29.5話 ジェニーの休日
「奥さん、安いよ! おひとつどうだい」
声をかけられて立ち止まる。そこは新鮮な果物を売っている店のようだった。どうせだからと林檎をいくつか籠に入れてもらい、銅貨で支払う。店主はまいどありと満足そうにそれを受け取って、また別の女性に「奥さん、どうだい」と声をかけていた。
――『奥さん』か。私ももうそんな歳なのね。
少しだけ重くなった籠を持ち直して、人の波に合わせて道を進む。
クールソン公爵家に勤めてもうすぐ16年。アレン様がお生まれになる頃から屋敷にいたと考えると、もうそんなに経ったのかと不思議な感じがする。
最近は実家に帰るたびに、結婚の予定はあるかと聞かれるようになった。今までは仕事を理由に聞き流していたが、年齢的にも誤魔化しきれなくなってきた。
同じように他の屋敷で働いている妹は、すでに結婚して子供がいる。だからこそ両親もそこまで催促はしてこない。
正直、少しだけ心配ではある。このまま歳を取って仕事もできない年齢になった時、私は独りでいるのだろうか。子供を生むにはもう少し遅い。今から結婚を前提に付き合ってくれるような物好きもいないだろう。
『ジェニー、良い人がいたら紹介してね』
そう奥様に言われたのはいつのことだったか。誰かにそういう話をされないと意識すらしないのだから、私は完全に仕事人間のようだ。しかも数日したら、気持ちが全て仕事の方に持っていかれてしまう。
そんなことを繰り返しているうちに、気付けば一部の男性から行き遅れだと言われる年になってしまった。まぁ、特に気にはしていないけれど。
出会いが全くないわけじゃない。同じ歳くらいの使用人だって屋敷にはいる。しかし、仕事仲間をそういう目で見たことがないし、見ることもできなかった。会話をしているとどうしても仕事の話になって、それ以外の話ができない。
――仕方ないわね。だって、仕事が楽しいんだもの。
誰に言うでもなく、脳内で言い訳する。でも、それが一番の理由だった。
アレン様のお傍にいて日々成長される姿を見守るのは、一言で言えば『生きがい』だ。赤ん坊のころから見ているため、子育て欲も同時に満たされているのかもしれない。ああ、だから自分の子供が欲しいとは思わないのね……と、自分で納得した。
今日は久しぶりの休日だ。アレン様が『ジェニーが休んでいるのを見たことがない』と、学園入学前に長めの休みをくださった。奥様も快諾してくださって、旦那様からは賞与までいただいた。
それなのに、部屋にいると仕事のことばかり考えてしまう。さすがに休日までそんなことではいけないと、気晴らしも兼ねて街へ出てきた。
本音を言うと、豪華で衛兵に守られている王宮よりも、多少治安が悪くても平民しかいない街を歩くほうが落ち着く。アレン様の付き添いで王宮に出入りする機会は多いが、平民出身の私には、なかなか慣れるような場所ではなかった。
さて、と気を取り直して辺りに目を向ける。林檎をたくさん買ったからには、全部そのまま食べてしまうのはもったいない。パイか何かにできないかしらと店を見て回る。
調理器具は厨房から借りられるかと考えていたところで、前から歩いてきた少女とぶつかった。運悪く道の小さな段差を踏み外し、後ろに転びそうになる。が、少しよろけただけで、誰かに抱き留められた。
「おっと」
「す、すみません」
「いえ。お気になさ……」
慌てて礼を言って振り返る。そこにいた男性は、何故か言葉を途中で詰まらせて固まった。どこかで見かけたことがある気がしたが、すぐには分からない。
じっとお顔を眺めて、ようやく思い出した。
「スティーブン様! 失礼いたしました、ありがとうございます」
普段は王宮護衛兵の制服を着ているため、私服では一瞬分からなかった。彼もお休みなのだろうか。向き直って改めて礼をすると、彼は慌てて手を振った。
「い、いえっ! お会いできて光栄……いや、だ、大丈夫でしたか?」
「はい、大丈夫です」
そういえば、ぶつかった少女は大丈夫だろうか。珍しい桃色の髪をした少女だったが、人の波に流されてしまったようで姿はなかった。
目の前の彼はこほんと咳をして、小声で言った。
「あの……自分に様付けは不要です。どうぞスティーブンとお呼びください」
「え? でも……」
彼はいつも1人でセシル王子の護衛をしている。ということはかなり上階級の兵のはずだ。もしかしたら隊長クラスかもしれない。それに、王族に付く護衛兵は魔法が使える貴族出身が多いと聞いたこともある。身分を考えると、とても呼び捨てにできるような相手ではない。
断ろうと顔を上げたところで、妙にしょぼんとした彼の表情が目に入った。つい言葉に詰まってしまい、少し考えて答える。
