一の兄《過去》
それは十九の夏。葛が死んだと聞かされてから、二年後のことだった。
「……ようやく見つけたぞ、一」
江戸の町をぶらついていた時、人気のない裏路地に入ったところで、一の背に低く硬い抑揚のない声がかけられた。
一はぴたりと足を止めた。
狭い道に、蝉の声がそこかしこから覆いかぶさるように響いている。時刻はまだ昼間だが、道幅が狭く薄暗いその場所は、息苦しくなるような圧迫感に支配されていた。
静かに振り返る。己の下駄が砂利を擦る音が、嫌に大きく聞こえる。ゆっくり目を瞬かせると、振り返った先に一人の侍の姿が窺えた。
年の頃は三十の手前。上質な無地の着物と袴を、無個性に身に着けている。狐のような細目と、どこか一自身と面影の重なる無愛想な口元には見覚えがあり――。
「……兄上」
一は、独り言のように相手を呼んだ。
そこに立っていたのは、一の八つ上の兄、山口廣明であった。
一はわずかに眉根を寄せた。兄に会うのは一体何年ぶりのことであろうか。記憶では、最後に見えたのは一が十になった年の暮れ。物心ついた時から十日ごとにおこなわれ続けていた鍛錬の、最後の日だったように思う。幼少期から劣等感を抱き続けている兄の顔は、どれほど年数が経とうと忘れられないものらしい。父によく似ている、というのもあるかもしれないが。
「……ご無沙汰、しております」
目を伏せ、口先だけで挨拶する。
途端に呆れたような吐息を寄越された。
「一。何故私が来たか、わかっているな?」
兄は挨拶を返すでもなく、一に向かって端的な問いを投げかけた。
一は口ごもり、眉間のしわを深くした。視線を下げたまま答えずにいると、それを答えと受け取った兄が、目前に歩み寄って来る。
清潔そうな白足袋と質の良い草履が視界に入り、汚れた素足に下駄をつっかけて、薄汚れた着物袴を身に着けている一との『立場の違い』を感じさせた。
「いつまで不忠義を続けるつもりだ」
「不忠義……?」
感情の窺えない言葉にムッとして、思わず反復する。
兄は、心なしか温度の下がった冷たい声で「それで忠義を尽くしているつもりなのか?」と言葉を重ねた。
一は顔を上げて、自分より少しばかり高い位置にある兄の顔を睨んだ。
兄は痛くもかゆくもないといわんばかりに、白けた表情で一を見下ろしている。
「一。お前は今すぐにでも、会津屋敷へ伺うべきではないか」
問うような言葉遣いだが、声音に含まれているのか明らかな命令だった。
舌打ちをしたい気持ちを抑え込み、視線を横にずらす。
兄はそんな一に、一音一音を押し付けるように言葉を続けた。
「今、会津が幕府より、京都守護職の任を打診されていることは知っているか? 既に幾度かは断っているようだが、幕府は決して引き下がりはしないだろう。先日、将軍後見職におなりあそばされた一橋慶喜様も、会津の守護職就任を強く望まれている。会津は断りきれず、必ず近い内に職を引き受けるだろう」
「……そうですか」
「そうですか、ではない」
一の気のない返答に、今度ばかりは兄も語気を強めた。
「お前は、いつまで『葛様』を引きずり続けるつもりだ。勘違いもはなはだしい、それが不忠義でなくて何なのだ」
「勘違い……? 俺が、何を勘違いしていると?」
聞き捨てならない言葉に眉をつり上げ、一は再び兄を睨んだ。
が、兄は鬱陶しそうに首を横に振るばかりで、やはり何を気に留めた様子もない。
「愚問を口にするな。お前が仕えるべきは『会津』であろうが。お前を『葛様』の元へやったのは、単にあの方が会津を背負うお役目を担われる可能性があったからに過ぎない。お前の『主君』はあの子供ではない、会津だ。何故それをわかろうとしない」
寸分の隙もないただの『正論』に、一は拳を握り締めて答えた。
「――俺が生涯の忠節を誓ったのは葛様で、御家もそれを認めてくださると言ったのです。なのに亡くなるまで会わせてもらえなかったどころか、お悔やみ申し上げることさえ許されず、いいように利用され続けて、何故そんな『会津』にこちらが忠義を尽くさねばならないのですか」
「思い上がるな!」
兄の怒号が路地に響き、一瞬、蝉さえ声をひそめたように錯覚した。
少しして、ザワザワとした喧騒が聞こえた。視線をやると、今の兄の声を聞きつけた町人達が、表通りからこちらを窺うように顔を覗かせている。
「――来なさい」
兄は人々の視線を避けるべく、一の腕を強く取り、引きずるように路地の奥へと足を進めた。二、三歩はそのまま引っ張られたが、この歳になって兄に腕を引かれるなど真っ平ごめんで、一は兄の腕を払って「逃げはしません」と吐き捨てた。
「……一。もう一度言うが、思い上がるな」
先を行く兄が、歩きながら肩越しに再び口を開いた。
「山口家は代々『ご公儀の隠密』を務めてきた家柄だ。お前が会津に仕えることとなったのも、これからの会津が日の本において重要な位置に立つと見越しての、ご公儀からの直々のお達しなのだ。それを何だ、数年ばかり仕えた相手が亡くなったからと言って、主命に背き、放棄して逃げるなど……」
「兄上にはわからない」
一は突っぱねるように言った。わかるはずがない、と胸の内で言葉を重ねた。
――片や『嫡子』を名乗らせられながら、病と知れた途端に世間から隠された少女と、片や『隠密』などという汚れ役を担う家に生まれたせいで、常に『人並み以上』を強要され、それをこなしてもまだ『さらに上』を求められ、『不出来』と蔑まれ続けた自分。
程度の差はあれど、葛と一はずっと窮屈な思いをし、『己』を殺されてきた二人だった。
そんな二人にとって、唯一の『個』を認め合える相手。お互いに支え合うことのできた日々。周囲のすべてが刺すような視線を向ける中、唯一お互いのいる時にだけ『己』という在り方を得られた救いが、どれほどのものだったか。この兄に、わかるはずがないのだ。血反吐を吐いて努力する一に、見下すような冷たい目を投げて「それしきをこなせないお前に何の価値がある」と言い放ったことさえある、この兄に。
……ザ、と草履が砂を擦る音に、一は顔を上げた。兄が足を止めて振り返っていた。
「御託はいい」