20.5話 原作のダニエル
遠くで鐘の音が響いている。
それが18時を知らせるものだと気付いて顔を上げた。今日もまたいつの間にか1日が終わっていた。すでに真っ暗な窓の外に星が見えるのは、部屋の明かりもないからか。でも、明かりを灯す気にはなれない。
最愛の妻であるアレクシアが亡くなって、もう何日経ったのだろう。いや、もう数か月は経ったかもしれない。
なにもかもどうでもよかった。彼女がいなくなってから、心どころか魂にもぽっかりと穴が空いているようだ。何もする気が起きず、ただぼんやりと椅子に座って1日を過ごすことが増えた。時々秘書のミゲルが声をかけに来た気もするが、適当に追い払っていた。
目を閉じると、幸せだったころを思い出す。アレクシアとは貴族が通う学園で出会った。気が強くて負けず嫌いで、楽しいことが大好きで、いつもころころと変わる表情を見るのが好きだった。
何度喧嘩をしたかわからない。でも決まって仲直りをした後はぎゅっと抱き締めあった。その度に愛おしいと思った。一生、共に生きていけるのだと思っていた。
落ち込んだり失敗して元気がない時は、わざとからかって馬鹿にした。それで彼女が奮起して復活することを知っていた。実際にそれで何度も立ち上がって、後から感謝されることも多かった。だから、それが正解だと思っていた。子供が生まれてからも。
ぎゅっと拳を握る。伸びた爪が手のひらに刺さって血が滲んだ。唇を噛むと鉄の味がした。
子供が、アレンが生まれてから、アレクシアは弱くなった。昔のように言い返すこともなく、まるで人が変わったように大人しくなった。
今まで私にだけ見せていた笑顔はアレンに向けられるようになり、私はどんどん蔑ろにされるようになった。八つ当たりで文句を言ってやっても何故かすべて受け入れ、怒ることもなかった。
こんなことになるのなら、もっと優しくするべきだったんだろうか。役立たずの医者が用意する効かない薬を永遠に飲ませるべきだったんだろうか。神殿の聖魔法にもっと金をかけるべきだったんだろうか。金を搾り取るだけ搾り取って結局完治させない守銭奴に、頼るべきだったんだろうか。
何が間違っていた? どこから間違っていた?
アレンが生まれていなければと思ったことも1度や2度じゃない。階段から突き落とした時に、ふとこのままいなくなればと思ってしまったのも嘘じゃない。そんなことをしてもアレクシアの病気が治るわけではないのに。
認めたくないが、彼は、アレクシアが大事にしていた子供なのに。
部屋の扉がノックされた。誰だ、と返した声は酷く掠れていた。そういえば今日は水も飲んでいなかった。水差しに手を伸ばしながら、扉の向こうでおそるおそる話しだした声に耳を傾ける。
「ミゲルでございます、旦那様」
「何の用だ」
「そ、その……そろそろ、アレン様の魔力開放の時期が近付いておりますので、ジェニーから杖を買う許可をいただけないかと」
それを聞いて舌打ちをする。もうそんな歳か。アレクシアと私どちらの属性を受け継いだかは知らないが、どちらであっても反吐がでる。
ジェニーというのが誰かと考えて、ああアレンの専属メイドか、と思い当たった。未だに辞めていないなんて物好きな奴だ。アレクシアの専属メイドなんて早々に退職したというのに。
水差しから直接水を飲んで、ため息をつく。考えたくもない。アレクシアそっくりに育ってしまったせいで、直接殴り飛ばすこともできない子供のことなんて。無表情で何を考えているのかもわからない。私も表情は変わり難いが、子供のころはそうでもなかった。
あいつは自分が生まれたせいでアレクシアが体調を壊したと理解しているんだろうか。どうせ何も考えてないんだろう。
「勝手にしろ」
怒鳴りつけるようにそう返事をすると、ミゲルは慌てた様子で礼を言って去っていった。私の秘書の癖に、まるでメイドのようなことをする。
