25話 王子の婚約者候補③
「部屋に戻ったら、すぐに鞭で打たれました。はしたないことをした罰だと。これは教育の一環だと。これからは、言うことを聞かないと打つと脅されました」
カロリーナがそっと腕をさすった。私はもう黙って話を聞くことしかできない。ジェニーの話を聞いてもしやと思っていたが、想像以上だ。
マリンダの目的もわかってしまった。じわじわと外堀を埋めて、周囲から孤立させて、誰も頼れないようにした上で……カロリーナを傷つけること。婚約者候補であるセシルにも嫌われるように仕向けていたのだろう。自分の愉悦のためだけに。
いつの間にか握りしめていた拳が痛い。目の前の彼女は話を続ける。
それからはマリンダに言われた通りに振舞うしかなかったという。そうしないと傷が増えていくから。家族が違和感に気付いてくれることを祈りながら、わがままで攻撃的な性格のお嬢様を演じ続けていた。
そんな時、腕の傷に他のメイドが気付いたらしい。すぐにスワロー公爵夫妻に伝えられたが、それもすでにマリンダが手を回していた。
「私は自分で自分に傷を付ける癖がある、ということにされていました。お父様にはその場で叱られました。嫁入り前の体に何をしているんだ、しっかり屋敷内で手当をして誰にも言うなと。もちろん反論しましたわ。この傷はマリンダに付けられた、今まで演技をさせられていたと。……でも……」
繋いだ手が強く握られた。声が震え、嗚咽が混じる。
はっとしてカロリーナに目を向けたところで、彼女が顔を上げた。
「誰も……信じてくれなかった……!!」
そう叫んだ彼女の瞳から、ぼろぼろと大粒の涙が零れた。
カロリーナの表情を正面から見て、言葉に詰まる。彼女はどれだけ辛い想いをしてきたんだろう。話を聞いて想像するだけでもこんなに苦しいのに。家族にも信じてもらえず、一番身近なメイドにそんな酷い扱いを受けるなんて。
溢れ続ける涙で瞳を揺らして、彼女はさらに声を上げる。
「自分に傷を付けるような娘は恥ずかしくて神殿に連れていけないって、恥になってしまうって、どうせまた付けるだろうって! 時間が経った傷は今の神官様では力が足りなくて治せないとも言われました! こんな……っ傷だらけで、もう本当に、私に価値なんて……!」
その場に泣き崩れた彼女に合わせてしゃがみ込む。
カロリーナは繋いでいた手を振り払って、乱暴に涙を拭った。
「あなたもそうでしょう!? 子供の私なんかより、完璧に仕事をこなして、お父様たちにも信頼されているマリンダを信じるでしょう!」
「そんなわけ……」
私が答える前に彼女は両手で顔を覆ってしまった。ずっと我慢していた分を一気に吐き出すように、地面にぱらぱらと雫が落ちる。バラ園に小さな嗚咽が響いた。
「お願い、傷痕のことはセシル王子に言わないでくださいませ、火傷のことも! こんな、傷だらけの体じゃ……嫌われちゃう……っ」
セシルはそんなことで嫌いになったりしない。そう言うのは簡単だが、彼女にとっては綺麗事だ。いくら言葉で慰めたって状況は変わらない。彼女の心の傷が癒えるはずもない。屋敷に戻れば、またカロリーナはマリンダに傷つけられる。故意に広められた彼女の悪評が消えるわけでもない。
私からスワロー公爵に話すこともできるかもしれないが、おそらくそれだけでは無駄に終わるだろう。カロリーナが私に嘘をついたと思われるだけだ。
蹲る彼女の肩に手を添えて、落ち着かせるように答える。
「セシルに君の傷のことは言わない。約束しただろう」
「……アレン様は、私なんかの話を信じてくださるのですか?」
カロリーナはそろそろと顔を上げた。彼女と目を合わせて、頷く。
「もちろんだ。信じるよ」
「どうして……? 今日初めてお会いしたのに……今までのことだって、火傷の痕だって、実際に見たわけではないでしょう?」
ぽろぽろと玉のような涙が頬を伝って零れ落ちる。乱暴に擦ったせいか目が真っ赤だ。少し遅かったなと思いながらハンカチを差し出す。
それを受け取らずにじっと見て、彼女が言った。
「もう、痛いのも信じてもらえないのも、誰かに裏切られるのも嫌です。……あなたにも嘘をつかれたら、私……」
声が小さく萎んでいく。彼女は人を信用できなくなっているのだろう。これまでに受けた仕打ちを考えれば無理もない。
これ以上泣かせたままにするのが気にかかり、そっとハンカチで涙を拭く。せっかくのかわいい顔が台無しだ。彼女にこんな顔をさせた原因のメイドに腹が立つが、彼女を怯えさせるわけにはいかないのでぐっと抑える。
彼女に自信を取り戻すためには、私がカロリーナの味方だと知ってもらう必要がある。屋敷内にはいなくても、外に味方はいると。彼女を信じている人がいるのだと、彼女自身に信じてもらわなければいけない。
今のままでは、きっと何をしてもマリンダに抑え込まれてしまう。もしかしたら、もう一度話せば信じてくれるような人がいるかもしれないのに、その機会もなくなってしまう。
――カロリーナに、私が絶対裏切らないと信じてもらうためには……こちらも相応のものを出さなければ。
地面についた彼女の手を取って、力強く握る。
「わかった。じゃあ、君に私の秘密を教えよう。セシルもジェニーも知らない。今まで誰にも言わなかったことだ」
「ひみつ……?」
