1話 目覚め
――背中と頭と腰が痛い。
最初に頭に浮かんだのはそれだった。耳に水が入っているかのように、ぼわぼわと音が反響して聞こえる。瞼越しでも眩しくて、なんとか開いた視界はぼやけていた。誰かが何度か顔を覗き込んできたが、はっきりしない。ただ、酷く慌てているのは伝わってきた。
「旦那様、なんてことを……!」
「う、うるさい! そいつが勝手に落ちたんだ。私のせいではない!」
誰かが遠くで言い争っている。どちらも男性のようだ。頭を打ったせいか聞こえ辛いが、どうも日本語ではないような気がする。……のに、どうして理解できてるんだろう。
何度か瞬きを繰り返すと、ようやく視界がはっきりしてきた。豪華に装飾された天井に、シャンデリアがきらきらと輝いているのが見える。私は仰向けに寝ているらしい。
ここはどこかのホテルだろうか。それとも私が知らないだけで、こんなに豪華な病院もあるのだろうか。中学生を助けようとして咄嗟に飛び出したところまでは覚えている。その後、ここに運び込まれたとか?
ぼんやりと揺れる光を眺めていると、先ほどから傍にいたらしい女性が、心配そうな表情で顔を覗き込んできた。
「アレン様、しっかり! すぐお医者様を呼びますからね」
――アレン、様?
わざわざ顔を見て呼ぶということは、アレンというのは私のことだろう。なんで様付け? いや、それより『アレン』という名前をつい最近どこかで見たような……。
お医者様を呼ぶと言う彼女は医者ではないらしい。なんとなくナースキャップに見えていた頭のそれは、よく見るとメイドが付けているヘッドドレスのようだ。服装もナースよりメイドに近い。
ここは病院でもないのだろうか。彼女も黒髪だが、顔立ちは日本人のそれとは少し違って見える。ハーフなのかもしれない。なんかそういう、洋風で統一してる感じの施設みたいな……? でも、わざわざ本名以外で呼んだりはしないよな。
「お医者様を呼ばせていただきます。いいですね」
「勝手にしろ。私は執務室へ戻る」
先ほどから言い争っていた男性達の話が一区切りついたらしい。
眼鏡をかけた初老の男性が、こちらに近付いてくるのが見えた。
「ジェニー、アレン様をお部屋へ」
「かしこまりました」
綺麗な礼をしたかと思うと、ジェニーと呼ばれた彼女は手を伸ばしてなんの躊躇いもなく私を抱えた。
え、と思わず息をのむ。平均体重より軽いとはいえ、50キロ近くある成人女性をこんなに簡単に抱え上げられるのだろうか。彼女は体型も私と変わらないくらいで、そんなに筋力があるように見えないのに。
そこで、ようやく気付いた。
自分の目線の先にある足が小さい。高そうな立派な靴を履いているが、明らかに子供サイズ。そもそも着ている服が覚えているものと全く違う。半ズボンに白い靴下、装飾が着いた服。まるで貴族のお坊ちゃんのようだ。
――『私』の身体じゃない……?
せっかく目が覚めたのに、また気が遠くなりそうだった。
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「しばらくは痛むと思いますが、骨折もしていないようですし、大丈夫でしょう」
白衣に聴診器。明らかに医者と分かる格好の男性が、薬箱を片手に立ち上がった。ベッド脇にいたジェニーさんが、預かっていたコートを返す。白衣の上からそれを羽織り、彼はシルクハットのような帽子を頭に載せた。
「しかしアレン様が階段から落ちたと聞いた時は、さすがに血の気が引きました」
「時間外にも関わらず、来ていただいて本当にありがとうございました。私共としては以前のように常駐していただきたいのですが……呼びつける形になってしまい申し訳ありません」
「いやぁ、旦那様のお考えですから。リカードさんのせいではありませんよ」
リカードさんと呼ばれた初老の男性は、たぶんこの屋敷の執事なんだろう。一度お医者様を見送って、部屋に戻ってくる。この場には私とリカードさんとジェニーさんの3人しかいない。広いお屋敷だと思ったのに、あまり人がいないようだ。
そしてどうやら、ここは病院ではないらしい。というか、日本でもないみたいだった。自分の記憶ではつい先ほどタクシーに轢かれた気がするが、もしかしたらあそこで死んで、それから何年も経って別の国に転生したのかもしれない。夢という可能性も考えたものの、体中の痛みは確実にここが現実だと示していた。
今はベッドの上で上半身を起こし、背中にクッションを入れてもらっている。ふいに、近付いてきたリカードさんと目が合った。
何か言ったほうがいいかなと思ったが『アレン』としての記憶が全くないため、下手なことを言えずに黙ってしまう。それが気になったのか、彼はジェニーさんに「水を」と指示した。
「アレン様、どうぞ」
ジェニーさんがガラスの水差しからグラスに水を注いで手渡してくれた。そういえばと喉が渇いていることに気付き、それを受け取る。
反射的に、社会人としての言葉が口から出た。
「すみません、いただきます」
言ってから、しまったと思った。視界の端で2人が顔を見合わせている。そこから視線を逸らしつつ、とりあえず水を飲んでいると「アレン様」とリカードさんに声をかけられた。
「失礼を承知でお伺いしますが……ご自身のお名前は、お分かりになりますか?」
どうやら記憶喪失を疑われたようだ。前世の記憶がそこそこ鮮明に残っているから完全に記憶喪失なわけではないが、アレンとしては正しいのかもしれない。
とりあえず少し迷う素振りを見せて、答える。
「……アレン」
「では、家名はどうでしょう?」
