29.5話 原作のカロリーナ
ガシャン、と庭園に置かれたテーブルが音を立てて倒れる。上に乗っていたティーセットも粉々だ。顔を青くして遠目に見ているメイドたちを睨み付けて、マリンダに顔を向ける。
「何のつもり!? どうしてこんなに飲めない温度のお茶を出すの!?」
「も、申し訳ございません! お嬢様」
「何年勤めてるのよ! 適正温度もわからないの!?」
「申し訳ございません」
震えた声で謝りながら、にやりとマリンダが笑う。何がおかしいのよ。昔付けた火傷の痕が消えそうだからって、新しい火傷を増やすつもりなのね。それならみんなの前でそうすればいいじゃない。むしろ私がこいつに浴びせてやろうかしら。
周りのメイドたちは何をしているの。温度がおかしいことくらい湯気を見れば分かるでしょう? これでもまだ私がおかしいことを言っていると思っているのかしら。テーブルを倒したのだって私じゃないわ。マリンダが倒したのよ。見てなかったの? わざと見ていないの?
スワロー公爵家は10年前からこの平民女に洗脳されてしまった。だれも違和感に気付かない。大人ってこんなに簡単に騙されてしまうのね。子供の私の言うことなんて全く聞いてくれない。
「早く片付けて! あなたが倒したのでしょう!?」
「申し訳ございません」
マリンダはわざとのろのろと片づけを始める。人が集まるのを待っているんだわ。そうはさせない。他のメイドが動かないなら私が片づけてやろうと椅子を降りてしゃがみ込む。
その瞬間、マリンダがコップの破片で私の手を刺した。思わず手を引いて、その勢いで尻もちをついてしまう。
「な、何を……っ!」
「お嬢様、大丈夫ですか!? 片付けは私がいたします。ああ、手を切られているじゃありませんか!」
「あなたが刺したんじゃない! ねぇ、みんなも見たわよね!?」
顔を上げて周りを見るが、メイドたちは怪訝な顔をして顔を見合わせていた。うそでしょう、見えなかったの? 実際に私が手を怪我しているのに? どれだけ役立たずなのよ……!
「マリンダに刺されたのよ! どうして見てないの!?」
「何をしているんだ、カロリーナ」
その声にハッとする。振り返ると、お父様が冷たい目で私を見下ろしていた。どうしてここに、公務中ではと思うと同時に、マリンダはこれを待っていたのだと冷たい汗が流れる。
「お、おとうさ」
「また癇癪を起したのか? どうしてお前はそうなんだ。いつからそうなった。どこで教育を間違えたのか」
「違うわ! 私じゃない、マリンダが……!」
「お前の嘘は聞き飽きた」
ぎろりと睨まれ、言葉に詰まる。この数年、何度話しても信じてもらえた試しがない。今回も駄目だろうと直感で感じて、口が勝手に黙ってしまう。もうこの人に私の言葉が届くことはないのだろう。
最初からそうだった。火傷のことも腕の傷も、お父様はマリンダのほうを信じた。血が繋がった自分の娘じゃなく、ただの平民の使用人を。
「マリンダ、大丈夫か?」
「お気遣いありがとうございます、旦那様。私は大丈夫です。でもお嬢様が……」
「カロリーナのことはいい。お前は怪我をしていないか?」
ズキン、と刺された手が痛む。まだ血が流れている。見えているはずなのに、お父様もメイドも誰も心配してくれない。わざと無視されているのかしら。どうして。私は何も悪いことをしていないのに、どうして?
「私は……お父様の娘ですよね?」
ぎゅっと拳を握る。声が震える。
私を通り過ぎてマリンダの傍にしゃがみ込んだお父様を睨み付ける。
「どうして実の娘ではなくそのメイドを信じるのですか。どうして私の言葉を聞いてくださらないのですか! そんなに……そんなに!」
泣いてやるものかと目に力を込める。そのまま言葉にも力が入った。
「そんなにそのメイドが大事なら、私ではなくマリンダを娘にすれば良いではないですか!!」
言ってから、しまったと思った。マリンダが今まで見たことのないような笑みを浮かべていたから。
頭からさっと血の気が引く。お父様は大きなため息をついて、立ち上がった。
「そうか、わかった。お前がそう言うなら検討しよう」
「あ……今のは、違」
「マリンダ、話をしよう。着いておいで」
お父様が歩いていく。マリンダは「でも」と躊躇うふりをして、私を見た。その口が楽しそうにつり上がっていく。震える脚でなんとか立ち上がったところで、他のメイドに抑え込まれた。え、と声が漏れ、その場に再び座り込む。
「カロリーナが暴れないように見ていてくれ」
お父様が冷たい声で言った。メイドたちは仕える身分のはずなのに、酷く蔑むような目で私を見ていた。
暴れないように? 私が? お父様は何を言っているの。何を馬鹿なことを。マリンダに何の話を。座ったまま思考が停止する。まさか本気で、と視界が歪む。
ようやくわかった。マリンダはきっと最初からそのつもりだったのだ。卑しい平民の身分から抜け出すために。私の公爵令嬢の身分を奪い取るために。私になり替わるために、ずっと、ずっと……!
