束の間の別れ《過去》
「……わかりました。戻ります」
一は、囁くような細い声で答えた。それ以上の大きな声を出せば、湧き上がる激情に乗じて、刀に手をかけてしまいそうだった。
――斬れると思う。兄だけなら。
他のすべてが劣っていても、剣術だけは兄の上をいくと自負していた。
けれど、ここで兄を斬ったところで何も変わらないことも、一はよくわかっていた。例え兄を斬ったとて、罰せられるのは、一自身ではなく試衛館の人達だろう。それを見て見ぬふりをするには、二年という歳月、一は長く試衛館にいすぎてしまった。
「――あ、いたいた。山口さーん」
ふと、背後から気の抜けるような中低音が聞こえた。
のたりと顔を上げて振り返ると、そこには試衛館の内弟子である沖田がいた。涼しげな色の着物袴の袖裾をさばいて駆けてくる沖田は、ぼんぼりのように結わえ上げた髪を揺らし、手を振りながら「やっぱり山口さんだった」と笑顔で言った。
「……沖田さん、どうして」
どうしてここに、と皆まで言う前に、傍らに寄った沖田が「いやあ」と頭をかいた。
「散歩していたら、表で町人さん達が喧嘩だ何だってザワザワしてらしたので。話を聞いたら、片方は私と同じ年頃の無愛想な若い侍だって言うじゃないですか。それで、まあ、もしかしてと思っちゃって」
先刻、兄が声を荒らげた時のことだろう。一は曖昧に口ごもって、わずかに視線を横にずらした。
「でも山口さん、お一人です? お相手さんは、もうお帰りになられたんですかね」
沖田がそんなことを言いながら一の背後を覗くものだから、打って変わって、一は横っ面を張り飛ばされたかのごとき勢いで兄を振り返った。
しかし沖田の言葉通り、兄の姿はもうなかった。どこかで様子を窺っているのかもしれないが、視線の先には薄暗い道が真っ直ぐ伸びているだけで、人の気配さえ感じられない。
……動揺しすぎていて、いなくなったことに気付かなかった。
力なく従っただけに足らず、兄にそんな隙を見せてしまったことが情けなかった。
「チンピラさんにでも、難癖つけられたんですか? まあ、ご無事なら何よりですよ。山口さんって強いくせに妙に無抵抗だからなあ。土方さんも心配してましたよ、『アイツその内、路地裏で干からびて見つかるんじゃねえか』って」
本気なのか冗談なのか、沖田は面白おかしそうにクスクス笑って「ちょうどこんな場所でってことですかね」と、ひと気のない狭い路地を見回した。
一が口をつぐんだまま答えないでいると、はなから言葉など期待していなかったのか、沖田は待つ様子もなく「さあ」と一の袖を引いた。
「いつまでもこんな陰気なところにいないで、帰りましょう」
「……あ」
一は苦く顔をしかめた。それに気付いているのかいないのか、沖田は一の袖を掴んだまま踵を返す。
「永倉さんが『約束反故にする気か』っておかんむりでしたよ。飲みに行く約束でもしてるんですか? 私は断ってくださったほうが助かりますけどね。永倉さんてば、明日の早朝の掃除番、忘れてるんじゃないかなあ」
「沖田さん」
沖田の軽口を遮って、一は腕を引いた。手を、少し乱暴に振り払う形になってしまった。
振り向いた沖田が、不思議そうに首をかしげた。
「え、何ですか?」
「いや、その……すまないが、もう試衛館へは戻らない」
ばつ悪く告げると、沖田の目が丸くなる。それを見返しながら、一は相手にも自分にも言い聞かせるように、再度「もう戻らない」と繰り返した。
「……はあ。そうですか」
少しの間を置いて返ってきたのは、あっさりとした、けれどどこか落胆した声だった。
「まあ、山口さんって、試衛館に居つくようになったのも割と突然でしたから……もしかしたら、いつか突然出てっちゃうのかなーとは、思ってましたけど。理由、訊いちゃ駄目です?」
「……事情は言えないが、人を斬った」
わずかに逡巡して、一は嘘をついた。一拍を置いて「相手は旗本だ」と付け加える。
――人を斬ったとあらば、姿を隠すのも不自然ではないだろうし、旗本が相手なら事件が噂に上らなくても、『御家で内々に調べている』とか言い訳がつく。とっさの判断だった。
一の『嘘』に、沖田は面食らったような顔をして、それから複雑そうに口元を歪めた。ばれたか、と危惧したが、しかし次の言葉には、打って変わって一のほうが面食らってしまった。
「うーん、ずるいなあ」
「……ずるい?」
思わず訊き返す。
沖田は首の後ろで手を組んで、空を仰いだ。
「だって、私まだ人を斬ったことないですもん。別に罪なき一般人を斬ろうとは思いませんけど、やっぱりこう、斬ったのと斬らないのとじゃ、腹の据わり具合が違うって思うんですよねえ」
悪気の欠片もなく拗ねる沖田に、一は「はあ」と気の抜けた相槌を返してしまった。
沖田は気を悪くするでもなく肩をすくめ、「まあ、いいや」と両手を軽く叩き合わせる。
「ねえ山口さん、また会えますかね? その時は、私もあなたと同じ位置に立って、対等に手合わせできたらいいなあ。私、あなたと稽古するの好きなんですよ」
にこりと、澱みのない笑みを向けられる。
一はどう答えていいものかわからずに目を伏せた。
間を置いて、「……世話になったと、近藤さんに伝えてくれるか」とだけ、静かに告げた。
「いいですよ、伝えます」
沖田はやれやれと苦笑交じりに、明るい声を続けた。
「ああ、そうだ。きっと近藤先生も同じことを言うと思いますから、これは私から先にあなたに伝えておきますね」
あごを引いたまま視線だけを上げると、沖田は涼やかに目元を和ませて、一の肩を叩く。
「山口さん、どうぞお元気で――」
――この時の沖田との別れを、一は生涯の別れだと思っていた。
だって、誰が考え得るだろう。大大名である会津松平家と、江戸の田舎で細々と生きていた彼らが、交じり合うことがあるなど。
そしてそれだけでなく、この時の一に、どうして予想ができただろう。こうして沖田に別れを告げ、いっそ兄の言う『不忠義』の咎で殺されないだろうかと願いながら戻った、江戸の会津屋敷で。
「そなたがこれほどまでに思いつめていたなど、気が付かず誠に申し訳なかった」
そう言って、会津の現当主、松平容保侯本人に、深く頭を下げられるなど。
……再び仕えるつもりなんて、これっぽっちもなかった。過去に容保が葛を隔離し続けたのは変わらない事実だし、一に葛の墓さえ教えてくれないのも変わらないのだから。
それでも――。
容保が葛と同じように、一という『個人』を労わってくれたものだから。
本来ならどうあったって頭を下げるべきは一であるという身分を持ちながらも、何の躊躇もなく「申し訳ない」だなんて言って、血の繋がりなどないのに、葛に似た曇りのない瞳を、一に向けたものだから。
――そんな容保の気性を、「義兄上は好き」と言っていた葛は、知っていたのだろうか。
一は容保に、「自分を殺してくれ」とは言えなくなってしまった。
ただ、だからと言って、葛に逢いたいという気持ちをなくすこともできず。
――ああ、息苦しい。いっそ人知れず窒息してしまえたらいいのに。
そんな一の願いは、この時から二年経ち、『会津の間者』として沖田らと再会した今もなお、叶えられてはいない。