20.5話 原作のアデル
すぐ近くで鐘の音が響いている。
ふうと息をついて、目の前の壁に埋め込まれた魔鉱石から手を離す。遠い昔、この鐘の音が国を守る結界を強化していると聞いたことがある。魔力を失った感覚はあるが、本当に効果はあるのだろうか。それなら、どうして今この国には瘴気が溢れているのだろう。
そこまで考えて、当たり前かと周りを見回す。以前までこの神殿には多くの人が働いていた。身分に関係なく、みんなと一緒に魔力を送っていたころが懐かしい。
結界の要である神殿の担当が私1人では、魔力にも限界がある。
昔は、と気を抜くとつい数年前に思いを馳せてしまう。毎日のようにいろんな人が神殿に来ていた。怪我を治すためだったり、病気を治すためだったり、その感謝だったり。それぞれが思い描く神様へのお祈りだったり。結界のために魔力を補給してくれる人もいた。
訪れる人がいなくなった神殿の中は、前にも増して静かだ。
国中で疫病が流行っているのに、神殿に人が訪れない理由は明白だ。彼らの病を完治させるだけの力が今の神殿にはない。神官である大叔母様が若いころから神殿に聖魔力を蓄えていたが、もうほとんど使いきってしまっていた。
今ではお医者様と協力して、小さな怪我を治すくらいのことしかできない。陰で役立たずだと罵る声も増えた。寄付も減って、他の仕事をしなければ生活ができないと同僚たちは離れていった。
王都から離れた田舎では、疫病でたくさんの人が亡くなっているらしい。先月、ついに王都の貴族も疫病で亡くなった。今こそ頑張らなければならないのに、結局聖魔力がなければ何もできない。
――私に、聖魔力があればよかったのに。
神様に愛されてないのかも、と苦笑する。大叔母様はあんなにすごかったのに、血縁者というだけでは、神様は応えてくれないみたいだ。
ご高齢の大叔母様は、数年前からほとんど治癒の力を失っていた。それでも少ない神殿の聖魔力を使って、時には限界を超えて無理をして、もうこの1年は完全に寝たきりだ。それでも誰かの助けになればと、ベッドの中から魔道具を使って神殿に聖魔力を送っている。
大叔母様だってあんなに頑張っているのだから、私も早く掃除に戻らないと。そう思って踵を返す。時々近所の方や弟が手伝いに来てくれていたが、それでも人手は足りなかった。毎日掃除をしても、人がいない神殿は、以前のように綺麗にはならない。
昔の人は馬鹿だ。聖魔力なんて素晴らしい力を、少数派だからって差別して。大叔母様が魔界に通じる門を封印した途端に手のひらを返して、聖女様と呼ぶようになって。
きっと今も、昔の差別のせいで表に出てこられない聖魔力保持者がいるはずだ。もしかしたら、すでに誰かが捕まえて、自分のためだけに魔法を使わせているのかもしれない。そうでないとおかしい。貴族の魔力確認だけは未だに神殿がやっているのに、聖魔力の水晶が反応したことは一度もない。
このまま神殿は廃れてしまうのかな。みんなに忘れられてしまうのかな。そうなったら、誰がこの国に結界を張るんだろう。どうやって病気や怪我を治すんだろう。聖魔力保持者が出てきた時に、誰が保護するんだろう。……王家、とか?
