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櫻雨-ゆすらあめ-  作者: 弓束しげる
◆ 一章一話 池田屋の桜 * 元治元年 六月
18/202

金戒光明寺

 森を流れる小川のせせらぎのような、穏やかな中低音が、飾り気のない八畳間に響く。


「では、長州や肥後の者が、会津を貶めようとしていると申すか……」


 床の間に富士の掛け軸がかけられただけの、蝉の声がどこか遠く聞こえる部屋の中。


「他に考えようもございません。ひと騒動を起こす際、会津葵を用いれば、間違いなく民衆は浪士達を『会津者』と見なすことでしょうから」


 斎藤は俯けていた顔を上げて、部屋の上座に座る人を見据えた。開け放った障子から差し込む昼下がりの日差しが、畳に反射して男の顔に濃い陰影を付けている。


 痩せ気味の体躯に気だるげな雰囲気をまとわせているが、その瞳には頑固とも思えるくらい真っ直ぐな『忠』の光を宿す男。仕立ての良い着物袴を堅苦しいほどかっちりと着付け、背筋を寸分も曲げることなく伸ばす様には、気品が匂い立つ。


「仔細はまだわかりかねますが、土方らが現在、捕らえた枡屋を『尋問』しておりますれば……口が堅く、なかなかに白状致しませんが、正式な報告も追って差し上げられることとなりましょう」


 斎藤の言葉に、その男――会津肥後守(ひごのかみ)、松平容保は、眉根を寄せて怒りに唇を震わせた。


 ――都の左京区黒谷、金戒(こんかい)光明寺(こうみょうじ)。浄土宗の寺院であるそこには、京都守護職の本陣が置かれている。そして斎藤は今、その金戒光明寺の最奥にある、会津松平家当主たる容保の私室に通されて――今朝方の枡屋の一件を、報告し終えたところだった。


 会津の間者である斎藤が、近藤や土方の目を盗みこの場を訪れるのも、もう、一度や二度目ではない。今の斎藤の『役目』は、新選組が会津にとって役立つ組織であるか見極めること。そして有事の際には、情報の齟齬がないよう、常に『真実』を会津に知らせることにあった。


「……斎藤殿。それは相手が会津に戦を仕掛けてくる可能性もある、ということですか?」


 容保の傍らから重い声がかかる。容保の側近、梶原平馬だ。いかにも気真面目そうな目鼻立ちの梶原は、斎藤より二つ年上で、肩先までの総髪を結い上げ、上質の着物をやはり寸分の乱れなく着付けて正座している。


「現状では、仔細はわかりかねます」


 梶原の問いかけに、斎藤は肯定も否定も返さなかった。


「曖昧な報告で申し訳ございませんが……相手側の目論みが、懸念と裏腹に取るに足らないものだった、ということにでもならない限り、仔細がわかってからでは、私は屯所から出られなくなりましょう。そうなる前に、先んじて現状をご報告差し上げに参ったまででございますから」


 今もあまりのんびりしていられない、と暗に告げて斎藤は頭を下げた。


 上座から重い溜息が聞こえる。ちらと目線を上げて窺えば、容保は脇息(きょうそく)に肘を預け、呼吸さえ苦しそうに顔をしかめて目を閉じていた。顔色はお世辞にも良いとは言えず、ただ頬にだけ、わずかに赤みが差している。発熱、しているのだろう。


 斎藤は上体を起こして、気遣うように目を細めた。


「……殿。お体の調子は、まだご回復されませんようで……」


 容保はまぶたを上げて、頬に薄い自嘲を浮かべた。「すまない」と小さく長い息を吐く。


「いえ。……どうぞ、ご無理はなさいませんように」


 斎藤は首を横に振った。


 容保は体があまり強くない。特に京都守護職を引き受けてからは、熱を出して寝込むことも増えている。攘夷派の帝と、開国派の幕府の間で板ばさみになっている、その精神疲労からくるものも多いだろう。


 しかし根が真面目であるがゆえに、体調を崩しても二条城へ御所へと走り回り、結果的に悪化させてしまうこともままあると聞く。だからこそ帝からの信頼も篤いのだろうが、その内、過労で手遅れになるのではなかろうかと思わないでもなかった。


