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櫻雨-ゆすらあめ-  作者: 弓束しげる
◆ 一章一話 池田屋の桜 * 元治元年 六月
10/203

幼い共依存《過去》

「……だれ?」


 ひざまずいている大人に、葛は人が変わったような白けた視線を送った。


「殿からのお文をお届けくださった、つかいのかたです」


 一の説明に、葛は「ふうん」と気のない返事をした。一の懐に入った文をチラと見やり、七つの子供とは思えないほどの冷たい声を男に投げる。


「ごくろうさま。もう、ご用はないんでしょう?」

「は、いえ……」

「帰ってもらっていいですよ、おれ、あなたと話したくないので」


 きっぱりとした葛の言葉に、男はとっさの様子で顔を上げた。


 けれど葛は変わらずの冷たい声で、「おもてを上げていいなんて言ってないですけど」と追い討ちをかける。


 男は慌てた様子で再び頭を垂れた。


「これは、ご無礼を……どうかご容赦くださいませ」

「帰ってください。ごくろうさまでした」

「お待ちを……っ、殿より、葛様の具合を伺うようにと」

「なにも変わりないです。父上にもそう伝えてください。帰ってください」


 取り付く島もなく言い放たれ、男はしばらく戸惑いに視線をさ迷わせていた。が、少しして仕方なく立ち上がり、一礼して踵を返す。


 一度だけこちらを振り返ったけれど、結果として葛と一の突き放した視線に追いやられる羽目になり、そそくさと足を速くして去って行った。


 外門にある木の柵が開閉する音を聞き届けて、一はようやく、本当の意味でほっと気が抜けたのを感じた。


「……おれ、ああいう大人って大っきらい」


 葛が息詰まったような声を上げた。強く、一の胸にしがみつく。大人を突き放した冷たい声とは違い、我侭を言うような甘えた声だった。


 見下ろせば、葛はふてくされたように唇を突き出していた。


「一のこと、なんにも知らないくせに。一は一だもん、おれが知ってるもん。すごくがんばってるの、知ってるもん。八つでも剣術すごいんだぞ、おれのお師匠さまなんだぞ。読み書きだって、もう十一の人がやるようなの、やっちゃうんだから。ばかにすんな」

「葛さま……」


 まるで一の心境を代弁してくれるかのような文句に、胸の奥がすっきりした。一は口元をほころばせて、葛の体を右腕で抱き返す。


「俺、気にしてませんよ」

「ふふっ、ウソ。一がお兄さんと比べられるの一番きらいってことくらい、知ってるもん」


 クスクスと肩を揺らし、葛は小憎らしい笑顔で舌を出した。


 その時だった。


「……ッ」


 唐突に、葛の体が軽く痙攣する。


「葛さま?」


 何の前触れもなく黒目がちな瞳が見開かれ、細い喉から「ウ」と掠れた呻き声が漏れた。


「げほっ、ひ……ッ!」

「葛さま!」


 発作だ――!


 一は慌てて握ったままだった木刀を放り出し、膝を折る葛を両腕で支えた。


 葛は小さな手で自身の胸元を掴み、苦しみに耐えるように体を丸くする。呼吸が上手くできず、咳のような歪な音が喉を鳴らす。


 その背に手を回し、一は葛の顔を下から覗き込んだ。


「葛さま、大丈夫ですか? お薬飲めますか?」


 葛は答えず、浅く荒い息を繰り返しながら目を瞑り、かすかに首を横に振った。


 ――小さな体だ。いくら七つと言ってもあまりにも小柄で、「おれ」なんていう一人称が似合わないほどに線の細い少女(ヽヽ)の体。


 葛は生まれて間もなくから、心の臓を患っている。あまり食べ物を多く口にすることもできなくて、体の成長が遅れているのだ。


 こうして発作が起きると、葛はいつも、小さな体をさらに小さくして苦しむ。だから一はいつも、葛がそのまま目に見えない何かに押し潰されてしまうのではと不安になる。


「葛さま、ゆっくり呼吸してください」


 不規則で奇妙な音を立てる葛の心臓に、正しい脈を教えるようにトントンと背を優しく叩く。本当は薬を飲むのが一番なのだが、以前、医者が無理やり飲ませた時に喉を詰めてしまったことがある。以来、最低限呼吸が落ち着くまではこうするようにと教えられていた。


