5話 記憶喪失と本
この世界で目覚めてから2週間が経った。
あれから毎日昼前に母様の部屋に行って様子を見るようにしている。今のところ大きな変化はないが、食事療法が効いたのか少しずつに元気になられていますとナタリーが言っていた。
ただ私が向かう時には母様は寝ているため、まだちゃんとお話したことはない。
そんなこんなで1日のルーティンはほとんど初日と変わっていない。貴族の子供としての勉強はないのかと思ったが、今はちょうど家庭教師の先生が産休に入っていて勉強はお休みらしい。
食事を用意するのも部屋の掃除もほとんどジェニーが1人でやっているし、もしかしたら他の人を雇う余裕がないのかもしれない。
しかし何もせずに部屋でぼんやりしているわけにはいかないので、空いている時間はこうして図書室に籠るようになった。図書室と言っても学校の1部屋のような規模ではなく、市立図書館くらいはある。
所々に空きはあるが、2メートルほどの本棚が点々と置かれ、そこに本が詰められている。ゲームに出てきた学園の図書室もかなり立派だった気がするから、貴族は本をたくさん持っているのが当たり前なのかもしれない。
調べ物をするにも知識を増やすにも、ついでに娯楽のためにも図書室はうってつけだった。
「本を選ばれましたらお声掛けください。紅茶をご用意いたしますので」
「うん、ありがとう。あ、そのあたりに病気を治すような魔法についての本があったら置いておいてくれる?」
「病気を、となると聖魔法でございますね。かしこまりました」
全部の本棚を見て回っていたら時間がかかってしまう。机の近くにある本棚をジェニーに任せ、少し部屋の奥へ向かう。
食事メニューを改善した後、リカードからお医者様に鉄分を取れるような薬はないか確認してもらった。しかし、どうやらこの世界には生薬しかないらしい。
血行を良くするような薬はあるが、保存が利かないため数日に1度買いに行く必要が出てきてしまう。
以前いくら薬を飲んでも母様が治らなかったとかで、父様は屋敷に常駐していたお医者様を追い出したらしい。それ以降薬のこともあまり信用していないらしく、母様のために薬を買うことは許可されなかった。
――偏頭痛も貧血も、薬を飲めばすぐ治るものでもないしな。一旦落ち着いても偏食を続けてたらすぐ再発するし。
そもそもこの世界では、病気のために続けて薬を飲み続けることはあまりないらしい。薬が高価だということもあるが、大抵の病気は『聖魔法』で治せるからだ。
と、そこで目当ての本を見つけた。薬がだめならと、昨日からこの世界ならではの魔法について調べる方針に切り替えた。『魔力と食事』と書かれた表紙には、植物の絵が描かれている。
その本を手にして図書室の真ん中に置かれた長方形の机に戻ると、何故かジェニーが申し訳なさそうな顔をして立っていた。
「アレン様、申し訳ありません。聖魔法についての本は見つかりませんでした。以前は置かれていたと思うのですが、旦那様のご命令で本の整理をした際に処分されてしまったようです」
そういえばとリカードが薬の話ついでに言っていたことを思い出す。母様は前に1度、神殿で聖魔法をかけてもらったことがあるのだそうだ。そこでも一旦体調不良は改善したものの、薬と同じく再度悪化したらしい。そのため父様は聖魔法のこともあまり信用していないのだとか。
――父様は怪我や病気をした時、どうするつもりなんだろう。
変な治療法なんかに騙されないといいけど、と思いつつ首を振る。
「わかった、大丈夫だよ」
「病気を治すような魔法についてお調べになりたかったのですよね。ということは、以前奥様が神官様にかけていただいたような魔法でしょうか」
ジェニーが思い出すように言う。その中に引っかかる単語があった。
「神官様? 神官様が聖魔法を使えるの?」
「はい。彼女は元聖女様ですので」
話を聞くと、今神殿で神官を務めている彼女こそ、歴史書に出てきた『聖女』らしい。なんと御年88歳。魔界の門を閉めるという伝説を作った後、当時の神官様と結婚して、神殿の協力のもと疫病で苦しむ人々を治療していたそうだ。10年ほど前に先代神官様が亡くなり、その後を継いで神官様になったという。
――ゲームに神官様は出てこなかったけど……確かエンディングの後、ヒロインは聖女として神殿に勤めることで平民の身分を脱して、攻略対象と結ばれる形だった気がする。
王子ルートしか見ていないが、もしかしたらストーリー的にどのルートでも同じエンディングなのかもしれない。