 ――そんな病弱なところまで似なくても、と喉元にせりあがる複雑な思いを呑み込んで、斎藤は顔面に貼り付けた無表情を梶原に向けた。


 これ以上の報告はない、と視線だけで訴える。


 梶原はすぐに察して頷いた。


「斎藤殿、ご苦労でした」

「斎藤、いつも助かっている。……新選組からの正式な報告が来るまで、我々もあらゆる状況を想定し、いざという時のための備えを進めておこう」


 区切りをつけるように、容保が再び背筋を伸ばした。過激派浪士に対する怒りと世情に対する憂い、そんなない交ぜの感情に瞳を揺らめかせながら、凛と告げる。


「万に一つでも、大事(だいじ)が起こってはならない。帝も胸を痛められることだろう……それだけは避けねば」


 助力は惜しまぬから安心しろ、とでも言うように頷かれ、斎藤は手をついて深々と頭を下げた。


 そのまま短い挨拶を済ませ、横手に置いていた笠と刀を拾って静かに退室する。


 障子は開け放たれたままだったのに、部屋から一歩出ただけで何故かミンミンと鳴く蝉の声が近く聞こえた。横手に広がる枯山水の庭を、見るともなく眺めながら進む。


 ぺたぺたと足裏に触れる板張りの廊下は、屋根の影で少しひんやりとして心地良かった。


 容保の部屋からしばらく離れたところで、斎藤は何となく足を止めた。侘しく潤いのない庭の、白砂の紋様に目を落とす。


 じっと砂紋を見据えていると、蝉の声が再び遠のいて聞こえ、静かになった。


 容保に近しい者以外は寄り付かない場所であるため、周りにはひと気もない。独りだ、という感覚に胸が落ち着く。


 このまま風景の中に溶け込めたらいいのに、と斎藤は深呼吸した。


「――斎藤殿」


 浸りつつまぶたを閉じたところで、元来た廊下の奥から声をかけられた。


 まぶたを上げて振り向くと、庭の白砂に反射した日差しに視界を焼かれた。


 思わず目をすがめれば、後を追ってきた梶原が怪訝に眉をひそめ、離れた位置で足を止める。


 斎藤は「失礼」と庭側に手をかざし、睨んだのではないことを示唆した。


 梶原は吐息を漏らし、斎藤の目の前に歩み寄って「ご苦労だった。貴殿の報告は役立たせていただく」と、改めて労いの言葉を寄越した。


 かと思えば、硬い声音で「ただし」と付け加える。


「殿はああおっしゃられていたが、長州や肥後の出方がわかるまで、我々は会津の兵を動かすつもりはない。殿からは武装の命を下されたが、あらゆる手を使って準備を遅らせるつもりでいる」


 きっぱり言い放つ梶原に、斎藤は無表情のまま「左様ですか」と短く返した。


「……斎藤殿。それが何故か、わかりますか?」


 梶原は、剣呑に問うた。


 わずかに低い位置にある瞳を見返して、斎藤はゆるく首を傾けた。問いかけの意味がよくわからず、「会津のためではないのですか?」と率直に返す。


「枡屋に関わる浪士達が、長州毛利家や肥後細川家の意を含んで動いているのか、そうでないのか。それを読み違え、出方を一つ誤れば、長州や肥後と全面的に争うことにもなりかねません。それを避けるためでは?」

「それもある。……が、それと共に、私は今なお貴殿を信用してはいない。貴殿の言葉を鵜呑みにして動くことはしたくない。あらゆる状況を見極めてからでなければ……これは、家臣側の総意と捉えてもらいたい」


 切り捨てるように言われた。


 斎藤は片方の口の端をつり上げた。梶原が気分を害したように鼻の頭にしわを寄せたが、斎藤は皮肉な笑みを浮かべたまま「左様ですか」と首肯する。


 ――二年前まで、主命に背いて好き勝手やっていたのだ。仕方がないと思う。


 ただ、それをわざわざけん制しにくるというのは、ひっくるめて新選組も同じく、未だ信用を置くに足らない存在だという意味に他ならないだろう。


 そもそもこの一年余り、新選組は会津に面倒をかけることはあっても、感謝されるほど役立ったことは特にない。個々の剣の腕を見込まれ、容保には期待をかけられているが、新選組はかつて『会津お預かり』を振りかざし、商家から無理やり金を借りるなどの行いをしたこともある。それは当時の組としての苦心の金策だったとしても、忠義の国と世に名高い会津武士からすれば、もっての外の悪行だったろう。


 その上、今回の桝屋の一件は、一つ間違えば会津そのものの存亡に関わる騒動にもなりかねないのだ。例えば会津が新選組に手を貸し、この本陣の警備が手薄になっているところへ浪士達が襲撃に来ないとも限らないわけで……慎重になるのも、道理である。


 万一にも、会津が被害をこうむるようなことがあらば――梶原達からすれば、新選組が御家に役立つのか否か、そろそろ本格的に見極めたいところなのかもしれない。


「ご随意に」


 斎藤は表情から笑みを消し、冷めた声で短く答えた。

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