アレクシアがいなくなってから、屋敷内の使用人はかなり減った。次々に提出される辞表に投げやりなサインをしたことだけなんとなく覚えている。名前も記憶にないし、それこそ本当にどうでもいいことだ。
静かになった部屋で、窓に視線を戻す。一度考えたせいでアレンのことが頭から離れなくなってしまった。クソ、ミゲルのせいだと独りごちる。青い髪に灰色の瞳。アレクシアに似た顔で、絶望したような表情で私を見ていたのを思い出す。最後に見たのは……彼女の部屋だったか。
机の上に置いていた、何度も読み返したせいで破れかけている紙を手に取る。いつの間に用意していたのか、アレクシアが枕元に置いていた遺書だ。
最初から最後まで、アレンのことしか書かれていない。アレンをどうかよろしく。アレンに申し訳ない。アレンの幸せを祈っています。アレン、愛してる。
その最後に小さく書かれた一言に目を向ける。
『ダニエル、愛してる。私たちの子を愛してあげて』
また、じわりと涙で視界が歪む。もう彼女はいないのだとどうしても意識してしまう。こんな手紙なんかじゃなくて直接言ってくれ。頼むから。君の声で聴きたい。アレクシア。
「私たちの、子……」
呟いた声が情けなく震える。堪えきれずに落ちた涙は、彼女の最後の手紙に染みを増やす。
アレクシアにそっくりな子。無表情で感情がわからない子。彼女を弱くした原因。彼女の大切な子供。私から彼女の愛を奪った子供。私からアレクシアを奪った子供。
「どうやって愛したらいい……?」
アレクシア、教えてくれ。
真っ暗な部屋で一人頭を抱える。その問いに答えてくれる人は、もういなかった。
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「その本棚はこっちに置いてくれ。時計は向こうだ。ベッドから見える位置に」
かしこまりましたと元気な声が複数響いて、頷く。目の前では若い護衛兵たちが新しいソファーを運んでいる。ぐるりと部屋を見回して、隣に立っているアレンに声をかけた。
「この配置でどうだ? アレン」
「素敵です。ありがとうございます、父様」
「よかった。これで過ごしやすくなったな」
こちらを見上げて微笑む彼の頭を軽く撫でる。最近ではすっかり表情の変化も分かりやすくなった。いや、私が理解できるようになったのかもしれない。
アレクシアが回復したあの日から、早くも数年の月日が流れた。前日まで部屋で寝込んでいたはずの彼女が突然杖を持って執務室に怒鳴り込んできたあの姿は、忘れようとしても忘れられない。
その後散々叱られ、こってり絞られたことも。
彼女や使用人たちから言われた。私のやり方は間違っていたと。まだ6歳のアレンが、正しい知識とやり方でアレクシアを元気にしてくれたのだと。さすがにアレクシア本人からそう言われては、もう返す言葉がなかった。
それからは反省しかできなかった。薬や聖魔法でも元気にならなかった彼女を、唯一救うことができたアレンに、私は何をしていたのだろう。何故彼の言葉に耳を傾けなかったのだろう。子供の意見だからと蔑ろにして、挙句の果てに階段から突き落とすなんて。
アレクシアを奪われたといじけて、八つ当たりをしていた私のほうがよっぽど子供だった。本当に情けない。
今まですまなかったと謝った時も、アレンは大人のようだった。『母様を愛していたからこその行動だったのでしょう』と呆れたように言った表情は、アレクシアにそっくりだった。
アレンは部屋に置かれた本棚に駆け寄って、目を輝かせている。普段は大人びているが、今は年相応に見えるなと思ったところで、先日のことを思い出した。
王宮に遊びに行っていたはずのアレンが神殿に運び込まれたと聞いて、アレクシアと共に神殿に向かった。何かあったのか、もしや突然病気でも、それとも毒かと馬車の中で彼の心配をしている自分に気が付いた。
しかし、その理由は予想とは全く違っていた。王子と共に街に出て、賊に襲われたのだと。ベッドに寝かされたアレンは、王子を助けるために大怪我を負ったらしく意識がない状態だった。着いた途端、傍に立っていた王子が私とアレクシアに頭を下げたのはさすがに驚いた。
