24話 王子の婚約者候補②
庭園に響き渡った声に驚いて、カロリーナに目を向ける。セシルはしばらく固まっていたが、「ごめんね」と苦笑いをしてフォークを置いた。
彼が言っていたのはこのことかと思いつつ、頭には疑問が浮かぶ。
――おかしい。ゲームのカロリーナと違いすぎる。
セシルルートで時々出てきていた彼女は、少しきつめとはいえ、お淑やかな正統派お嬢様だった。少なくとも、ここまでヒステリックに叫ぶようなことはなかったはずだ。
セシルのことをそれなりに好いていたイメージがあるし、彼を否定するような言動もなかった気がする。正直それ以外は覚えていない。ヒロインに冷たく当たるのも、ただ平民が大嫌いだというだけで、……?
相変わらず生垣を挟んだ先で騒いでいる彼女を見て、首を傾げる。
ゲームのカロリーナは、何故そこまで平民のことを嫌っていたのだろう。公爵令嬢が平民と関わる機会なんてほとんどない。それこそセシルと私のように、自ら屋敷を抜け出して街へ繰り出すくらいでないと。
しかし、セシルはそれで問題を起こしたことになっている。そんな彼の婚約者候補に、同じようなことを考える令嬢が決まるとは思えない。
きっと彼女が直接関わる平民は、スワロー公爵家の屋敷内で働いている使用人だけだろう。
――カロリーナが平民嫌いになったのは、あのメイドが原因なんじゃないか?
「ジェニー。あのメイドが嫌いな理由はなんだ?」
声を潜めて、隣で身を屈めているジェニーに尋ねる。彼女は問題のメイドに視線を向けると、躊躇いがちに答えた。
「以前彼女が他の屋敷で働いていた時に、偶然見たのですが。……とても楽しそうに笑っていたのです。その屋敷のお坊ちゃまが、怪我をして泣いているのを……眺めながら」
まさか、と息を飲んだ時だ。
テーブルの方から、慌てたような声がした。
「まぁ、お嬢様! 落ち着いてくださいませ。少しあちらでお話しいたしましょうね。セシル王子、申し訳ございません。少々席を外させていただきます」
それがあのメイドのものだと気付いて、ジェニーと顔を見合わせる。セシルがわかったと返すと、メイドは恭しく礼をしてカロリーナと共に背を向けた。そのまま、庭園の端に作られたバラ園に向かって歩いていく。
当然、戻ってくるまでここで待っているつもりはない。
「行こう」
「はい!」
彼女たちが離れたのを確認して立ち上がる。ジェニーと共に生垣から飛び出すと、セシルが目を丸くしてこちらを見た。詳しく説明している暇はないため、音量を抑えて一言だけ声をかける。
「彼女たちが戻ったら、あのメイドから目を離さないでくれ!」
それだけで言いたいことは伝わったらしい。彼は、はっとした顔をして頷いた。
バラ園に入る彼女たちを追う。以前セシルが、ここは生垣が迷路のようになっているのだと言っていたことを思い出す。
入ってしまうと、どこで鉢合うかわからない。出会った時の言い訳を考えながら、気を付けて先へ進む。ちょっとしたホラーゲームのようだ。
後ろでジェニーが小さく息をついた。彼女も緊張しているのだろう。
どこまで行ったんだろう、と辺りを確認しつつ角を曲がろうとしたところで、今にも泣き出しそうな少女の声が聞こえてきた。足を止め、同時にジェニーが進むのを手で制する。
「ねえ、言う通りにしたわよ! でもあまりに失礼じゃないかしら。セシル様がかわいそうだわ!」
「そうでしょうか? 婚約者候補として、王子の間違いはちゃんと正して差し上げるべきでしょう」
小声だが、2人とも生垣のすぐ向こうにいるらしく、会話がはっきりと聞き取れた。カロリーナの悲痛な叫びに対して、メイドの声はやけに楽しそうだ。
話を聞く限り、先ほどの癇癪はメイドの差し金だったようだ。わざわざカロリーナにセシルを傷付けさせているのだろうか。……でも、何のために?