 ――これ以上悪くなったらどうしよう。自然と自身の鼓動まで早くなるのを感じながら、一はしばらくの間、治まれ治まれと願って葛の背を叩き、抱き締め続けた。


 少しして、葛がわずかに吐息したのがわかった。


「……ごめ……ハ、……ッかふ、ケホッ、ちょっと、治まっ……」


 声は細く、まだまだ震えていたが、一は急いで懐から薬を取り出した。包みから丸薬を取り出し、葛の小さな唇にそっと押し付ける。


 葛は変わらず体を丸くして、けふ、かひゅ、と空咳のような呼吸を繰り返していたけれど、どうにか薬を口に含み、弱々しくも飲み込んでくれた。


 それを見届けてから、一は部屋の中に置かれていた水差しを取って、再び葛の元に戻る。


「大丈夫ですか。まだ、おつらいですか」

「……ん、こほ、ッ。すぐ、治ると思う……このくすり、効くから……」


 葛は一の差し出した水を、ゆっくり小分けに口に含んでいった。しばらくして、丸めていた上体を恐る恐るといった様子で持ち上げる。


「でも、これ飲んだら、ねむくなるのが……ヤだなあ」


 小さくなった空咳のような音の合間にささめきながら、一に寄りかかってくる。


 額や首筋に、夏の暑さのせいばかりではない汗が浮いていた。腰に引っ掛けていた一の手拭いで拭ってやると、小さな口から、今度こそホウと明確なひと息が漏らされる。言っている間に痛みも落ち着いてきたのか、少しばかり体の力を抜いた様子が伝わった。


 次第に呼吸も整って、葛のまぶたが、とろんと落ちてくる。


 ……薬の効果の速さは、それだけ葛の体に負担をかけていることをも物語っているのだけれど。それでも発作が起きて苦しんでいるよりはずっといいと思えて、一もようやく長い息を吐き出した。


「葛さま。部屋までおつれしますから、寝ても大丈夫ですよ」


 言うと、葛は頬をゆるめてまぶたを閉じた。甘えるように、一の胸に頬を寄せてくる。


「……人と違うのなんて、言われなくたって、わかってるのにね」


 脈絡のない呟きが落とされる。先刻の大人の話だろうか。


 葛はぽつりぽつり、ほとんど口も開けず、独り言のように言った。


「なんでみんな、人とちょっと違うだけで、あんな目、するんだろうね。……ほんと、きらい……みんな、きらいだよ」

「みんな、ですか」


 切なくなって、一は葛の体を抱き締めた。


「みんな、なんて……言わないでください」

「……あ。義兄(あに)うえと、姉うえだけは、好きだよ……。あと、おさだ(ヽヽ)も」


 一の心情を察したか、眠いだろうに、葛は意地になったようにそれだけ言った。ろれつが回っていなくて舌っ足らずだったが、心なしかその表情は、「言いたいことは言ったぞ」とでも言うように満足げだった。


 ――お貞というのは、この国のお殿様に仕えている、大目付役の娘の名前だ。葛よりも一つ下、一の二つ年下で、自分達に比べれば『普通の子供』然としている女子(おなご)だが、とてもサバサバとして芯のある子供だ。


 事情があり、普段は袴すら身に着けている葛ではあるが、その身は実質少女に変わりない。お貞はそんな葛の養育の一環として、時々大人に連れられて来る唯一の女トモダチというものだった。


 一はクスリと笑んだ。内心は複雑だったが、それは表に出さず「そうですか」と優しい声を返す。


「がまんせず、もう眠ってください。疲れちゃいます……お貞も、また来てくれますよ」

「ん……」


 まだ断続的に胸が痛むのか、頷いた葛の眉間には、時折引きつるようにしわが刻まれた。それでも先刻に比べれば、呼吸は深く、楽そうだ。ふあ、と小さなあくびをして、いよいよ一に全体重を預けてくる。


 それを愛おしく思いながら、一は葛を背負い上げた。先刻感じた切なさを振り払うように、しっかり立ち上がる。


 と、そこで胸中を見透かされたように耳元で小さく、


「一番は……」

「え?」

「一番は、はじめだけ、だけど……」

「あ……」


 驚いた。手を繋いだみたいに、心が繋がったのかと思った。


 首を回せば、葛は今度こそ本当に眠ってしまったようで、一の肩に首を預けて大人しい寝息を立てていた。


 一は思わずフフと笑った。嬉しくて、背中にある重みが一層、大切に感じられる。心が、温かくなる。


 そうだ、何を拗ねていたのだろう。拗ねることなんてない、自信を持っていればいいのだ。葛の一番は自分だけだと……。


「俺も、葛さまだけが一番です」


 夢の中にいる葛に返して、一は部屋に入った。


 敷いたままの布団に葛を下ろし、できるだけ揺らさないよう、静かに寝かせる。


 無意識に、きゅっと袖を掴まれた。眠っているのにそうする仕草が可愛くて、手をやわらかく包み、握り返す。


「大丈夫です、どこにも行きません」


 気のせいかもしれなかったけれど、葛の表情がほころんだように見えた。


 その表情に満たされる。手の内にある温もりを、護りたいと思う。


 ――生まれてこの方、唯一、一を『山口家の子』ではなく『山口一』と見てくれる人。物心ついた時から傍にいて、ずっと共に生きてきた初めての主。初めての幼馴染。初めての妹。一の『すべて』。


「そばにいますよ、ずっと」


 言葉には、一切の偽りも、遠慮も、迷いもない。


 あるのは真実の一心なる想い、それだけだ。


 それだけ、だったのに。


 そんな一の、唯一無二の主君は――その冬、大人の勝手な都合によって、一の元から攫われた(ヽヽヽヽ)

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