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櫻雨-ゆすらあめ-  作者: 弓束しげる
◇二章九話 忍びの想い * 慶応元年 閏五月
203/212

疑似餌

 風が通り過ぎるだけのわずかな間を置いた後、土方が改めてゆったり口を開く。


「……お前、そのまま伊東に張り付いといてくれねェか」

「それは……」


 少々予想外でもあり、同時に『当然』でもある言葉に、斎藤はわずかに目を伏せた。


「……私に間者として動け、ということですか」

「あぁ、そういうことになる。奴を監視して、事あるごとに逐一の報告を頼みたい」


 淡々と。


 断られることを想定していないかのように、あるいは断ることをさせぬとでも言うように、土方は言葉を重ねた。


「藤堂が慕ってるのも、その理由も、一応のところは理解してるつもりだ。が、それでも伊東の野郎は何を考えているのか、わからねぇ。わからせようともしてねぇ、ってのがずっと引っかかってる。……場合によっては、隊を裂こうと考えてるのかもしれん」

「……恐らくですが、山南さんが気にしておられたのも、そこなのだと思います」


 そう、伊東の考えなど、今はまだわからない。


 それでも、反目しないように見せかけながらも、伊東は新選組の功績を揶揄するように言うこともあるし、幕府のやり口とは反対の提案をてらいなく口にすることもある。もちろんそれは聞き手の解釈如何(いかん)による程度のものであるし、だからこそ伊東の言葉は、幕府一辺倒の新選組の中では柔軟性に富んでいるようにも聞こえる。


 が、まさに解釈如何なのだ。


 杞憂ならば、それでいい。


 しかし山南の、土方の、そして斎藤自身の解釈(ヽヽ)が杞憂でなかったとすれば、それは今後の新選組にとって、軽視できるものでは、やはりないということだ。


「藤堂がそうじゃねぇってことでもねぇが、山南さんは、人を見る目があった」


 土方の声の中に、ぽつりとわずかな哀愁がこもる。


 斎藤は改めて顔を上げ、土方を見た。


 声とは裏腹に土方の表情は何ひとつ揺れることなく、変わらず真っ直ぐ斎藤を見ていた。


「仮に、伊東が新選組の分裂を図っているいるとすりゃ、当然、腕の立つ者が欲しいと考えるだろう。その時『完全に伊東派になることがあり得ない総司』や『懐柔するには難しい永倉』と肩を並べる『どちら付かずの斎藤』は、伊東にとって美味しく(ヽヽヽヽ)映らないわけがねぇよな」

「……私が既に、伊東の間者となっているとは思わないんですか?」


 つい問い返すと、ところが間髪容れず「思わねぇ」と土方は断言した。


「何故です?」

「そのために、お前が山南さんを盾に使うとは思えねぇ。そのために、お前が(かづら)を放り出すとも思えねぇ。……お前がそういう奴じゃねえことくらい、知ってるさ」


 土方は、ただ事実を羅列した、というように言った。


 さすがに思わず、薄く苦笑が漏れてしまった。


 土方はむしろ、そうして斎藤が不意に笑みをこぼしたことのほうに、よほど驚いたような様子で少しばかり目を丸くした。


「……わかりました。引き受けましょう」


 斎藤が答えると、土方は「あぁ……」と少々呆気に取られたような声を出す。


「頼んでおいて何だが、お前……いいのか」

「いいのか、とは?」

「いや……」


 言いかけて、土方は口をつぐみ、斎藤から目を逸らした。


 その表情がどこか罪悪めいたものを感じているように見えて、そういえば先日、意図はどうあれ「沖田と同い年だったのだな」と言われたことを思い出す。


 ――なるほど、その『沖田と同い年の斎藤』に間者という後ろ暗い役を負わせることに、今になって躊躇いでも生じたのだろうか。


 斎藤は敢えて普段通りの抑揚のない声で、きっぱり答えた。


「土方さん、いいも悪いもありません。こうなる可能性を考えて動いていたんです」

「いや……そうだな。すまねぇ」

「謝られることではありません。結局は、誰かがやらねばならないことです」

「あぁ」

「ただ……」


 そこまで言って、今度は斎藤が言葉を濁すと、切り替えるように息を吐いた土方と再び視線が重なる。


 先ほど覗き見えた感情が奥に押し隠された、落ち着いた瞳を見返しながら――……


「……土方さん」

「何だ」

「平助は、あなたが思っているよりずっと……純粋な尊敬と信頼を、伊東に寄せていますよ」


 告げると、土方の眉根が小さく寄せられた。


「平助は近藤さんを、あなたを、好いています。ですが、それと同じほどに、伊東を好いて、信頼しています」


 先に斎藤自身に投げられた問いを、立場を変えて返す。


 土方は眉根を寄せたまま、今日一番の、深く、重い、余計に息詰まるような溜息を足元に落とした。


「……そうだな。あァ、わかった(ヽヽヽヽ)


 幾重もの意味が内包されているであろう、溜息と同様に重みを感じる相槌だった。


「悪いが、斎藤。そっちは見守って(ヽヽヽヽ)おいてくれるか」

「……心得ました」

「恩に着る」


 土方は一度目を閉じると、軽く髪をかき上げ、空を仰いだ。


 かと思えば、互いの間に漂った重い空気を打ち払うでもなく、同じ調子で再びぽつりと、


「斎藤。ついでにもう一つ訊いてもいいか」

「……何でしょう?」

「総司の奴、どこが悪いんだ」


 重ねられた問いかけに、斎藤は一瞬、呼吸を忘れた。

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