彼女は一体何が目的なんだろう。まさかジェニーが言っていた通り、傷付くセシルを見て楽しんでいるのだろうか。
嫌な気持ちになったが、ぐっと堪えて2人の会話に耳を立てる。まだ私たちに気付いた様子はない。
「間違いだなんて……ご自身の好きなものを食べるのは、悪いことではないわ。それにセシル様は、幼いころからずっと我慢して」
「お嬢様。私の言うことが間違っているとおっしゃるのですか?」
突然、メイドが声を低くしてカロリーナの言葉に被せた。ひっと小さい悲鳴を上げて、カロリーナは黙ってしまう。明らかに力関係がおかしい。普通に叱られているような反応でもない。カロリーナは何をそんなに怯えているのだろう。
その理由は、すぐにわかった。
「腕を出しなさい」
ざり、とカロリーナが後退った音がする。生垣越しに目を凝らすと、彼女が慌てて首を振っているのが見えた。
「やだ、言う通りにしたら今日は『しつけ』は無しだって……!」
「人の言うことを疑うなんて、公爵令嬢としてよろしくないことです。お嬢様、良いですか? これは教育ですよ」
こんな形で使う『しつけ』が、良いものであるはずがない。
これ以上、黙って見ているわけにはいかなかった。今止めなければ、しつけとやらが行われてしまう。
数歩下がってジェニーに顔を近付け、できる限り小さな声で頼む。
「すまないが、私に話を合わせてくれ」
彼女が頷いたのを確認して息を吸う。
そして、わざと大きな声で言った。
「カロリーナはどこに行ったんだろうな。ここに入っていったと思うんだが」
すぐに彼女たちが息を飲んだのが分かった。近くに人がいるなんて思っていなかったのだろう。
続けて、考えていた言い訳を口にする。
「ジェニーは確か、彼女のメイドと話をしてみたいんだったな」
「は……はい。是非お話ししてみたいと思っていました。有名な方なので」
好きじゃないと言っていたジェニーには申し訳ないが、カロリーナとメイドを離す必要があった。彼女が頑張って口を合わせてくれたことに感謝しながら、今来たばかりのふりをして角を曲がる。
メイドとカロリーナは、こちらに顔を向けて固まっていた。
流石に下手だったなと思ったが、今更引くつもりはない。さっとカロリーナに駆け寄って、手を握る。
「こんなところにいたのか。よかった。君に聞きたいことがあるんだ」
「あ……アレン・クールソン様? 図書室に行かれたのでは……」
カロリーナより先にメイドが反応した。もう名前を覚えられているとは。さすがだなと思いながら、ちらりと目を向ける。
彼女は驚きと怯えが混じった表情をしていた。人に知られると困るようなことをしている自覚はあるらしい。
「そうする予定だったんだが、セシルの婚約者候補がどんな子なのか気になってしまって。少し2人で話をしたいと思ったんだ。ジェニー、その間に彼女と話してはどうだ?」
敢えてどちらにも許可を取らずに話を進める。こういうのは押し切ったほうが勝ちだ。公爵家としての力をしっかり使わせてもらおう。
メイドが答える間もなく、ジェニーが口を開く。
「良いのですか? アレン様。ありがとうございます」
「ああ。せっかくだから私はカロリーナとこの迷路を抜けてから向かうよ。セシルには一声かけておいたから、先に彼のところに戻っていてくれ」
「かしこまりました。では、あなたは私と一緒に参りましょうか」
ジェニーに背を押され、困惑しながらメイドが足を踏み出した。何度も後ろを振り返っていたので手を振って見送る。私とカロリーナをバラ園に残して、2人は来た道を戻っていく。
足音が十分遠ざかったのを確かめて、急いで彼女に向き直った。
「カロリーナ。……『しつけ』って何のことだ?」
それまで呆然としていたカロリーナは、さっと顔を青くして自分の左腕を掴んだ。確かあのメイドも腕を出すように言っていた。できるだけ怖がらせないように表情を意識しつつ、私より少し背の低い彼女と目を合わせる。
「腕、見せて」
カロリーナは小さく首を振った。後退ろうとするのを、手を引いて止める。いきなりそんな事を言われて警戒するのも無理はない。彼女とは今日が初対面だ。
ぎゅっと手を握って、目を逸らさずに続ける。
「カロリーナ、大丈夫だ。何を見ても誰にも言わないから」
誰にも言わないという言葉に反応があった。ようやく気持ちが伝わったのか、彼女の手から力が抜ける。それに気付いて私も手を離す。
