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櫻雨-ゆすらあめ-  作者: 弓束しげる
◆ 一章一話 池田屋の桜 * 元治元年 六月
19/202

鶴ヶ城の桜

 苦々しく顔を歪める梶原に一礼して、踵を返す。


 長い廊下を抜け、笠を目深にかぶり直して金戒光明寺を後にする。


 来た時と同様、斎藤(かんじゃ)の存在を知らない門番達に窺うような目を向けられたが、ただの参拝者を装ってすべて受け流し、壬生に足を向ける。


 会津本陣近辺の、人通りの少ない閑静な小道を通り抜けて南に下る。


 しばらく歩いて広い祇園感神院(八坂神社)の境内に入り、正月や祭事でもなければひと気もまばらなそこで斎藤はようやく笠を脱いだ。


 社のかたわらをすり抜け、商店の建ち並ぶ四条の大通りに出る。


 途端にガヤガヤとした喧騒に身を包まれた。そこ此処から聞こえるたおやかな京弁を聞き流し、行き交う人々の合間を縫いながら、斎藤は遠く入道雲の見える青空を仰いだ。


 夏の湿気を含んだぬるい風が、頬を撫でていく。


 ――会津がどう判断をしようが、新選組が潰されようが潰されまいが、どうでもいい。


 考えて、一瞬ばかり口の端を上げ、また元の無表情に戻る。


 そう、どうでもいいのだ。もう二度と、同じ轍は踏むまいとだけ思う。


 二年前、斎藤は図らずも試衛館の面々をかばう形で会津という檻の中に戻ってしまった。あの時の己の判断を、間違っていたとは思わないが悔やんでいないわけでもない。


 二度と情には流されない。そう決めて新選組の間者に入ったのだ。好きにすればいい。そこに己の生き死にが関わらないのなら、興味もない……。


 人混みを縫って黙々と歩く内に、鴨川にかかる四条大橋に差し掛かった。幅が広く、端から端へ渡るにもひと息のいる長い橋だ。


 渡る途中、斎藤は中ほどで歩みを止めて欄干に身を寄せた。ところどころ塗装のはげている、ざらりとした朱色のそれに手をかけ、持っていた笠を投げ捨てる。


 眩く陽光を反射させるゆるやかな川を、笠は抵抗なくするすると流れていった。


 見送り、澱みのない水の匂いをかいで、息を吐く。


 ――流される(ヽヽヽヽ)ことの容易(たやす)さを、兄は知っていたのだろうか。


 思案して、斎藤は無意識に橋の桟から身を乗り出していた。


 そんな時だった。


「――わッ、と! すみません!」


 突然、腰が後ろに引っ張られた。袴の腰板辺りに何かが引っかかったのか、腹に前紐が食い込み、「う」と小さな呻きが漏れる。


 いくら人が多かろうと、この広い橋で人に当たるなどどういう了見か。


 斎藤は顔をしかめて振り返った。するとそこに沖田がいたように見えて、


「……何だ、沖――」


 呼びかけた名前を、しかしすぐさま慌てて呑み込んだ。


 ――沖田ではなかった。


 斎藤から三歩ほど離れた場所で足を止め、「ホントすみません!」と拝むように片手を顔の前にかかげていたのは、見知らぬ年若い侍だった。


 恐らくまだ十代であろう、青年というよりは少年に近い、幼さを残す猫のような瞳。我の強そうなキリリと上がった眉。清潔な白の着物と上質な紺鼠の袴をかっちりと着付け、背中まで伸びる艶やかな黒髪を、珍しい紅鬱金(べにうこん)色の結い紐を遊ばせて高い位置にまとめている。


 ただ、まじまじと沖田ではないことは確認できたのに、それでも背格好と雰囲気が不思議と沖田によく似ていると感じられて、斎藤は奇妙な感覚に捕らわれた。


 沖田同様、斎藤に比べれば痩せ気味の体躯だが、引き締まった筋肉と刀を握るに遜色ない骨格の良さが、袖から覗く腕に窺える。隙だらけに見えて無駄のない凛としたしなやかな立ち姿からは、それなりに剣術を使えるであろうことも見て取れた。


「いやあ、あなたがうっかり橋から落ちなくて良かった」


 何も言えずにいる斎藤に対して、少年は「先を急いでたんだ、許してください!」と、若者らしいハツラツとした澄んだ声を上げた。


 やはり斎藤が答えられずにいると、少年はそのまま「じゃ!」と空気を切るように手を振って、言葉通りの急ぎ足で踵を返す。


「……何なんだ」


 颯爽と離れていく背を見送りながら、斎藤はようやく間の抜けた呟きをこぼした。まどろんでいたところを叩き起こされたような、妙な気分の悪さが胸に残る。


 髪をくしゃりとかき混ぜたところで、


 祇園社の方面――斎藤が歩いてきた方面へ橋を渡りきった少年が、ふと何かに気付いたように足を止めた。髪と袴の裾をひるがえし、こちらを振り返る。


 斎藤は眉をひそめた。


 距離があるため相手の表情は窺えなかったが、数拍の間、間違いなく視線が交差した。


 風が吹き抜けて、少年の長い髪と結い紐が、ふわりと横手にたなびく。


 ――何故かは、わからなかったが……


 会津の桜が、斎藤の脳裏に浮かんだ。葛と共に見た、爛漫と咲き誇る鶴ヶ城の大きな桜。


 わずかに目を見開いて、


「……馬鹿か、俺は」


 斎藤は、額に手の甲を当てて俯いた。昨日からの感傷がこんなところまで響いてきたかと舌打ちして、踵を返す。


 橋を渡りきったところで一度だけ振り返ったが、少年の姿は既に見えなくなっていた。


 ふと気付く。


 ……もしかしたら、会津の侍だったのかもしれない。江戸勤めの家系なのか言葉に訛りらしい訛りはなかったが、改めて思えば何となく容保に似ていた気がした。


 子は親に似るではないが、乱れのない着物の着付けかたといい、凛とした姿勢といい、会津の侍は佇まいのそつのなさ――悪く言えば堅苦しさが、揃いも揃って容保によく似ているところがある。


 ――仮に会津侍だったとしても、間者である斎藤とは、二度と会うこともないだろうが。


 ただ、鶴ヶ城の桜を思い出したのは、そのせいなのかもしれなかった。

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