家名。そう言われて言葉に詰まる。アレンという名前は何度も呼びかけられたから理解していた。でも、家名は誰も話していなかったので正直わからない。どこかに書いてないかと部屋を見てみるが、そんな一瞬で見つけられるわけもない。
じっと答えを待っている2人に向き直り、正直に「わかりません」と答える。
「そうですか……なんということだ……」
リカードさんが辛そうな顔をして目を抑えた。ジェニーさんも水差しを持ったまま呆然とベッド脇に立ちすくんでいる。それが今にも泣きそうな顔に見えて、慌てて手を振る。
「あの、お、教えてもらえませんか。もしかしたら、思い出すかもしれないので」
根拠も確信もない希望を与えるのはどうかと思ったが、その場の空気に耐えられなかった。気持ちが伝わったのか、リカードさんはふうと息をつくとジェニーさんと顔を見合わせ、小さく頷いた。
アレン・クールソン。それが私の名前。
クールソン公爵家の長男であり唯一の子。公爵というのがどれくらいの身分なのかわからなかったが、かなり上のほうらしい。それなら、メイドや執事がいるのも納得できるかもしれない。恥ずかしながら、そんな身分制度が今も残っていることすら知らなかった。
「公爵家跡継ぎとして、堂々となさってください。私共に敬語は不要です。名前も呼び捨ててかまいません」
と、少し強めに言われたので、敬語で答えたのが2人にとってどれほどの衝撃だったのかなんとなくわかった。「すみません」と言いそうになり、急いで「わかった」と言い換える。
リカードさん……いや、リカードは満足げに頷いて、続けて教えてくれた。
父はダニエル、母はアレクシアというらしい。カタカナの名前を覚えるのはあまり得意ではなかったが、何故かこの2人はすんなりと頭に入ってきた。
父の話をする時に2人の表情が微妙だったので理由を聞いたところ、色々と誤魔化されたが、面倒な人らしいということだけわかった。アレンが階段から落ちたのも、父に突き飛ばされるような形だったらしい。
では母は、と聞くとこれまた微妙な顔をした。アレンを産んでから定期的に体調を崩し、今は部屋でほとんど寝込んでいるという。
「奥様が元気でいてくだされば、旦那様ももう少し落ち着かれると思うのですが」
「旦那様に聞かれるとまずいですよ」
ジェニーを窘めつつ、リカードもその言葉には同意しているようだ。クールソン家の使用人たちは、母アレクシアが元気になって父ダニエルを諫めてくれることを期待しているらしい。
2人の表情を見ていると、私に何かできないかなという気持ちになってくる。私は顔も知らないが、アレンからしたら母親なのだから。
しばらく話を聞いていると、ボーンと部屋の外から鐘の音が聞こえてきた。リカードが懐中時計を取り出して時間を確認する。そういえばこの部屋には時計がない。それどころか、かなり上位の貴族であると聞いたのに部屋の中は殺風景だ。
「もうこんな時間ですか。続きはまた明日にいたしましょう。アレン様、どうぞゆっくりお休みください」
「後ほど灯りを消しに参ります。おやすみなさいませ」
既にベッドに入る前に寝間着に着替えさせられていたため、リカードもジェニーも頭を下げると、さっと部屋を出ていった。
こんな時間というのが何時かはわからなかったが、夜なのは間違いないだろう。もしかしたら、彼らはこれから1日の締めや掃除なんかがあるのかもしれない。
1人になった部屋で、大きく息を吸い込んで胸に手を当ててみる。自分がちゃんと生きていることを確認して、ようやく一息ついた。
「アレン・クールソン……」
新しい名前を口に出してみるものの、当然まだ違和感がある。そのうち慣れるだろうかと不安になりつつ頭に手をやる。冷たい氷かなにかが包帯で留めてあった。
階段から落ちたというのによくこれだけの怪我で済んだなと思ったが、いわゆる前世の記憶が出てきてしまっているので、無事なわけでもないなと思い直す。
――そういえば、どんな顔してるんだろう。
ふと、ベッドから少し離れた位置にある鏡に目が留まった。クローゼット横に置かれた鏡は大きく、立派だった。まだ体は痛むがどうしても気になってしまい、寝る前に確認だけしておくかとベッドから降りる。
視線の高さに違和感を覚えながら、少しずつ近付く。そして鏡に映った自分の姿が見えたところで、息を飲んだ。
「……か」
見間違いかと両目を擦り、改めて鏡を凝視する。
一瞬女の子かと見間違う整った容姿よりも、白い包帯のせいで余計にはっきり分かるその異常さに、思わず声が震えた。
「髪が……青い」
まるでコスプレみたいだ。髪を軽く引っ張って確認してみるが、当然ウィッグなどではなく地毛だった。暗いところでは紺に見えなくもないが、黒とはとても言えないほど青い。
こんなに鮮やかな地毛はあり得るのだろうか。染めているのか、もしくはここが自分の覚えている時代より未来なら、遺伝子組み換えで髪の色を選べたりするのかもしれない。でも、ジェニーやリカードは普通だった。
鏡にさらに近付いてみる。アレンの瞳の色は灰色だ。こちらはそこまで異常な色ではない。でも、やはりこの髪色はおかしい。これじゃアニメかゲームのキャラみたいだと考えたところで、絶句してしまった。
――思い出した。
自分は知っている。アレン・クールソンという名前も、この髪色も。
バス停に向かう途中で通知が来た、あの乙女ゲームの中に彼はいた。
王子の側近であり、氷魔法の使い手。
ヒロインに『アレン様』と呼ばれていた、長髪眼鏡のクール系攻略対象者。
「……もしかして、ここ、乙女ゲームの世界……?」
しんとした室内に、絶望の呟きが響く。
当然、答えが返ってくることはなかった。




