28話 涙と自覚
「セシル王子、あまりに急ではありませんか?」
護衛のため、一緒の馬車に乗っているスティーブンがそう言った。
確かに僕も急だとは思う。クールソン公爵家を訪れると連絡を送ったのも今朝だ。もしかしたら、この馬車が着く直前に届いているかもしれない。それは本当に申し訳ない。
ただ言い訳をするならば、カロリーナから『明日はアレン様にも直接お礼に参ります』と聞いたのが昨日だった。そして一晩悩んだ結果、動き出すのが今朝になってしまった。これでも最速で連絡したつもりだ。
「仕方ないだろう? 自分の婚約者候補と友人がどんな話をしているのか気になってしまったんだから」
「お気持ちはわかりますが……」
「いいじゃないか。君も愛しのジェニーに会えるかもしれないし」
それを聞いたスティーブンがいきなり噎せた。
横を向いて呼吸を整え、慌てたように否定する。
「い、いえ! 自分はそんな」
「そうかい? アレンが王宮に来るたびに君の視線がジェニーに向いていたのは、僕の気のせいだったのかな」
「……も、申し訳ありません」
潔く頭を下げる彼に小さく笑って、窓の外を見る。
昨日、カロリーナから詳しい話を聞いた。スワロー公爵家でも少しずつ信じてくれる人が増えたと嬉しそうだった。
その時、直接話したわけでもないのに信じてくれてありがとうと言われて、少しだけ引っかかってしまった。
――アレンじゃなくて、カロリーナから同じ話を聞いていたら、僕は素直に信じることができたんだろうか。
きっと、できなかっただろう。僕は昔の彼女を知っているのに。急に性格が変わったことを知っているのに。……自分の、婚約者候補なのに。
アレンの話を聞いてすぐに信じたのだって、彼を信頼していたから、というだけじゃない。彼がマリンダから目を離すなと言ったからだ。そう言われたからずっと見ていた。だから気付くことができた。カロリーナに向けられる、マリンダの視線が普通じゃないことに。
カロリーナに会う時はいつも彼女の言動に意識が向いてしまって、その横にいたマリンダに気付かなかった。
お茶会の途中で、マリンダがカロリーナを落ち着かせるためと席を立つことは時々あった。専属メイドは大変だなと思っていたが、そこで何が起こっていたのかまでは知ろうとしなかった。
僕もアレンのように立ち上がって彼女たちを追いかけていたら。のんびり待ってなんかいないで、一度でも後を追うようなことがあれば。もっと早い段階で、彼女を救えたのだろうか。
カロリーナは、手紙のことも感謝していた。提案としてメイドの交代が書かれていたから、スワロー公爵が今まで娘を傷つけていた事実にパニックにならずに、すぐ次の行動を判断できたと。僕からの手紙がなければ、きっとまたマリンダに洗脳されて終わっていただろうと。
でも実際はその手紙を送ろうと言ったのも、提案を考えたのも僕じゃない。僕はただ王家の力を使っただけで、そのすべてはアレンのおかげだ。あの日初めて出会ったはずの彼女を、本気で助けようと考えていた彼の力だ。
「カロリーナとアレンは、仲が良さそうだったね」
つい、ぽつりと呟いてしまった。
目の前に座っているスティーブンは、はっとした顔をして、少しだけ考えてから口を開いた。
「はい。仲のいい『お友達』同士に見えました」
「友達か……すごいな、出会ったその日にあんなに仲良くなってしまうんだから」
僕がそう言うと、彼は目を丸くした。
「セシル王子とアレン様も、初めて出会った日にお友達になられたのでは?」
「……そういえばそうだね」
ということは、アレンがすごいんだろうか。もしくは僕とカロリーナが似た者同士なのか。そのどちらもかなと苦笑する。
アレンと出会った時のことは鮮明に覚えている。むしろ、それ以前の記憶が曖昧なくらいだ。
王子として次世代の国を担う者として、与えられたものだけを受け取って抱えて引きずって、ひたすら闇の中を歩いていたような気持ちだけが残っている。別に悪いことばかりだったわけではないはずなのに、嫌なことだけ妙にはっきり覚えてしまっている。
