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櫻雨-ゆすらあめ-  作者: 弓束しげる
◇二章九話 忍びの想い * 慶応元年 閏五月
201/212

狐花

「ふふ、無闇に外を出歩くのは危険だからと、今日も礼などは必要ないと申したのですがね。律儀な娘です」


 こちらの勘違い(ヽヽヽ)に乗じた伊東の答えを聞いて、斎藤は静かに、そっと息を吐き、改めて口の端に薄く親しみを込めた笑みを浮かべた。


「それは一重に、伊東先生のお人柄でございましょう」


 答えれば、女が焦ったように「あ、あの……以前は、お礼にも伺えず……」と言い繕おうとした。


 しかし斎藤は首を横に振り、「構いませんよ、お忙しかったのでしょう。私も忙しくしていましたから、その後様子見にも参れず、お互い様です」とそ知らぬふりを続ける。


「斎藤くんも、懐のお広い方ですね」

「とんでもありません」


 果たして伊東が、斎藤のこれ(ヽヽ)に気付かずにいてくれているのかは知れないが、少なくとも今はふっと、ようよう場の空気が和んだことが肌で感じられた。


「では、私は部屋へ戻らせていただきます。伊東先生、足をお止めしてしまい、申し訳ありませんでした」

「いいえ、こちらこそ」


 斎藤は一礼し、伊東の横をすり抜けた。


 が、直後に後ろから「ああ、そうだ。斎藤くん」とやおら穏やかな声で改めて呼び止められる。


「はい?」


 落ち着いて振り返れば、伊東は懐から出した扇子でほんのわずか口元を隠しながら、瞳をとろけそうなほどたわめて微笑んでいた。


「君がよろしければ、今度、共に食事でも如何ですか? 何だかんだと、落ち着いて話せたことはあまりなかったでしょう。君とは是非、一度ゆっくり話してみたいのですよ」


 美しい笑みと共に差し出されたのは、甘い、を通り越した、随分と甘ったるい声だった。


 少なくとも、今の斎藤にはそう感じられた。


 それでも、伊東には華がある。


 幾度となく含みある言動を取ってはいるが、受け取り手によって解釈が変わるだけで、伊東自身が何かを悪し様に言っているわけでは決してない。その言動によって、伊東自身の本心がどこにあるのかが見えるわけでもない。


 だからこそ、やはり華があるのだ。


 頑固で一本気な面を持つ、良くも悪くも明快な近藤や土方とは異なる性質。人なんてものは、時に目の前の明朗な事実よりも、はっきりとしない物事への想像を膨らませることを好む。恐らくそれこそが、伊東の、人としての魅力なのだろう。


「身に余るようなお誘いですね。喜んでお付き合い致します」


 斎藤は改めて瞳を和ませ、一礼した。「約しましたからね」と艶やかに深められた笑みに頷き返し、静かに踵を返す。


 ――数歩進めば、自然と、顔から表情らしい表情が剥がれ落ちていった。


 細く息を吸い、同じく細く吐き出す。


 己の本分を見失ってはいけない。そんな当たり前のことを思い出す。


 そう、愁介とのことに気を揉んでいる場合でもなければ、そうしていい立場ですらないことを忘れてはならない。


「……壬生寺」


 斎藤は、先ほど別れ際に告げられた土方の言葉を再び小さく復唱し、歩みを速めた。

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