反射的に懐から杖を抜く。メイドたちが慌てて掴もうとして来るのを風で吹き飛ばす。衛兵が走ってくる。お父様とマリンダは気付かずに建物の中へ入っていく。
こうなってしまったらもう、私の味方なんて誰もいないでしょうね。
――いいえ、最初から私の味方なんていなかったわ。
それならもうどうでもいい。みんな大嫌い。私を信じてくれないお父様もお母様も、会話すらしようとないお兄様も。メイドも護衛兵も衛兵もみんなみんな大嫌い。身分をわきまえず私の話を無視して、蔑ろにして。許さない。私はマリンダを許さない。
卑しくて醜くて下賤で低俗で浅ましい平民を許さない。これからも、絶対に。
私は平民を許さない。大嫌い。
===
「いいか? 温室に人がいる時は、勝手に入ってきたら駄目だ。君を苦手な人もいるのだから」
「アレン様、おそらく猫に人間の言葉は通じないかと……」
「猫は頭がいいから、本当は分かっていると聞いたことがある」
クールソン家の温室が完成した記念に、今日は私とセシル様とアレン様でお茶会をしていた。まだ始まって数分しか経っていないが、突然足元に現れた白い毛玉に私が悲鳴を上げてしまい、お茶会は一時中断している。
メイドたちがすぐに連れ出そうとしたものの動きが素早くて捕まえられず、結局猫に一番懐かれているらしいアレン様が自ら対応されていた。先程からああして猫に話しかけてらっしゃるが、伝わっているのかは謎だ。猫は元気に鳴いて毛づくろいをしている。
「アレン様、大丈夫ですわ。少し苦手というだけですので……」
「苦手な動物が近くにいるのは困るだろう。少し待っててくれ」
「私が抱っこして外に連れ出しましょうか」
「ジェニー、君も猫はあまり得意じゃないだろう」
アレン様が猫を抱きかかえるが、その度にするりと逃げられていた。首輪でも付けるか、おやつで気を引くかと専属メイドのジェニーと相談されているのを見て、申し訳ない気持ちになる。私も猫が好きだったら喜んで一緒にお茶会をしたのだけれど。
先日、ついにマリンダの処罰が決定した。お父様が公務よりも何よりも優先して調べた結果、今まで勤めていたお屋敷でも同じように子供を虐めていたことがわかったらしい。複数の令息令嬢からの証言で、マリンダは家族共々国外追放になったとお父様から直接聞いた。全てが明らかになった後は、スワロー家の屋敷すべてが私の味方になってくれた。
最初の味方は、たった1人だけだったのに。
アレン様にご報告に行ったあの日、帰り際にジェニーに身分を尋ねた。やはり平民出身のメイドはみんなマリンダのようなのか、と聞いてしまったことをすぐに後悔した。彼女は使用人と平民の間に生まれたらしく、身分はマリンダと同じ平民だった。
その時それを初めて知ったらしいアレン様が、何気なくおっしゃった。
『じゃあジェニーは、たくさん努力して私の専属になってくれたんだな』
素敵だ、と思った。身分を知って見下すのではなく、同じ場所にいられる努力を誉めるなんて。そう言われて嬉しそうに微笑むジェニーと彼が、本当に強い信頼で結ばれているのだと知った。
とても羨ましいと思ったのを今でも覚えている。それまで平民はみんなマリンダのようなのでは、と考えていたことを反省した。勝手に決めつけて偏見を持つなんて。私自身それでずっと傷付いてきたのに……よくないことだわ。
結局おやつで猫を誘導し始めたアレン様に視線を向ける。彼は出会った時から優しかった。初対面の私を一度も疑わず、すぐに味方になってくれた。私の信頼を得るために大きな秘密まで教えてくださった。体の傷だけでなく心の傷も消してくださった。
まっすぐで優しくて、とても素敵な人。
――セシル様が好きになられるのも、仕方のないことだわ。
そう思って目の前の想い人を見る。彼の視線は私ではなく、アレン様に向いている。いつからだったのだろう。婚約者候補として何度もお会いするうちに気付いてしまった。その気持ちがただの友情ではないことに。