近付いてくる大人たちの取り繕った顔。貼りついたような愛想笑い。見え見えの下心。僕を見ているようで、その後ろにある権力にしか向けられていない視線。王子と呼び褒め称えるが、名前は一切呼ばない誰かの声。まだ文字も読めないのに将来の話しかしない先生。男らしくないからとぬいぐるみの類を勝手に隠した乳母。
王子はこんなことで泣いたりしないと理不尽に叱られたこともある。誰から言われたのかは、もう覚えていないが。
王子らしく、王子らしく。『セシル』ではなく『王子』として生きるように。誰が親なのかもよくわからないまま数年過ごしていた気がする。
いつの間にか、人の表情から感情をなんとなく読み取れる特技まで身につけてしまった。子供としては、あまり持たない方がいい特技を。
スワロー兄妹と出会ったのもその辺りだったはずなのに、断片的にしか覚えていないのは幼かったからだろうか。それとも、それ以外の嫌な記憶に上書きされてしまったのだろうか。
やりたいこと見たいもの食べたいもの欲しいもの。どうしたいと聞かれた時に返すべきなのは、セシルではなく王子としての答え。
遊びではなく勉強を。娯楽ではなく教育を。自ら望むほど周囲から褒められた。この子は素晴らしい王になると喜ばれるようになった。
それが正解なのだと思っていた。……アレンと出会った、あの日までは。
初めて顔を合わせた時は、とても綺麗な子だと思った。初めて見る青い髪と灰色の瞳。すごく緊張していて不安げに見えたのに、広場に着いてすぐケーキに向かっていったのは驚いた。暴力的で他の子たちから怖がられていたマークスに絡まれても平気そうで、ちょっと世間知らずなのかなと思った。
でも、そうじゃなかった。
彼は、とてもかっこいい子だった。
マークスに殴られそうになっても全く怯えていなかった。怒鳴られても動じず、はっきり言い返していた。
あの時は確かメイドを庇っていたように思う。彼は出会った時から、いつも誰かを助けている気がする。
『セシル。このお茶会は、君のために開かれたものだろう?』
彼の言葉に、目が覚めたような気持ちになったのを覚えている。
それまで、母上はどうして僕が食べないと分かっていながらケーキを用意しているのだろうと思っていた。嫌がらせか、精神的に鍛えるつもりなのかとまで考えていた。アレンが教えてくれなければ、母上の優しさに気付くこともできなかった。
お茶会が開かれた理由を知って、ようやく自分で自分の視野を狭めていたことに気が付いた。
お茶会が終わってからは景色が違って見えた。母上も父上も、メイドも護衛兵もみんな、僕が考えていたよりずっと優しい目をしていた。
食べないようにしていただけで、お茶の時間に毎回ケーキが出されていたことを知った。難しい本の隣に子供用の本が置いてあることに気付いた。王子と呼ぶよりセシル様と呼ぶ人の方がたくさんいることもわかった。
あの日アレンはケーキと共に、僕に『許可』をくれた。定められた方向しか見ないようにと、いつの間にか自分に付けていた鎖を『外す許可』を。
――今も彼に出会っていなかったらと思うと、ぞっとするな。
アレンはかっこいい。真面目で優しくて、いつも冷静で、強い人だ。街に出た時だってずっと僕を守ってくれていた。彼のおかげで、一度は2人とも無傷で逃げ出すこともできた。大怪我をしている状態でも自分にできることを考えて、行動して……命がけで助けてくれて。
そんな彼の隣に立ちたいと。彼を守れるようになりたいと、思った。
窓から外を見る。クールソン家の屋敷が近付いている。もうすぐだと呟いたところで、遠目に屋敷から離れていく馬車が見えた。
「あっ! あれ、スワロー家の馬車じゃないか?」
「そのようですね……」
僕と一緒に窓の外を見て、スティーブンが苦笑いを浮かべる。どうやら少し遅かったようだ。アレンとカロリーナが何の話をしているのかこっそり聞きたかった、と唇を尖らせる。もしかしたら、少しくらい僕のことを話してくれているかもなんて期待していたのに。
「どうしましょう、このまま王宮に戻りますか?」
「いや、もう連絡を入れてしまっているからね。ここまで来たし、アレンに挨拶だけして帰ろう」
