168話 悪夢① ◇
肌に触れる冷たさを感じて目を覚ます。よほど疲れていたのか、どうやら床で寝ていたらしい。目を擦ろうとした手に眼鏡がぶつかってしまい、外さずに眠ったのかと不思議に思って体を起こす。
「……あれ?」
そこは寮の部屋ではなかった。いや、部屋ですらない。周りは真っ暗で、天井も壁も見えない奇妙な空間だ。灯りもないのに自分の姿だけはハッキリ見えている。
ここはどこだろう。どうして自分はこんなところで眠っていたんだろう。直前の記憶を辿ってみるが、何故かぼんやりと靄がかかったように思い出せない。
タキシードを着ているから、パーティの最中にどこかに迷い込んだのだろうか。誰かいないかと声を上げても反応はない。耳を澄ましても、物音すら聞こえない。
魔法で作られた空間なら聖魔法を試すべきかと一瞬考え、やめておく。魔力には限りがある。まずはこの場所を把握してからの方がいいだろう。
――ここにいても仕方ないな。
そう思って足を踏み出す。闇の中にいるようだが、床は存在しているらしい。周りを警戒しながら、とりあえずどこかに突き当たるまでまっすぐ進んでいく。
ふと、正面に細い光が見えた。大きな扉の隙間から明かりが漏れているようだ。
出口だろうかと手を伸ばしかけたところで、聞き覚えのある声がした。
「カロリーナ様、あのお話は本当なのですか?」
ピアの声だ。すぐ傍にはカロリーナもいるらしい。ということは、ここは学園の中なのだろうか。普段とは違う真剣な声色に、何か大事な話かと手を止める。
今扉を開けたら驚かせてしまうだろうかと考えていると、カロリーナが答えた。
「ええ、本当ですわ。アレン様は恋心をご理解なさらないようです」
な、と声が漏れる。彼女には嘘をつかないようにしているとはいえ、何故そんなことを知っているんだろう。私が無意識のうちに話してしまったのだろうか。
――まさか。わざわざ伝えるようなことでは……。
「でも、恋愛小説を読んでらっしゃったのでは?」
「恋心を学ぼうとなさっていたのでしょう。私がお貸しした本をお読みになるのも苦痛だったはずですわ。本当に申し訳ないことをしてしまいました」
扉の向こうで彼女たちは会話を続けている。そんなことはない、と反論が声にならずに消えていく。彼女から借りた小説は、物語としてちゃんと楽しんでいた。
誤解を解かなければと急いで扉に手をかける。そこで、彼女が言った。
「恋はこんなに素晴らしいのに、理解できないなんて可哀想ですわね」
その瞬間、幻のように扉が消える。これは、と息をのんで後退る。数歩下がったところで、何もなかったはずの空間に踵が当たった。
反射的に振り返ると、そこには先程とは違う扉が現れていた。
「どうしてあの子は人を好きになれないのかしら」
母様の声だと分かったが、扉を開ける気にはなれなかった。ドクドクと騒いでいる胸を押さえる。扉越しに父様の声が答えた。
「やはり、幼い頃に私たちがしっかり愛情を与えられなかったせいだろう」
「そうよね。だってそれ以外は普通の子だもの」
「ああ。まさか誰かを好きになる気持ちを抱けないまま育ってしまうなんて」
「育て方を間違えたのね……」
これは、夢だ。もしくは誰かの闇魔法か。こんな空間が現実なわけがない。それ以上会話を聞きたくなくて、そっと扉から距離を取る。
どうして私はここにいるのだろう。考える度に何故かズキンと腹部が痛んだ。試しに氷魔法の呪文を詠唱したが何も起こらず、やはり駄目かとため息をつく。
何も思い出せないまま、行く当てもなく闇の中を進む。
――私が『恋をしないこと』を誰かに話した世界を、見せられているのだろうか。
夢なら目覚めれば終わるはずだ。そう思うと同時に、本当に目覚めていいのかと不安になってしまう。
もしこれが夢ではないとしたら。自分が無意識のうちに口を滑らせて、知らないところで実際に、こんな会話をされていたのだとしたら……。
突然、ふっと辺りが明るくなる。顔を上げると、自分の周りを囲うように複数の扉が浮かんでいた。嫌な予感がして咄嗟に耳を塞いだが、意味はなかった。
「普通じゃないと思ってたけど、そんなの言われないと分かるわけないだろ。最初から教えてくれれば好きにならなかったのに。悩んだ時間を返してくれ」