カロリーナはきょとんとした顔をした。小さく頷いて、はっきりと言葉にする。
「ああ。もし私が君に嘘をつくようなことがあれば、その秘密をバラしてくれて構わない。だから、君も私を信じてくれ」
突然のことにカロリーナは戸惑っているようだった。いきなり秘密だなんて、何のことかと思うだろう。黙って待っていると、彼女は私と目を合わせて、こくりと首を縦に振った。
話を聞く前。彼女の腕の傷を見た時から、もう決めていた。
おそらく最初に、あの火傷と共にマリンダにかけられた言葉が、彼女を縛っているのだろう。それはまるで呪いのように。
彼女の自信を奪っている鎖を断ち切りたいと思った。私にはその力がある。貴族に狙われるかもしれないなんて可能性の話より、今目の前で傷付いている彼女のほうが大事だった。
――心の傷は無理でも、体の傷なら。
左手の親指に付けた白い指輪を外す。無くさないようポケットに入れて、改めて両手で彼女の手を握る。カロリーナは不思議そうに一連の動作を見ていた。
ゲームでは何度も使ったことがあるが、この世界で実際に使うのは初めてだ。周囲の気配を探って誰もいないことを確認し、手に力を込める。
どうかちゃんと発動しますようにと願いながら、短く呪文を唱えた。
「ヒール」
ふわりと周囲が明るくなる。
心臓のあたりから、手のひらを伝って彼女のほうへ魔力が流れていく。初めて杖を使った時に比べれば緩やかだが、一気に大量の魔力が消費されるのを感じる。
こんなところでまた魔力切れにならないように気を付けつつ、カロリーナに視線を向ける。恐らく傷がある箇所だろう。彼女の体が白く光っていた。
カロリーナは呆然として握られた手を凝視している。その顔からも腫れが引いているのに気付き、これならテーブルに戻っても心配されないだろうと安堵した。
そこで、ふっと魔力の流れが止まる。光もゆっくりと消えていく。どうやら治癒が終わったらしい。
手を離して、息をつく。魔力切れするほどではなかったが、ここまで大量の魔力を使うのは、つまりそれだけ彼女の体に傷がついていたということだ。ちゃんと『全部』治ったかが気になるが、こればかりは確認のしようがない。
カロリーナは、傷がすっかり消えた腕を信じられないように撫でている。それを眺めながら指輪を嵌め直す。体の傷はこれでいいとして、あとはマリンダをどうするかと考えていると、彼女が口を開いた。
「こ……これ、は」
聖、とまで言いかけたところで、彼女の唇に指を当てて止める。
次いで自分の口元に人差し指を立て、小声で伝えた。
「内緒にしてくれ。誰かに知られると危険らしいんだ」
彼女は慌てて口を手で抑え、何度も頷いた。よし、と呟いて立ち上がり、彼女に手を差し出す。カロリーナを立ち上がらせてドレスに付いた砂を払っていると、ぽつりと呟くように疑問が投げられた。
「どうして、ここまでしてくださるのですか?」
「どうして……?」
そう聞かれ、腕を組んで首を傾げる。何と答えればいいのか迷ってしまう。そもそも彼女の話を聞いて、そうかで終わらせられる人はいないだろう。女の子が傷だらけで泣いているのを見たら、誰だって手助けしたくなるはずだ。
――でも、私個人の理由となると……。
しばらく迷って、なんとか答えを捻り出す。
「君は、大事な友人の婚約者候補だからな」
「それだけ、ですか?」
カロリーナは驚いたように目を丸くした。
これでは足りないのだろうか。他に理由として挙げられることが何かあるかなと悩んでいると、彼女は目を伏せて呟いた。
「私は何もお返しできませんのに……」
お返し? とその言葉を口にしたところで思い付いた。
本当なら気にするなと返す方がクールなのだが、一度頭に浮かんでしまった考えを諦められなかった。「それなら」と彼女の両手を取って顔を合わせる。
「私の『友達』になってくれないか?」
「と、友達ですか?」
「ああ。もうすぐ10歳になるというのに、今のところセシルしか友と呼べる相手がいなくてな。君が2人目になってくれたら嬉しいんだが」
思いがけず友人を増やす機会に恵まれたことを嬉しく思いつつ、我ながら悲しいことを言っているなと自覚する。人脈が大事な貴族として、10歳で友達1人というのはどうなんだろう。この世界では普通なんだろうか。
本気で友達を作るなら、王宮以外で開かれるお茶会にも積極的に参加すべきだったのかもしれない。しかし他の家の子供たちは、セシルみたいに大人びてはいないだろう。話を合わせるのが難しそうで、今までなかなか行動できなかった。
少しの間ぽかんとしていたカロリーナは、ようやく理解したように軽く頷いて、ふふっと笑った。テーブルでの荒れた様子を微塵も感じさせない、花の綻ぶような柔らかい笑顔だ。
きっとこれが本当の彼女なのだろう。セシルが言っていた、素直で可愛らしいという意味がわかった気がした。
「アレン様のような立派な方が、そんなことでお悩みになっているなんて思いませんでしたわ」
カロリーナはそう言って私の手を握ると、嬉しそうに微笑んだ。
「私もお友達になりたいです。よろしくお願いします」
「ありがとう。こちらこそよろしく」
なんだかセシルと友達になった時みたいだ。
――もしかしたらこの2人は、将来似たもの同士の夫婦になるのかもしれないな。
そう思いながら、私も小さく笑った。




