな溜息がいやに大きく聞こえた気がした。


 しかし、二重間者か、と。そんな今後の立場を思えば、自然と視線も足元に落ちる。


 いざという時には、むしろその位置に立てるのが望ましく、だからこそ意識的にも無意識的にも、斎藤自身そのように動いていたことは確かだ。


 が、いざ命じられると、何とも言えない重みが腹の底に溜まるような感覚があった。


 斎藤は別に、間者という仕事が好きなわけではない。むしろ、今だからこそわかることだが――……誰かを裏切る行為は、そも信義を重んじる会津においても、褒められた所業ではない。


 もちろん、重要な役目であることも理解している。信義を重んじる会津だからこそ、間者は容保(かたもり)がそれを成すための踏み台であり、必要な立場でもある。それに性分もあるだろう。いくら周りから変わったと言われようとも、斎藤はまだまだ人よりも表情が薄く、他者から内心を悟られにくい性質でもある。その上、口が達者なわけでもないので、寡黙と見られ、口が堅い者だとも見られる。好き嫌いはともかく、向き不向きで言えば、斎藤は間違いなく間者に向いているのだろう。


 とはいえ、そうして理解はしていても、結局のところ間者とは、汚れ役であることにも相違ない。


 普通の……――例えば沖田や藤堂なんかには、きっとこんな後ろ暗い役回りは不向きだ。本人達の自尊心が許さない部分もあるだろうし、何より、あの二人はそこまで深く人をあざむける性質でもないと思う。


 とすると、今の立場に思うところあれど、違和感を抱いているわけではなく、むしろ平然と新選組を騙し続けている己は。


「……結局は山口(ヽヽ)、か」


 そうしてぽつりと、自嘲めいた言葉が口からこぼれ落ちた直後だった。


「あ、見っけ!」


 離れた場所から聞き慣れた明るい声が届き、斎藤は膝元に落としていた視線を前方に上げた。


 見れば、境内の入り口から走ってくる愁介の姿がある。斎藤が虚を衝かれていると、目の前にたどり着いた愁介は「何かもう久しぶりに感じるね、ここ」と微笑みかけてきた。


「……どうかなさいましたか」

「ああ、さっき土方さんと会ったんだけど、ここにいるって教えてもらって」

「いえ、そうではなく……」


 目の前に立った愁介に合わせて斎藤も立ち上がろうとすると、しかし愁介はそれを手で制し、少し困ったような苦笑いを交えて「何で捜してたのかって?」と問い返してきた。そのまま、斎藤の隣へすとんと腰を下ろす。


「……ええ、そうですね」


 斎藤があごを引いて抑揚なく相槌を打てば、愁介は石段の下へ足を投げ出しながら「だって」と苦笑を浮かべたままに続けた。


「何か……様子、変だった気がして」

「私がですか?」

「うん。別に気のせいならいいけど」


 そう言われて、今になってまた土方との江戸でのやり取りを思い出す。それにより、確かに先ほど西本願寺で(まみ)えた時には、愁介の顔をまともに見られていなかった。


「……あなたを、少し、裏切ってしまったので」


 しかし斎藤は今になり、真正面から淡々と告げた。


「はい?」


 今度は愁介のほうが目を丸くし、驚いたように斎藤を見つめ返してくる。


「いえ、何の話かは……今、私の口からは申し上げられませんが、ともかく」


 何故土方が今も愁介に何も告げていないのかという疑問は浮かぶものの、斎藤はそこには触れず、静かに続けた。


「あなたの意に反することをしてしまったもので、気まずく思っていました。申し訳ありません」

「……色々突っ込みたいところはあるんだけど、その言い方だと、今はもう気まずくないの?」

「そうですね……気まずくないわけでもないのですが、気まずく思っている場合でもないな、と思いました」


 言い切れば、愁介は困惑を濃くして、眉間に深い皺を寄せた。考え込むように額を押さえ、空を仰ぎ、「うーん……?」と唸って目を細める。


「……まあ、お前が俺を裏切った云々は、とりあえず置いとくとして」

「置いてはおかず、数発は殴っておいたほうがいいと思いますよ」

「いや、何をどう裏切られたのかわかんないのに怒れないでしょ。そもそも斎藤が……っていうか(はじめ)がそうしなきゃならなかったんなら、それにはきちんと意味があるだろうからたぶん怒れないし、とりあえず置いておくとして」


 迷いなく、てらいなく言ってしまうものだから、さすがに斎藤にも苦笑めいた表情が頬に浮かぶ。


 それを横目で見た愁介は、改めて首を回し、真っ直ぐに斎藤を見据えてきた。

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