「自分には恋愛感情がない、って思い込んじゃってるのかなぁ。やっぱり本を読みすぎるのもよくないのかもね」
「信じられない。ただの妄想でしょ。それを知って私にどうしろって言うの?」
聞き覚えのある声が一斉に耳に入ってくる。本当なら混ざって聞こえなくなるはずなのに、ひとつひとつがしっかりと意味を持って聞こえる。
彼らから向けられるはずのない悪意に強烈な違和感を覚える。音圧のせいかめまいがして、思わずその場にしゃがみ込む。
「悪いけど……さすがに理解できないわ。まだ気持ちが子供のままで、大人になりきれてないだけじゃないかしら」
「アレン様は立派なクールソン家の跡継ぎですから、いつか必ず素敵な方と出会うはずです。私は信じています」
ギリ、と唇を噛んで目を閉じる。このまま目覚められないだろうかと願ったが、それは叶わなかった。
扉から聞こえていた声はしばらく空間に反響し、やがて静かになる。深く息をついて目を開ける。
いつの間にか目の前にいた人物に、ドキリと心臓が跳ねた。
「……セシル」
「大丈夫だよ、アレン」
彼はしゃがんで私の手を握ると、にっこりと笑った。
「この世に恋をしない人間なんて1人もいないよ。君はまだ運命の相手に出会ってないだけさ。聖魔法でも治らない病気なんて不安だろうけど、みんな君を信じているからね。これから僕と一緒に治療していこう」
さっと頭から血の気が引く。幻であると分かっていても、親友である彼の姿で言われた言葉は、ズシリと重しのように胸に沈んだ。
悪意のない存在の否定がこれほど刺さるのかと手が震える。なんとか立ち上がって後退る。彼はきょとんと不思議そうな顔をした。
「どうしたんだい? アレン。逃げちゃ駄目だよ。そんなの君らしくもない」
音もなく立ち上がり、熱のない瞳がこちらに向けられる。
「恋はみんな当たり前にできることなんだよ。しようと思ってするものじゃない。普通の人であれば、生まれた時から自然にそうなっている。君がおかしいんだ」
「……っそんな」
ぐっと拳を握る。昔から友達として傍にいたから知っている。セシルは誰よりも優しい人だ。この国の民や学園の生徒を、心から大切に想っているような人だ。
少なくとも、こんな風に相手を全否定するような人ではない。
「そんなことをセシルが言うわけ」
「わかんないよ」
遮るように放たれたのは、セシルの声ではなかった。
気付けば彼の姿は消えていて、代わりに1人の女性が立っていた。短い黒髪に、シンプルな灰色のスーツを着ている。
それを懐かしいと感じてしまうのは、相手がかつての『自分』だったからだ。
「わかんないでしょ? あなたも。……だって今まで、この世界の誰にも話したことがないんだから」
この世界ではあまり見かけない色の瞳が向けられる。
前世の自分――佐倉結は、今にも泣き出しそうな顔をしていた。
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う、とアレンがうめき声を上げる。
はっとして顔を向けると、刺さったままの短剣がひとりでに動いていた。さらに深く腹部に沈み込み、刃の部分が完全に見えなくなる。
慌ててしゃがみ込んで手を伸ばすが、剣に触れることもできず弾かれてしまう。短剣が動かないよう固定していたリリー先生は、悔しそうに拳を握った。
「駄目だ……アレン、起きてくれ……!」
いくら声をかけても反応はない。本当に何もできることはないのだろうか、と思考を巡らせながらアレンの手を握る。
氷のように冷え切った体温に、ドキリと心臓が跳ねた。
――そんな。まだ君に何も伝えられていないのに。
このまま彼を失ってしまったら。嫌な考えが頭をよぎり、首を振る。
ルーシーは創作呪文で何とかできないかと考えているようだが、すでに何度も弾かれた後だ。聖魔法を試した手は反射する闇魔法で傷だらけになっている。
台座の上で寝転がっている初代魔王を睨み付けて、ライアンが呟いた。
「……こんなに腹が立ったのは初めてだ」
初代は気にした様子もなく伸びをしている。動けないだけで魔法は使えるらしく、部屋の入口は塞がれたままだった。
闇魔法さえ消せばエミリア達と合流できるかもしれないが、聖魔法が効かないとなると、アレンが目覚めるまで状況は変わらない。