カロリーナは不安そうな顔をしながら、そっと右手で左腕の袖を捲り上げた。
その瞬間、おびただしい数の傷痕が目に映った。
思わず顔を上げて彼女を見る。彼女は感情を押し殺すように、黙って俯いた。髪で隠れて表情はわからないが、唇を噛んでいるのは見える。
白くて細い腕に、真っ赤な線が何本も走っている。一部は紫にうっ血している。どう見ても鞭で打たれたような痕だ。しかもこんなに何回も同じ場所を。
あまりの痛々しさに、胸が苦しくなった。
「……あのメイドにやられたのか?」
なんとか声を絞り出して尋ねる。カロリーナは小さく頷いた。
こんな子供に暴力を振るうなんて。いや、それだけじゃない。公爵家に勤めているメイドが、令嬢の体に傷をつけるなんて信じられない。それがどういうことか分かっていないわけがないのに。どう考えても、愉悦のためにやっているとしか思えない。
「このことは、スワロー公爵は知ってるのか? 公爵夫人は?」
そう聞いても、カロリーナは俯いたまま黙っていた。これではまるで私が彼女を叱っているようだ。もしかしたら無表情が怖いのかもしれない。しかし、話を聞かないことには始まらない。
再び彼女の手を取る。
こんな怪我を見て、このまま放っておくなんてできなかった。
「話してくれないか? 君が話しやすいことからでいい」
黙って彼女の答えを待つ。しんとしたバラ園に鳥の声が聞こえる。
少し間を置いて、カロリーナがぎゅっと手を握り返してきた。
「……本当に、傷痕のことをセシル王子に言いませんか?」
「言わない。約束する」
即答すると、彼女は俯いたまま静かに口を開いた。
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メイドの名前はマリンダ。5年ほど前からスワロー公爵家に勤めているらしい。ジェニーが言っていた通り平民出身でも人気が高く、ようやく家に来てくれたと公爵たちは大喜びだったという。
彼女は最初の1年で屋敷内の仕事をすべて把握し、人の名前を覚え、信頼を築き上げたそうだ。3年目にはカロリーナの専属になり、他のメイドたちの仕事を奪う勢いで働いた。半年ほどで、カロリーナの傍にはマリンダしかいないような状態になったらしい。
「おかしいとは思っていたんですわ。いつからか使用人たちが私を避けるようになって、顔色を伺って……マリンダが手を回していたと知ったころには、もう手遅れになっていました」
マリンダは時々怪我をしていたらしい。カロリーナは知らなかったが、それは屋敷内の使用人たちに『カロリーナの言うことを聞かなかったから罰を受けた』と言いふらされていた。信頼の厚いマリンダ本人によって。
私が悪いのです、と涙を流しながらも健気に働く彼女を、使用人たちは信じてしまった。
「ある日マリンダがわざと熱湯の入ったポットをひっくり返して、私は太腿に火傷を負ってしまいました。あまりに熱くて痛くて泣いている私を見ながら、彼女が笑ってこう言ったのです」
淡々と話していたカロリーナの声がわずかに震えた。
ぎゅっとスカートを握りしめて、マリンダに言われた言葉を口にする。
「『かわいそうに。こんな火傷をして、もうあなたに公爵令嬢としての価値はありませんね』」
あまりのことに絶句してしまう。それを勤めて3年経ってからやっているのも質が悪い。子供に熱湯をかけて笑い飛ばすなんて、人間の所業とは思えない。
込み上げる怒りを抑えるように息をついて、改めて彼女の話に集中する。
マリンダはあっという間にポットを片付けて、濡れたドレスを魔道具で乾かしたそうだ。カロリーナはなんとか水で火傷を冷やしたが、それは大きな痣になって残ってしまった。
すぐにスワロー公爵に神殿に連れて行ってもらおうとした。……しかし。
「痣は太腿にありました。人前でドレスを捲り上げることなんてできません。見せようとしても、傍にいるマリンダがすぐに『はしたない』と止めて……証拠が、なかったのです」
マリンダが火傷のことを否定した。屋敷内には、カロリーナがわがままで暴力的なお嬢様だという話が広まっていた。
戸惑う公爵に、マリンダは涙ながらに訴えたらしい。
お嬢様は旦那様に構っていただけなくて寂しいようで、時々妄想をお話しになります、と。