「それでは、スティーブンさんと呼ばせていただきます。こんなところでお会いするなんて偶然ですね。本日はお休みなのですか?」
そう聞いてから、失礼だったかしらと慌てて口を押さえる。アレン様がセシル王子とお会いするようになってからは、彼と顔を合わせることも多かった。しかし2人だけでお話しするのは初めてだ。踏む込みすぎたかと心配したが、スティーブンさんは気にした様子もなく苦笑いを浮かべた。
「はい、休みです。といっても夜からは仕事に戻りますので、夕方までですが……どうも部屋にいると仕事のことばかり考えてしまうので、気分転換に」
それを聞いて目を丸くする。私と同じような人がこんなに近くにいたなんて、と親近感まで抱いてしまう。
せっかくのお休みなのにおひとりなのかしら、と頭に浮かんだ考えを急いでかき消す。それはそのまま私にも刺さるし、軽々しく尋ねるようなことでもない。
実は気分転換というのは建前で、本当はこれからどなたかとお会いするのかもしれない。どちらにせよ、ずっと引き留めておくのは申し訳ない。
「そうなのですね。お仕事お疲れ様です」
「ジェニーさんはお買い物ですか?」
「ええ。まだ林檎しか買っていませんので、もう少し見て回ろうかと」
それではまた、と挨拶をしてその場を離れる。王族の護衛兵なんて世の中の女性からすれば、言い方は悪いがいわゆる『優良物件』だろう。私なんかが傍にいて彼の時間を奪ってしまってはいけない。
スティーブンさんが少し名残惜しそうな顔をされていたのは、きっと気のせいだろうと思った。
===
アップルパイを作るための卵やラム酒などを買いつつ、街を歩く。ちょうど昼時のためか人が増えてきた。あちこちから美味しそうな匂いもしている。油断するとお腹が鳴ってしまいそうだ。
無意識のうちに、食事処が集まっている方へ足が進む。せっかく賞与を頂いたのだから、今日のお昼はどこかで食べようか。そんなことを考えながらお店の看板に目を向ける。
すぐ近くにあったのは酒場のようだった。こんな昼間から開いているのねと中を覗き込むと、客もそれなりに入っていた。
お酒なんてめったに飲まない。理由は、単純にあまり好きではないからだ。同期のナタリーと晩酌をしたこともあるが、お互いに弱くてすぐにお開きになった。
お酒といえば、奥様はとても強かったと記憶している。何杯飲んでも顔色が変わらず、呂律もしっかりされていた。反対に旦那様は、私たちほどではないが弱かったはずだ。
――アレン様はどちらに似てらっしゃるのかしら。
そう考えて、小さく笑う。幼いころから見ているからこそ、お酒を嗜んでいる姿が想像できない。もう少ししたらセシル王子やカロリーナ様と一緒に飲まれるのだろうか。できれば初めてお酒を飲む時は、セシル王子がいらっしゃらないところにしてほしい。
魔力開放直後に神殿でお会いした時は、おふたりはとても仲の良いお友達なのだと思った。お互い相手のためにも強くなりたいと努力されていて、性格も似てらっしゃるのだと。
しかしカロリーナ様とお会いした辺りから、セシル王子がアレン様に向けていらっしゃる気持ちは、友情とは違うのではと感じるようになった。
確かにアレン様は魅力的な方だ。誰にでもお優しくて真面目で努力家で、時々とても可愛らしい。
いずれたくさんの方に好かれることになるだろうとは思っていた。一方で、アレン様自身は恋愛にあまり興味がなさそうだということも知っている。セシル王子の気持ちがアレン様を傷付けないかが、少しだけ心配だった。
――でも、心配するのは失礼なことかもしれない。
小さく息をついて、首を振る。セシル王子は簡単に気持ちを伝えるような方ではないし、そもそもアレン様は強い方だ。精神面でも肉体的にも、簡単に誰かに押し負けるような方ではない。嫌なことはハッキリ断られるだろう。
最近では護衛兵との戦闘訓練も上達して、私では目で追うのが精いっぱいになってきた。魔力調整訓練も一時期は迷ってらっしゃったが、今ではかなり安定されているようだ。
これ以上強くなってどうされるのか、アレン様がどこを目指してらっしゃるのかはわからない。ただ、怪我にだけは気を付けてほしいと思う。
お優しいあの方は、公爵令嬢のカロリーナ様ともいつの間にか仲良くなってらっしゃった。男女の友情は成り立たないというけれど、あの2人は例外なのだろう。
詳しくは聞いていないが、なんとなくわかっている。あの日バラ園で、アレン様はカロリーナ様のお心を救われたのだと。
セシル王子があからさまな態度を取ってもカロリーナ様が納得されているご様子なのは、彼女がアレン様のことを信頼していらっしゃるからなのだろう。
――あ、いけない。また思考が仕事の方へ……。
今はお店を探していたはずなのに。苦笑して、改めて看板を見て回る。