――早く次の聖女様が現れてくれればいいんだけど。
いや、もう女性でも男性でも、いっそ貴族でなくてもいい。誰か1人でも聖魔法を使える人が現れてさえくれればきっとこの国は救われる。神殿もそうだ。誰かが聖魔力を神殿に蓄えてくれれば、私でも魔道具を使って治療ができる。
大叔母様のように遠方に行って治療する力はないけれど、人が増えれば結界じゃなくて、移動の魔道具に魔力を使える。地方に住んでいる患者を運んできて治療することもできるようになる。魔力に余裕があった昔のように。
きっと今瘴気が溢れているのも、大叔母様の力が弱まっているせいだろう。もしあの門の封印が解けそうなら大問題だ。あれは聖魔力でしか封印できないと聞いたことがある。
それなら、次の聖女様が現れなかったら? この国は一体どうなってしまうんだろう。歴史書通りなら、もう次世代の聖魔力保持者が現れていてもおかしくないのに。
不安な気持ちを押し殺して、ステンドグラスを拭く。せめて見える場所だけでも綺麗にしておかないと、もっと人が離れていってしまう。私にできるのは神殿を綺麗に保つことと、大叔母様のお世話をすることだけだった。
一通り表部分の掃除が終わった。息をついて、大叔母様の部屋に向かう。誰もいない廊下を歩きながら天井を見上げて、蜘蛛の巣が張られていることに気付く。風の魔法で取ろうと杖を手にして、先ほど魔力を使ったばかりだと思い出した。
やめておこう。こんなことに使うより、鐘のために使ったほうがずっといい。
扉をノックする。返事はない。そっと扉を開けて部屋に入り、燭台に火を灯す。揺れる明かりに照らされた大叔母様はお人形のようにベッドに寝ている。体にかけた毛布が上下しているのを確認して、ほっとした。ベッド脇の椅子に座り、唇を噛む。
私に聖魔力があれば、大叔母様は今もお元気だっただろうか。怪我や病で辛そうな人を、申し訳ない気持ちで見送ることもなかったんだろうか。そもそも大叔母様に無理をさせることだってなかったかもしれない。
自分の魔力は自分には返ってこない。大叔母様が体を壊したら、もう誰にも治せないって分かっていたのに。
ぼんやりと、神殿に入った時のことを思い出す。好きな人にも振られて、学園でも婚約者候補を見つけられなくて投げやりだったあの頃を。
学力も平凡で魔力保有量が少しばかり多いだけで、やりたいことも見つけられなかった私に声をかけてくれたのが大叔母様だった。たくさんの人を救いたいから手伝ってくれと言われて、自分のやるべきことが見えた気がした。
大叔母様の伝説について書かれた本が大好きだった。こんなにすごい人が私の血縁者なんだって言って回りたかった。つい大叔母様と呼んでしまって、神官様と呼ぶように怒られていたのが遠い昔のことみたいだ。
大叔母様は、自分について書かれた本は恥ずかしくて読んだことがないと言っていた。自分は自分にできることをしただけだと、一切自慢したりもしなかった。それがとてもかっこよかった。
髪も肌も白く、やつれた大叔母様を見る。もういつ寿命が来てもおかしくないと嫌でもわかってしまう。じわりと浮かんできた涙を拭うため、乱暴に目を擦った。
国を救った大英雄の最後がこんな小さな部屋で1人寂しく、なんて考えたくもない。初めのころは頻繁に見舞いに来ていた家族も親戚も、誰かわからない貴族の人たちも、最近ではほとんど来ない。大叔母様が反応を返せるほどの元気もないと知っているから。
なんて冷たい人たちだろう。私は絶対に大叔母様の傍を離れたりしない。
「……アデル」
大叔母様が呟くように口を開いた。はっとして耳を澄まし、言葉を聞き逃さないように息をのむ。少し待ってみても言葉が続けられる様子はない。こちらから声をかける。
「大叔母様、どうされましたか。お水でも?」
それに対する答えは返ってこなかった。代わりに小さな声で尋ねられた。
「聖女は、現れた?」
今までも何度か聞かれたその問いに、同じ答えしか返せないのを悔しく思う。首を振って、絞り出すように「いいえ」と答える。大叔母様はわずかに目を開けて、深く息を吐いた。
「そう……間に合わなかったわね」
「大叔母様……?」
それ以上会話が続くことはなかった。何かを諦めたように胸の前で手を組んで、大叔母様は目を閉じた。
それだけで分かってしまった。
間に合わなかったなんて、そんな。もしかしたら明日にでも、聖魔力を持った人が来てくれるかもしれないのに。もしかしたら、今も誰かが必死で聖女を探しているかもしれないのに。今まで神殿から聖魔法使いがいなくなったことはないって、本にも書かれていたのに。
ぐっと拳を握って俯くと、拭ったはずの涙がベッドに吸い込まれていった。