そのまま馬車はクールソン公爵家の屋敷に入っていく。その場にはもう執事しかいなかった。彼は目を丸くして王家の馬車を出迎えた。
「いらっしゃいませ、セシル王子。本日は急ですね。どうかなさいましたか?」
「あれ、連絡を入れたはずなんだけど……」
そこに、伝書鳩が飛んできた。今朝飛ばしたはずだったが、先日スワロー公爵家にも行ったばかりだったため、途中で迷っていたのだろう。今思えば先にちゃんと連絡が着いていたなら、カロリーナは僕が来るまで待っていてくれたはずだ。
遅れて来た伝書鳩を見て事情を察したらしい執事は「ご対応が遅れてしまい申し訳ございません」と頭を下げた。慌てて手で制する。
「いや、こちらの連絡ミスだから気にしないでくれ。それに、本当はカロリーナがいるうちに来るつもりだったんだ」
アレンに挨拶だけしたら帰ると伝えると、執事はアレンが図書室にいることを教えてくれた。
彼を呼ぼうかと言われたが、図書室の場所はわかるから直接向かうと断った。以前中庭でお茶会をした時、そこから見える位置に図書室があったのを覚えていた。
スティーブンと共に中庭を通って図書室を探す。王宮ほど広くはないとはいえ、クールソン家の屋敷だってかなり立派だ。少しだけ迷いつつ、記憶を頼りに図書室を目指した。
「中庭から図書室に入れるのでしょうか?」
「挨拶だけだから、窓から声をかけるだけで十分さ」
図書室にいるということは読書中だろうし、あまり長く居座っても申し訳ない。今伝書鳩が来たということは、アレンも僕が来るのは知らないはずだ。
そうこうしているうちに図書室の窓を見つけた。窓越しに青い髪が見えたので、中庭を横切って近付く。いきなり声をかけたら驚かせてしまうかもしれない。それなら向こうが気付くまで待っていても面白いかな、と窓から中を覗く。
そこで、時が止まった。
ドンと殴られたような衝撃が、胸を内側から叩いた。
本に集中しているらしい、アレンの灰色の目が潤んでいる。宝石のような雫が頬を伝って落ちていく。それが陽の光を受けて、きらきらと輝いて見えた。
――え? ……泣いて、る?
そう理解した瞬間、突然周囲の音が消えた。
それまで聞こえていた護衛兵たちの訓練の声も、鳥の囀りも、まったく耳に入ってこなかった。まるで世界に自分と彼しかいないようだ。彼の瞳から落ちた涙が机に当たって弾ける音が聞こえたような気がした。
ぽろぽろと零れる涙から目が離せなくて、初めて見る彼の表情が目に焼き付いて。ドクドクと高鳴る心臓がうるさくて、わけが分からなかった。
アレンが泣いている。かっこよくて優しくて冷静で強いアレンが泣いている。何度も拭ったのか目を赤くして、ぎゅっと口を結んで。光の中で静かに涙を流す彼は、なんだかすごく尊い存在のようで、近いはずなのに遠くにいるみたいだった。
今すぐ駆け寄って抱き締めたいと思った。
でも同時に、彼に気付かれたくないとも。
――あ、そうだ……挨拶。挨拶しないと。
こんな覗き見みたいな真似なんて王子らしくない。分かっているのに声が出せなくて、目は固定されたみたいにアレンから動かせなくて。なんだかいけないものを見ているような気がして、余計に心臓が騒がしかった。
顔が熱い。なんでだろう。無意識のうちに瞬きを止めていたのか、僕まで涙が出そうだ。おかしいな。ただアレンが泣いているのを見ただけなのに。
あのアレンが、泣いているのを、……。
勢いよく振り返る。窓を覗き込もうとしたスティーブンの腕を掴む。
そしてそのまま駆け出した。
「え、えっ? セシル王子!?」
スティーブンは戸惑いながらも付いてきた。振り返って答える余裕がない。全力で馬車まで走る。
彼に今のアレンを見せたくなかった。いや、彼だけじゃない。他の誰にも見てほしくなかった。だって、だってそうでないと、きっとみんな彼のことを。
馬車に乗り込んで、すぐにクールソン家を後にする。俯いている僕をスティーブンが心配していたが、見せられるような顔じゃなかった。
この熱さでわかる。絶対に真っ赤だ。王宮に着くまでに引いているかも怪しい。
少なくとも青い髪の彼のことは、しばらく頭から離れそうになかった。