「セシル様、あまりじっと見ていらっしゃると不自然ですわ」
「え? あっ……す、すまない」
以前のように顔を真っ赤にすることはなくなったが、まだ少々耳を赤くして彼は椅子に座り直す。その様子にふふと笑ってしまう。他のことなら一切表情に出さずにいられる方なのに、アレン様のことだと分かりやすくて微笑ましい。
セシル様のことは好きだ。それは今でも変わらない。最初にバラ園でお会いした時から、私の王子様は彼だと思っていた。
婚約者候補に選ばれた時は嬉しかった。……同時に、傷がバレたらどうなるのか想像して怖くなった。マリンダに言われるまま彼を傷つけるのも辛かった。それでも、彼にも信じてもらえなかったらと思うと、何も言えなかった。
もしかしたらセシル様は、学園で誰かを好きになるかもしれない。そうなったらどうせ私は候補から外される。それならいっそ、傷のことはその時まで隠し通そうと思っていた。
私は『婚約者』ではなく『婚約者候補』だ。あのまま、酷い態度のまま過ごしていたら。学園入学直前の今もこうして一緒に過ごすなんてできなかっただろう。そのうち他の令嬢が新たな候補者として挙がってきていたはずだ。
今も彼の婚約者候補のままでいられるのはアレン様のおかげだ。そう考えると、複雑な気持ちになる。
――私はアレン様と出会っていてもいなくても、きっとセシル様と結ばれることはなかったのでしょうね。
いつの間にか視線が、持っているカップに落ちていた。紅茶に映る自分が揺れている。彼の気持ちが分かって泣いてしまったのも1日だけだった。それ以降は、セシル様の恋を応援したいと思うようになっていた。
だって、好きな人には幸せでいてほしいもの。
――それに私、アレン様のことも大好きになってしまったのよね。
ずっと味方でいると言ってくれたアレン様が好き。薦めた恋愛小説を本当に全部読んで、感想までくださったアレン様が好き。普段は無表情なのに、本当は柔らかく微笑まれる優しいアレン様が好き。もちろん、お友達として。
「すまない、待たせた」
なんとか猫を温室から出したらしいアレン様が手を拭きながら戻ってくる。
いいえと首を振って、カップを置いた。
「ありがとうございます、アレン様。申し訳ありません。私のために手間をおかけしてしまって」
「いや、むしろこちらが申し訳ない。未だに侵入経路が掴めなくてな」
「アレン様のお力をもってしても分からないなんて、相当な手練れですわね」
私がそう言うと、アレン様は小さく笑ってくれた。冷たく見えても気を許すとすぐに素が出てしまう彼は、学園に行ったらどうなるのかしらと心配になる。
セシル様を応援したいけれど、今のところアレン様は一切気付いてらっしゃらない。アレン様のお気持ちが分かるまでは何もできない。私は彼の味方ですもの。
「そういえばセシル、さっきずっと猫を見ていたな。猫が好きなのか?」
「そ、そう……だね。僕も猫が好きだよ」
どうやらセシル様の視線はバレていたらしい。さすがアレン様。ただ、自分が見られていたとは微塵も思っていないのが表情から分かる。セシル様がお好きなのは猫ではなくて……。
――事実は小説より奇なり、ですわね。
聞こえないように呟いて、紅茶を飲む。悲恋小説ばかり読んでいるけれど、この2人の結末はどんな形であれ『ハッピーエンド』がいい。
「カロリーナが猫を苦手だとは知らなかったな。覚えておくよ」
「私もだ。夢に出てきたらすまない」
「大丈夫ですわ。そこまで苦手なわけではありませんから」
3人揃って、学園入学前最後のお茶会が始まった。温かい日差しの中でたくさんの花が咲いていて、美味しいお茶とお菓子があって、好きな方が2人も一緒で。
この時間が好き。この関係が大好き。学園に入っても、いつまでもこの時間が続けばいいのにと願う。
数十分後、いつの間にか足元にいる毛玉に再び悲鳴を上げることになるとは、今はまだ誰も知らなかった。