翌朝の鐘が響いても、大叔母様が目を覚ますことはなかった。
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扉をノックされた音で目を覚ます。同時にベッドから飛び起きて、壁の時計に目を向けた。顔が青くなると同時に、扉の向こうから呆れたような声が聞こえる。
「アデル、いつまで寝ているの」
「すっすみません!! すぐに!」
この歳になってまでご高齢の大叔母様に起こしていただくなんて。恥ずかしさで髪を結う手元が狂う。同じ部屋で寝泊まりしている同僚たちの姿はすでにない。
起こしてくれればよかったのに、と思うのはお門違いだ。分かっているけれど、一声くらいかけてくれてもいいじゃない! と心の中で八つ当たりしてしまう。……もちろん、起きられない私が悪いのだけど。
「また夜更かしをしていたの? 体を壊すわよ」
扉の前で待ってくれていた大叔母様に、おはようございますと挨拶をする。鐘を鳴らすまであと数分はある。なんとか間に合ったようだと息をつく。
「すみません、大叔母様の伝説について書かれた新刊が出ていて」
「神官様と呼びなさい。またそんなものを読んで……」
はぁとため息をつかれて、苦笑する。大叔母……神官様は呆れているようだが、実際は少し照れているのを知っている。並んで鐘塔へ向かいながら、そういえばと神官様を見る。
「神官様は、まだお休みの時間では?」
「早く目が覚めてしまったから、私も一緒に鐘を鳴らすわ」
「大丈夫なんですか? 魔力は治療のために取っておいたほうが……」
「平気よ。そんなに使わないから」
神官様はそう言って笑った。本当にお元気そうだ。無理をされているわけではないのだと分かってほっとする。少し前までは治療の度に息切れを起こしていたのに、最近は余裕があるみたいだ。
気付かれないようにちらりと神官様の手に視線を向ける。前まで着けていたはずの指輪がない。あれは神殿に聖魔力を送るための魔道具として作られたもので、私が学園に入る前から神官様が持っていた。最後に見たのはおそらく数か月前。やっぱり彼が神殿を出る時に指輪を嵌めていたように見えたのは、見間違いじゃなかったんだなと頷く。
アレン・クールソン様。彼のことは忘れられそうにない。
8歳という幼さで魔力開放をしたことに加え、子供としてあの魔力保有量は前代未聞だった。ほぼ同時に魔力開放が起きたセシル王子も子供とは思えないほどの魔力を保有していたので、平均年齢よりかなり早く魔法を使用したことと関係があるのかもしれない。
アレン様は、神官様からあの指輪を受け取ったんだろう。ということはつまり……とそこまで考えて首を振る。神殿に勤める者として、個人情報の余計な詮索はよろしくない。
私にわかるのは、今の神殿には聖魔力が蓄えられていて、神官様にも余裕があること。そしてそれは、きっとアレン様のおかげなんだろうということだけだ。
「さっきからどうしたの? 頭を縦に振ったり横に振ったりして」
不思議そうな顔で尋ねられ、慌てる。神官様もアレン様も何も言わなかったということは、アレン様は『隠す』選択をされたということだ。気付いていても気付かない振りをするのが、彼の魔力確認担当者である私の責任だった。
「いえっ! ちょっと、その、まだ頭に眠気が残ってたみたいで」
「まったく、今日からはもっと早く寝るようになさい」
呆れた顔でそう言われ、あははと苦笑いを返す。治癒で無理をされなくなったからお元気だとはいえ、神官様はもうご高齢だ。私が知る限り、90歳を過ぎていてここまでお元気な方なんていらっしゃらない。魔力量だって若いころに比べればかなり少なくなっているはずだ。
――もっと私がしっかりしないと。大叔母様のためにも、大事な神殿を支えていけるように。
ぐっと両手の拳を胸の前で握る。聖魔力は持っていないけど、私にできることはきっとたくさんある。まずは、結界に魔力を送るところから。
「おはようございます」
「遅いよーアデル」
鐘塔の下で手を振る同僚たちに挨拶を返しながら、大叔母様に合わせてゆっくり歩く。ちょうど時間ぴったりだ。明日からは起こされないようにしなきゃと反省して、朝の空気を吸い込む。
今日もきっと忙しくなる。アレン様が魔力確認のために訪れたあの日から、神殿は賑やかになった。彼が集まっていた平民たちに対して反応してくれたようで、運が良ければ話題のアレン様に会えるかもしれないと神殿に来る人が増えていた。
それぞれ鐘塔の壁に埋め込まれた魔鉱石に手を添える。中には平民もいるので、属性は関係ない透明な魔鉱石だ。誰かがせーのと声を上げ、一斉に魔力を送る。
1日の始まりを告げる鐘の音が、青空に大きく響いた。