自分が8歳の時、ここまでのことができただろうかと考えた。誰かを命がけで守ることも、下の身分の者に頭を下げることも……きっと私にはできなかっただろう。大人になった今だってそれは簡単なことじゃない。彼らは子供だが、きっと私よりも大人なんだろうと思った。
「父様、この本って……」
アレンが本棚から本を見つけて振り返る。
あの時の怪我を考えると、今こうしてアレンが元気に歩き回れているのは聖魔法のおかげだ。効かないと思い込んでいた薬も聖魔法も、正しく使えばちゃんと効果があるのかもしれない。
そう思ったから、聖魔法について書かれた本を数冊用意しておいた。
「ああ、聖魔法に関わる本だ。図書室になかっただろう。ジェニーから、お前が探していると聞いたからな」
部屋の端で、ジェニーが頷いてるのが見える。アレンは私とジェニーを交互に見て、それから本を見ると「ありがとうございます!」と嬉しそうに笑った。
この笑顔も一部の使用人には無表情に見えているのだろうか。もったいない。妙に心が温かくなって、この子を愛おしく感じる。自分にもこんな親としての感情があったんだな、と小さく笑う。
「あら、良いお顔ね」
扉の方から声をかけられ、顔を向ける。
アレクシアがにこにこと微笑みながら歩いてきた。
「アレクシア、休憩か? 交代しようか」
「ふふ、大丈夫よ。頼んでいた家具がやっと届いたのね。誰かさんのおかげで寂しかったお部屋が賑やかになって嬉しいわ」
「それは言わないでくれ……」
いたずらっぽくそう言われ、バツが悪くて視線を逸らす。まだアレクシアが寝込んでいたころ、私はアレンに良い感情を持っていなかった。部屋には必要最低限のものしか用意せず、装飾品の類や時計なんかも撤去していた。それも、完全な八つ当たりだ。
申し訳ない、とアレンに向かって頭を下げる。彼はきょとんとして首を傾げた。
「家具が少なければ、その分ジェニーたちが掃除する場所が少ないので。それはそれで良いと思います」
「アレン様……」
ジェニーが複雑そうな表情をしてアレンを見ている。彼はそれに気付いて苦笑いを浮かべた。この2人は本当に仲がいい。思えばジェニーは昔からずっとアレンの傍にいた。
私やアレクシアが何もできなかった間も彼のために働いてくれていたと、リカードから聞いている。もっと褒美を与えるべきなのかもしれない。あとでアレクシアと相談してみよう。
「家具の配置が完了いたしました!」
配置を任せていた護衛兵たちが、一列になって敬礼をした。あっという間だったなと私が口を開く前に、アレンが彼らに向かって声をかけた。
「ありがとう。ジェム、ハービー、フレッド」
当たり前のように名前を覚えていることに目を丸くする。護衛兵はここ数年でかなり増やしたため、私は昔からいる数人くらいしか覚えていない。彼らはそれに対して驚いた様子もなく、「力仕事はお任せください」と笑顔を返していた。
――ありがとう、か。
いつからか、アレンやアレクシアが使用人に対してそう言うようになっていた。
以前は、使用人は使用人でしかなく、あくまで自分は雇用主という立場だと思っていた。しかし、それだけではないのかもしれない。アレンと笑い合う彼らを見ていると、まるで兄弟のようだと感じることもあった。
護衛兵もメイドも同じ。彼らもまた、クールソン家の一員なのではないだろうかと。
こほんと咳をして、護衛兵たちに向き直る。
「ご苦労だった。休憩してから訓練に戻ってくれ。……あ、ありがとう」
あまりに言い慣れない言葉に顔が熱くなるのを感じる。アレクシアとアレンだけでなく、ジェニーの視線も向いている気がして顔を背ける。一瞬だけ間を置いて、護衛兵たちが「はい!」と元気よく答えた。
その声がなんとなく嬉しそうに聞こえたため、まぁ悪いことではないな、と心の中で呟いた。




