狐花
「ふふ、無闇に外を出歩くのは危険だからと、今日も礼などは必要ないと申したのですがね。律儀な娘です」
こちらの勘違いに乗じた伊東の答えを聞いて、斎藤は静かに、そっと息を吐き、改めて口の端に薄く親しみを込めた笑みを浮かべた。
「それは一重に、伊東先生のお人柄でございましょう」
答えれば、女が焦ったように「あ、あの……以前は、お礼にも伺えず……」と言い繕おうとした。
しかし斎藤は首を横に振り、「構いませんよ、お忙しかったのでしょう。私も忙しくしていましたから、その後様子見にも参れず、お互い様です」とそ知らぬふりを続ける。
「斎藤くんも、懐のお広い方ですね」
「とんでもありません」
果たして伊東が、斎藤のこれに気付かずにいてくれているのかは知れないが、少なくとも今はふっと、ようよう場の空気が和んだことが肌で感じられた。
「では、私は部屋へ戻らせていただきます。伊東先生、足をお止めしてしまい、申し訳ありませんでした」
「いいえ、こちらこそ」
斎藤は一礼し、伊東の横をすり抜けた。
が、直後に後ろから「ああ、そうだ。斎藤くん」とやおら穏やかな声で改めて呼び止められる。
「はい?」
落ち着いて振り返れば、伊東は懐から出した扇子でほんのわずか口元を隠しながら、瞳をとろけそうなほどたわめて微笑んでいた。
「君がよろしければ、今度、共に食事でも如何ですか? 何だかんだと、落ち着いて話せたことはあまりなかったでしょう。君とは是非、一度ゆっくり話してみたいのですよ」
美しい笑みと共に差し出されたのは、甘い、を通り越した、随分と甘ったるい声だった。
少なくとも、今の斎藤にはそう感じられた。
それでも、伊東には華がある。
幾度となく含みある言動を取ってはいるが、受け取り手によって解釈が変わるだけで、伊東自身が何かを悪し様に言っているわけでは決してない。その言動によって、伊東自身の本心がどこにあるのかが見えるわけでもない。
だからこそ、やはり華があるのだ。
頑固で一本気な面を持つ、良くも悪くも明快な近藤や土方とは異なる性質。人なんてものは、時に目の前の明朗な事実よりも、はっきりとしない物事への想像を膨らませることを好む。恐らくそれこそが、伊東の、人としての魅力なのだろう。
「身に余るようなお誘いですね。喜んでお付き合い致します」
斎藤は改めて瞳を和ませ、一礼した。「約しましたからね」と艶やかに深められた笑みに頷き返し、静かに踵を返す。
――数歩進めば、自然と、顔から表情らしい表情が剥がれ落ちていった。
細く息を吸い、同じく細く吐き出す。
己の本分を見失ってはいけない。そんな当たり前のことを思い出す。
そう、愁介とのことに気を揉んでいる場合でもなければ、そうしていい立場ですらないことを忘れてはならない。
「……壬生寺」
斎藤は、先ほど別れ際に告げられた土方の言葉を再び小さく復唱し、歩みを速めた。