ライアンはギリと唇を噛む。
「アレンが苦しんでるのも、ルーシーが利用されたのも許せない。本当に待つしかないのか? アレンは一体、何の悪夢を見てるんだ」
「お、知りたいのか?」
ふいに初代魔王が起き上がった。さっと杖を構えて彼を見る。初代は馬鹿にしたように鼻を鳴らすと、短い腕を組んで考える素振りをした。
「どーすっかなぁ。教えてやるのもそれはそれで癪だが、俺は聖女様に恨みしかないんでね。今まで必死に隠してたことをバラされる方が嫌だろう」
「恨みだと?」
アレンが彼と出会ったのは、魔道具庫で襲われたのが初めてだったはずだ。何を言い出すのかと思っていると、初代は大きくため息をついた。
「せっかくマディとかいう闇魔力保持者がいたのによ。門を開けてそいつから魂を頂く予定だったのに、聖女様が直前で扉を閉じやがった。おかげで数年かけた計画の練り直しだ。結構大変だったんだぜ?」
わざとらしく疲れた顔をして、彼は「まぁでも」と嫌な笑みを浮かべる。
「門と深く繋がったおかげで心を覗くことができたんだけどな。まさかあんなに弄り甲斐のある悩みを抱えてるとは。『恋愛感情がない』奴なんて初めて見たぜ」
「そういえば、さっきも恋愛がどうのって……」
ライアンが怪訝な顔をする。リリー先生は驚いたように目を丸くしている。初代はケラケラと楽しそうに笑って続けた。
「恋をしない。誰のことも好きにならない、だってさ。残念だなぁ王子様。ああ、そこの教師もか? どれだけ想ってたのか知らねぇが、全部無駄だったらしいな」
可哀想にと嘲る声が部屋に響く。すぐに話の内容を理解できず口をつぐむ。
――アレンは『恋』をしない……?
どういう気持ちになればいいのか分からない。恋愛感情を持たない人がいることすら初めて知った。そして、僕の親友がそうだということも知らなかった。
アレンの悩みを勝手に暴露されたことに怒ればいいのだろうか。それとも、彼と気持ちが通じ合うことはないのだと悲しむべきなのか。
しかし、今まで彼を想っていた時間がすべて無駄だったなんて思うわけがない。
むしろ自分でも不思議なほど、その事実はストンと胸に落ちた。何故アレンがルーシーに靡かなかったのか。何故いつまでも婚約者を決めようとしないのか。
そうか、と冷静に納得してしまう。ようやく分かった。アレンへの告白がうまくいかなかったことに安心したのは、なんとなく気付いていたからだ。
この気持ちが彼に伝わったら、きっと無理をさせてしまうのだろうと。
「……考え付かなかったわ。なるほど、そういうことね」
しばらく黙っていたリリー先生が眉根を寄せて口を開く。
「そもそもの前提が違うとは思ってなかった。そんなの、相談しろなんて言われても難しいわよね。隠してたってことは言うつもりもなかっただろうし」
「そうですね。……でもその分、ずっと1人で悩ませてしまった」
改めて、去年アレンを傷付けてしまったことを思い出す。僕が思っている以上に彼は辛い思いをしたはずだ。いや、もしかしたらずっと前から、自分でも無意識のうちに傷付けていたのかもしれない。
眠っている彼の頬にそっと手を当てる。初代は信じられないという顔をした。
「おいおい!? なんで簡単に受け入れそうになってんだよ! 普通に考えて有り得ねえだろ? もっとハッキリ言ってやれよ……特に王子様!」
大きく首を横に振り、アレンを指差す。そして吐き捨てるように声を上げた。
「そいつは人間として、いや生物として当たり前にできるはずのことができねぇんだぜ? 生まれた時から感情が欠落してる欠陥品だ! なぁ王子様。本気で国を守りてぇなら、そんな狂った奴は徹底的に否定して排除すべきだろ!」
握った杖がミシと音を立てる。僕たちが攻撃できないと分かって好き勝手に煽っているのだろう。当然頭では理解しているが、それでも怒りが込み上げてくる。
他者に恋愛感情を抱かない。たったそれだけのことで、アレンの全てを否定するなんて。とても許せることではない。
「いい加減に……」
僕が口を開きかけたところで、すくとルーシーが立ち上がった。
深くため息をつき、心底呆れたという顔で初代魔王を睨み付ける。
「マジでくだらない。……ばっかじゃないの?」
静かな怒りを込めた言葉が、はっきりと部屋に響いた。