人生の半分以上をメイドの仕事に費やしているのだから、思考が逸れるのはもう仕方がないのかもしれない。先程同じことをおっしゃっていたスティーブンさんも、今頃同じように仕事のことを思い出して困ってらっしゃるかしら。
もはや仕事以外のことを意識するほうが難しい。本当ならお休みの日は服を買ったり友人と遊んだり、劇を観に行ったりしようと思っていたのだけど。実際に休みを頂くと、考えるのは別のことばかりだ。
あとで劇の席が空いていないか見に行こうかと考えていると、なにやら騒いでいる声が耳に入った。気になってその方向に目を向ける。
先ほどの酒場の前に2人の男性が立っていた。どちらも顔が真っ赤で、相当飲んだ後のようだ。まだ昼前なのにと呆れてしまう。
酔っている彼らはおぼつかない足取りで間合いを取りながら、互いに聞き取れないことを怒鳴り合っている。どうやら喧嘩をしているらしい。
――この辺りはしばらく騒がしそうね。他のお店を探しましょう。
そう思って足を踏み出したところで、片方の男性が一層声を張り上げた。雄たけびのような声に、反射的に足を止めてしまう。
そこで、ちょうど狙いすましたように、こちらに向かって酒瓶が投げられた。
回転しながら飛んでくる瓶が目の前に迫る。まさか巻き込まれるとは思っていなかった。避けなければと頭では理解しているが、一度立ち止まってしまったため咄嗟に動けない。危ない、と誰かが声を上げた。
衝撃を覚悟して目を瞑る。
しかし、いつまで経っても瓶はぶつかってこなかった。
「……?」
おそるおそる目を開けると、誰かの背中が見えた。徐々に視界がはっきりして、視線を上に向ける。
私を庇うように立ち、片手で酒瓶を受け止めていた彼の名を呼ぶ。
「……スティーブンさん」
彼は一瞬私を見ると、すっと仕事の顔になって喧嘩の仲裁に入って行った。未だ騒いでいた2人の肩を掴んで、静かに何かを言い聞かせている。男性達は青い顔をすると、すっかり大人しくなった。
酒場の店主らしき人が慌てて店から出てきてスティーブンさんに頭を下げる。いつの間にか周りに集まっていた野次馬が、ざわざわと私たちを取り囲んでいた。
「ええと、とりあえず一旦離れましょうか」
駆け足で戻ってきた彼に手を差し出され、呆然としたまま頷く。手を引かれるようにして野次馬から離れ、人通りが少ない道に着くと、彼はぱっと振り返った。
「間に合ってよかった。危なかったですね。お怪我はありませんか?」
「だ、大丈夫です。……あの、どうして」
どうして、彼はあの場にいたのだろう。たまたま近くの店に用事があったのだろうか。不思議に思っていると、スティーブンさんは見覚えのあるハンカチを取り出した。
「別れた後に足元に落ちていたんです。ジェニーさんの、ですよね?」
「あっ……はい。ありがとうございます」
レンガの上だったので汚れてないと思うのですが、と差し出されたハンカチを受け取る。仕事中にお会いする機会はいくらでもあるのに、わざわざこれを届けるために私を探してくれていたのだろうか。
「すみません、後を追うような真似を」
「いえ、こちらこそ。2度も助けていただいて」
私が頭を下げると、スティーブンさんは両手を振って、ついでに首まで振った。
「き、気にしないでください! 護るのは仕事で慣れているので。……それでは、自分はこれで。お気をつけて」
彼が立ち去ろうとしたところで、誰かのお腹の音が盛大に鳴り響いた。私のお腹が鳴ったのかと思ったが、違った。目の前のスティーブンさんが顔を真っ赤にして固まっているのを見て、思わず笑ってしまう。
「ちょうどお昼時ですからね。もしこの後のご予定がなければ、何かご馳走させてください」
「えっ!? い、いや、そんなつもりでは」
「助けていただいたお礼をしていませんし、今日はせっかくの休日ですから。誰かとお話ししていた方が、仕事のことを考えないかもしれないでしょう?」
私がそう言うと、スティーブンさんは目を丸くした。少し考えて「それは確かにそうですね」と呟くと、まだ熱が引かない頬を掻いた。
「で、では……よろしければ、お昼をご一緒させてください」
「はい、是非」
スティーブンさんと並んで歩き出す。彼はちらりと私の手元を見て言った。
「籠持ちます。重いでしょう」
「大丈夫ですよ、これくらい。お礼させていただく立場ですし」
「いや、それだと私が貰いすぎているので……」
どういうことだろうと首を捻る。結局そっと籠を取られてしまった。軽くなった両手をどうしようか迷ってしまうが、彼のほうが力持ちなのは確実なのでお願いすることにした。
誰かとこうして街を歩くのは久しぶりだ。どのお店に入るか相談するだけでも、なんだかわくわくしてしまう。
不思議と、今日は素敵な1日になる予感がした。




