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櫻雨-ゆすらあめ-  作者: 弓束しげる
◆ 一章一話 池田屋の桜 * 元治元年 六月
12/203

 霞んだ意識の中で、リー……、リー、と夜虫の鳴く声を聞いた。


 ゆっくりまぶたを上げると、薄暗い視界にくすんだ木目天井が入りこむ。


 斎藤(ヽヽ)は静かに瞬きをして、ぼんやりとそれを見つめた。


 ここは……。


 一瞬、自分がどこにいるのか把握できなくて、緩慢な動きで首を横に回す。


 隣の布団に、沖田が眠っている姿が見えた。


 ――夢……?


 そっと息を吸う。もう一度目を閉じれば、まぶたの裏に、無邪気に笑う少女の顔と、恐ろしいほどに淡々とした某家の家老の顔が交互に浮かび上がった。


 ……そうか、夢だったのか。


 ようやく理解した『現実』に薄く自嘲が浮かび、気だるく持ち上げた手で髪をかき混ぜる。漏れた息は、溜息というよりは嘆息に近かった。


 懐かしい夢だった。それと共に、何とも気の悪い夢だった。斎藤がまだ『山口』の姓を名乗っていた頃の記憶だ。斎藤自身、『山口』が何なのかろくにわかっていなかった子供の頃の……心から慕っていた少女の記憶。


 斎藤は物心がつく前から八つまでという幼少の間、ずっと葛という少女に仕えて過ごしていた。その主は今から四年前、若干十六という若さで胸の病を悪化させて、亡くなってしまった。


 彼女のことを思い返すと、それだけで身が刺されるようだ。が、むしろ未だそんな風に感じてしまう己の情けなさと未練がましさに、斎藤は反吐が出そうな心悪さにさいなまれた。


 ……何て馬鹿馬鹿しく、女々しいのか。


 幾度となく繰り返される己の行動と心理に、いい加減疲れている。


 けれど仕方がないではないか、と。胸の中で、誰に断るでもなく言い訳をする。


 そう、仕方がないのだ。だって葛は、斎藤という人間を形作る『軸』に他ならなかった。葛に仕え続けた数年間――それは斎藤にとってあまりにも幼く、あまりにも大きな日々だった。まさに、三つ子の魂百まで。何しろ物心ついた時には既に傍にいて、傍にいるのが当たり前で、一緒に笑って一緒に泣いて――本物の家族よりも、ずっとずっと一緒にいて。そこで、すべての基盤ができてしまった。斎藤自身の存在意義が『葛のため』となってしまうには充分すぎるほどの、純粋な、確立された年月(としつき)だったのだ。


 ――『葛さま、俺、ぜったいに行きますから……! 待っててください!!』


 斎藤が八つ、葛が七つの暮れの冬。唐突に、理不尽にやってきた突然の別れ際、斎藤は葛にそう言って約束した。迎えに行くと、約束した。最後に交わした指切り。本来なら、何よりも優先して守らなければならなかった大切な誓いだった。


 だからこそ離れてからの九年という歳月の間も、斎藤は葛のために生きられた。葛の元へ行くためだけに生きていた。


 けれど、行けなかった。


 葛は、斎藤が会いに行けなかった九年間、どうしていただろうか。約束が果たされるのを待ち続けてくれていたのだろうか。いつまで経っても迎えに行けなかった斎藤を、恨んだだろうか。苦しんだだろうか。あるいは、斎藤のことなど忘れていただろうか。


 いっそ忘れていたならいいと思う。けれど、忘れていたわけがないとも、思ってしまう。葛は生まれてからずっと籠の中だった。互いから引き離された後も、それが変わることなどなかったはずだ。だからこそ、その後の葛を思うだけで、胸の奥が重く痛む。肺に鉛でも押し込まれたかのような息苦しさを感じる。


 ――葛亡き後、ひょんなことから試衛館道場に居つくようになり、一時は彼女を忘れようと努力したこともあったが……それでも結局ふと思い出しては、こんな風に夢に見て。


 斎藤は閉じていたまぶたを薄く開けて、感覚の鈍い腕を目の前に持ち上げた。手のひらを見つめ、もう片方の手でそれをぎゅっとつねり上げる。


 ささいなものにせよ、痛みを感じた。


 夢の中で襲われていた絶望は、間違いなくかつて身に刺されたそれと同等であったのに、現実ではこうして痛いものを痛いと感じる自分がいる。


 ……いつからだろう。いつの間にか、年数が経つにつれて少しずつ『感覚』がよみがえってきている。そんなものは、いらないのに。


 皮膚に爪を立て、食い込ませる。それまでよりも鋭い痛みが走り、皮が裂けた。ぷくりと手のひらに血が浮き出てくるのがわかる。明かりのない部屋の中では、己の手から黒い水が出ているようにも見えて、少し奇妙だった。


 ぞんざいに舐める。一応は、鉄臭い味がする。


 そんな己の『生』の証が、斎藤にとってはとてつもなく虚しく感じられた。


 ――最悪、だ。


「けほっ」


 考えた瞬間、小さな咳と共に隣で沖田が身じろぐ気配がした。


 ぎくりと首を回す。一瞬にしてまどろみが失せ、鮮明になった視界で改めて隣を窺う。


 沖田は別に目を覚ましたわけではなかったようで、一度、二度と乾いた咳を漏らした後、またスゥと静かな寝息を立て始めた。


 ほっと体から力が抜けた。


 ……風邪でも引いたのだろうか。


 気になったが、ふと別の意味で胸の奥がじくじくと痛み出したのを感じて、斎藤は眉根を寄せた。葛の傍にいた当時の感覚が染み付いているのか、誰かが咳をしているのを聞くと勝手に焦りが芽生え、気が滅入る。


 ――『誰を見てるんです?』


 あの沖田の言葉による動揺も大きかっただろうが、こうして鮮明な夢まで見る羽目になったのは、夢うつつに咳を聞いていたからなのかもしれない。


 斎藤は静かに吐息して、そっと起き上がった。喉の渇きを覚え、沖田を起こさぬよう気配を抑えながら部屋を出る。


 顔を上げると、まだ薄暗いとはいえ、少しずつ東の空が白みかけていた。既に動き出している隊士も少なくないらしく、道場のほうからは、かすかに掛け声や木刀のぶつかり合う音なども聞こえてくる。


 ……本当に、馬鹿らしいな。


 振り払うように髪をかき混ぜて、斎藤は井戸のある中庭へ足を向けた。

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