母様が数年前に神殿で聖魔法を受けたことがあると聞いたばかりなのに、今聖魔法を扱えるのはヒロインしかいないと思い込んでいた。でも先代聖女が生きているなら、ヒロインを探さなくても神殿にさえ行けば、まだ聖魔法を受けられる。
それなら母様に、これから何度か治療を受けていただいて……と提案したところで、ジェニーが言い難そうに口を開いた。
「神殿での治療は平民には無料なのですが、貴族の方には、その……かなりのお気持ちが必要でして」
おそらく聖魔法を信用していない父様が許可しないだろう、ということだった。
貴族としてそれなりにお金はあるはずなのに必要なことに使えないなんて、と子供であることが悔しくなる。父様が実権を握っている限り、費用が掛かるような治療法は受けられなさそうだ。
ひとまず聖魔法は1度受けているということなので、他の方法を考えてみるのもいいだろうと持ってきた本を開いてみる。大まかな内容として、魔力は自然界に溢れていて、食事や呼吸で補うものだということ。そして、魔力が少なくなると体に不調が出るということが書かれているようだ。
「母様の体調不良は、魔力不足という可能性はない?」
私が本を開いたことで紅茶の用意をしていたジェニーは、一度手を止めて首を捻った。
「そうですね。奥様はかなり魔力量が多い方ですので、あれだけのお食事ではとても満たされないと思います。ただ、最近は魔法もほとんど使われていないはずなので……」
そこで言葉が止まる。おそらく同時に同じことを思い浮かべたのだと分かり、私も首を捻った。
「……魔法で出したものって、食べても大丈夫なのかな?」
「私は魔法を使えませんので、断言することはできませんが……魔法は魔力の塊ですので、飲み込んでも体内で吸収されずに霧散するのではと思います」
「なるほど。自分で吐いた二酸化炭素を自分で吸ってるみたいな感じかなぁ」
「……あまり体にはよくないかもしれませんね」
そう言われて苦笑する。実際はどうなのかわからないが、一応それも止めるようにナタリーに伝えておいた方がいいかもしれない。どうしても食べるなら普通の氷を用意してもらった方がいい。内臓を冷やすから本当はあんまりよくないけど。
出された紅茶を一口飲んで落ち着く。前世の体は猫舌だったけど、アレンは熱いものも平気らしい。これにも魔力が含まれてるのかなぁとカップを眺め、またもや会話の中で浮かんだ疑問をジェニーに投げかける。
「魔力量って、どうやって決まるの?」
「確か個人差によるものと聞いたことがあります。ですが、魔法を使えるようになった年齢が早いほど、多くなるようです」
「ということは、母様は早かったんだね」
「奥様は10歳で目覚められたそうです。平均が12歳から13歳だったと記憶していますので、かなり早い方かと」
そうなんだと返しながら、本を読むよりジェニーに質問している時間のほうが長くなってしまっていることに気付いた。それに文句も言わず的確に答えてくれる彼女に改めて感謝しつつ、本のページ数を確認する。
これなら読み終わるころには、母様のところへ向かうのにちょうどいい時間になってそうだ。今日はこの本だけ読んで、数冊気になる本を持って部屋に戻ることにしよう。
私が本を読む体勢に入ったことに気付いたジェニーが、視界に入らない位置で控えようと移動し始めた。それに気付き、声をかける。
「ジェニーも待っている間暇だろうから、好きな本を読んでいて」
「……かしこまりました。お心遣いいただき、ありがとうございます」
このやり取りにも慣れた。最初はもっと抵抗されていたので、すんなり受け入れられるようになったのは嬉しい。自分が本を読んでる間、ずっと誰かを待たせているなんて気になってしまう。
――余計なお世話かもしれないけど、この間にジェニーも休んでくれたらいいな。
そんなことを考えながら、本のページをめくった。
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1時間ほど経っただろうか。一区切りついて顔を上げたついでに、ジェニーの方をちらりと見る。言った通り本を読んで待っていてくれているようだ。
よかった、と視線を手元の本に戻そうとしたところで、彼女が読んでいる本の表紙に目が留まる。なんだろう。何故かとても懐かしいような気がする。
その本……とつい呟いた声が聞こえたらしい。ジェニーがぱっと顔を上げた。
「失礼いたしました。どうかなさいましたか?」
「あ、いや……それ、絵本?」
「はい。よろしければ、ご覧になりますか?」
頷いて、彼女が持ってきてくれた本を受け取る。ジェニーが読んでいたのを奪ってしまったようだが、どうしても気になった。
『王子さまと4人の騎士』という題の下に、かわいいイラストが載っている。王冠を被った男の子と、それを守るように立っている銀の鎧の騎士が4人。
机に向かうことも忘れ、椅子に横向きに座ったまま吸い寄せられるようにその本を読み進めた。
『これは、あなたが住んでいる世界のどこかにある、小さな国の王子さまの、とっても大きな秘密のおはなし』
『王子さまは小さなお城の小さな窓から、小さな雲を眺めて、そして大きな大きなあくびをしました』
王子様があちこち冒険する中で、国の東西南北を守る騎士に出会う話。もちろんゲームには関係ないし、私がやった王子ルートにも出てこない。前世で似たような本を読んだこともない。それなのに。
――私、この本……読んだことある。
そう確信した時だ。
突然、ズキンと頭が痛くなった。殴られたような衝撃に思わず片手で頭を抑える。片手で支えきれなくなった本が滑り落ちて、バサッと床に広がった。
「……アレン様!?」
紅茶を淹れ直そうとしていたジェニーが慌てて駆け寄ってくる。反応してあげたいのにうまく体が動かない。耳の中でぼわぼわと音が反響して、歪んで聞こえる。
目も霞んでいてよく見えない。偏頭痛なんかとは違う激しい痛みがガンガン響き、目をつぶって耐えることしかできない。
なにこれ、なんで? 頭が痛い。この世界に初めて来た時みたい。
――来た? いや、違う。『私』は最初からこの世界にいた。
その瞬間、目が覚めたようだった。徐々に痛みが和らいでいく。頭にかかっていた霧が晴れるように、今まで忘れていたことが次々と思い出される。
1度だけ父様と食事をしたこと。馬車に乗ったこと。庭に猫が入ってきたこと。自分の部屋で薬草についての本を読んでいたこと。服を買いに行ったこと。
おぼろげだが、確かに覚えている。『アレン』としての記憶。
――ああそうだ、あの日は久しぶりに外出した。その帰りに神殿を見て、聖魔法の話を使用人から……ジェニーから聞いた。そして父様に、母様に聖魔法を受けていただくことを進言したんだ。……階段の、上で。
ずっと怖くて、考えないようにしていた。
意図的ではないとはいえ、自分は誰かの人生を奪ってしまったのではないか。誰かの意思を上書きして、体を乗っ取ってしまったのではないか。
この体にいた『アレン』は、どこに行ったのだろうかと。
でも、違っていた。乗っ取られたのでも消えたのでもない。アレンは、私は思い出したんだ。あの時に前世の記憶を。そしてそのショックで、今まで本当に、記憶喪失だったんだ……。
「アレン様、アレン様!! ああそんな……すぐにお医者様を!」
すぐ近くでジェニーが慌てている。普段は冷静なのに、今にも泣き出してしまいそうな声だ。いつの間にか握られていた手が離れそうになるのを、掴んで止める。
「必要ない」
早く安心させないと、と思って口から出た言葉は冷たいものだった。別に使用人に対しての言葉遣いとしては間違いではない。しかし、6年ほどの記憶を思い出したとはいえ、中身はほとんど22歳の記憶が占めている。
まだ少し混乱している心を落ち着けるため、ふうと大きく息を吐き出す。ゆっくり目を開ける。視界ははっきりしている。音もちゃんと聞こえる。……大丈夫だ。
「アレン様……?」
顔を上げると、酷く不安そうな顔をしているジェニーと目が合った。そういえば、あの日まで彼女には八つ当たりばかりしていたことを思い出す。
6歳の子供だからそういうものだと言われればそれまでだが、改めて考えるとすごく恥ずかしい。机に置かれていた絵本の表紙を軽く撫で、ジェニーに向き直る。
「この本、見つけてくれてありがとう、ジェニー」
彼女が驚いたように目を丸くした。さっきまで頭を押さえて苦しんでいたのに、突然何を言い出すのかと思ったんだろう。でも、ちゃんと伝えたかった。
「昔、よく読んでくれていたよな」
それだけで伝わったらしい。
目を潤ませて何度か頷いた後、堪えきれずに顔を覆って泣き出してしまったジェニーをぎゅうと抱き締める。今よりもっと昔、まだ何もわからないくらい幼かったころ、こうして彼女にくっついていたことがあるような気がする。
せめて彼女が泣きやむまでは、子供のままでいようと思った。




