167話 悪魔の罠
「風の器!」
足場が消えた瞬間、リリー先生の声が辺りに響いた。同時に柔らかい風に包まれ、衝撃もなくゆっくりと着地する。
ライアンとセシルも無事に地下へ下りられたようだ。反射的に取り出していた杖を懐に戻し、ほっと息をつく。
「ありがとうございます、先生。助かりました」
「任せて、そのために付いて来たんだもの。それにしてもすごい魔法だったわね」
彼は苦笑して辺りを見回した。穴の真下に魔界の門があるかと思っていたが、ここは門へ続く通路の途中のようだ。
洞窟のような道は去年と変わらず、火魔法がなくてもぼんやりと明るかった。辺りには瘴気が漂っているが、エミリアの聖魔法によって視界は晴れている。
そのおかげで、すぐにジャック達と合流することができた。
「あれ、みんなも穴から入ってきたの?」
テッドが不思議そうな顔をして首を傾げる。彼の後ろではエミリアがギルの怪我を治療しているところだった。戦闘は先程の魔法で決着がついていたらしい。ギルの足元には服で縛られたオリバーの姿も見える。
前作の攻略対象である私たちが参戦するまでもなかったかと思いつつ、テッドに顔を向けて答える。
「校庭に魔物が現れたから移動は危険だと判断したんだ。状況はどうだ?」
「今ちょうどオリバーを倒したところ! エミリアがすごかったんだよ。俺たちも魔物を倒したりしてたけど、オリバーはほとんどエミリアだけで倒しちゃった」
やはり初代魔王が憑依していると聖魔法が弱点になるのだろうか。オリバーはまだ意識があるらしく、ぶつぶつと何かを呟いているのが聞こえてくる。
瘴気のせいで分かり難いが、なんとなく嫌な気配は残ったままだ。
――初代魔王はオリバーの中にいるのだろうか?
ジャックに確認しておこうと周りを探す。何故か少し離れたところにいる彼に気付き、駆け寄って声を掛ける。
「ジャック、初代魔王は」
「……おかしい」
尋ねる前に、彼が怪訝な顔をして声を落とした。
「最終イベントがゲームと違いすぎる」
「え?」
「言っただろ? 戦闘は初代がオリバーに憑依した状態で始まる予定だったんだ」
その言葉に、まさかとオリバーを見る。彼はいつの間にか気を失ったらしく、縛られたまま地面に倒れていた。あの悪魔のような影が飛び出してくる気配もない。
ジャックはちらりとオリバーに目を向けると、小さく頷いた。
「校庭に穴が空いて、俺らとエミリアで飛び込むところまではゲーム通りだったはずだ。でも、オリバーは最初から初代に憑依されてなかった。話し方も普段のあいつのままだったし、例の呪われた剣も持ってねぇ」
「つまり、初代が短剣を持ったまま単独で動いているということか?」
「あんまり考えたくねぇけどな」
彼は頭を押さえてため息をつく。思い返せば、私たちの出会いからゲームとは違っていた。これまでに積み重なった変化がここにきて影響してしまったのだろう。
――さすがに、最終イベントだけゲーム通りとはいかないか。
初代魔王は憑依する相手がいない状態だと遠くへは行けないという。それなら門の近くにいるのだろうかと考え、尋ねる。
「ルーシーの姿は見ていないのか?」
「いや、俺たちが地下に来た時はオリバーしかいなかったな。……最終イベントに聖女が絡んでた記憶もねぇけど」
ジャックはそう言って首を振った。ということは、初代がルーシーを連れているのだろうか。嫌な予感しかせず眉を顰める。
初めからゲーム通りになるように意識して進めていれば、戦闘に勝利した時点で終わっていたのかもしれない。しかし、今のこの世界はホリラバの『続編』だ。
前作のエンディングから、すでに変化は始まっていたのだろう。
「……2人とも、どうかしたのかい? これから門を破壊するんじゃないのか?」
話が終わるのを待っていたらしいセシルが躊躇いがちに口を開いた。ジャックと顔を見合わせ、彼らに向き直る。
「そうだな。オリバーの傍に初代魔王がいないのは気がかりだが、このままここにいても仕方がない。とりあえず一度、門に魔法が効くかどうか試してみるか」
万が一初代魔王がオリバーと共に倒れていれば門に攻撃が当たるだろう。そして反対に魔法が一切効かなければ、彼がどこかにいることが確定する。
初代としても門を破壊されるのは困るはずだ。オリバーが倒れたからといって大人しくしているような性格にも思えないし、門に近付けば姿を現すかもしれない。
私がそう言うと、ジャックは「なるほど」と手を叩いた。セシル達も賛同してくれたため、そこから全員で通路を抜けて先へ向かう。
魔界の門まではそう遠くなかった。広い空間に辿り着くと、テッドは抱えて運んできたオリバーを洞窟の壁際に座らせた。
周りには瘴気が溢れているが、特に門の封印が弱まっている様子はない。去年封印した時と変わらず真っ白のまま、扉は隙間もなく閉じられている。
――じゃあ、この瘴気はどこから漏れ出ているんだ?
地下の暗闇だから多少は仕方ないとはいえ、明らかに普段とは空気が違う。エミリアも辺りの瘴気を聖魔法で祓おうとしてギルに止められていた。原因が分からなければ、無駄に魔力を消耗するだけだ。
もしやこの瘴気の先に初代魔王がいるのだろうか。そう思って周りを警戒していたところで、ふいにライアンが声を上げた。
「ッルーシー!?」
彼の視線の先に目を向ける。門を囲むように並んだ部屋の扉が一か所だけ開いていた。去年ロニーが魔法で消滅させていた、雷属性の魔力を送るための部屋だ。
新しい扉が設置されていないのか、完全に中が見える状態になっている。暗い室内には、明るい桃色の髪をした彼女が倒れていた。
迷わず駆け出したライアンにつられて足を踏み出す。私たちが部屋に入ると魔道具が反応し、自動で燭台に火が灯った。
門に魔力を送る台座の前にルーシーはいた。縛られているわけでもなく、見る限りでは怪我もしていない。どうやら、ただ眠っているだけのようだ。
「ルーシー! ルーシー、大丈夫か!?」
さっと彼女の傍にしゃがみ込んだライアンがルーシーを抱き起こす。私も同じように彼の隣にしゃがんで様子を伺う。
すぐに意識を取り戻したルーシーは、私たちを見て目を丸くした。
「え、ライアン様……アレン様? ここは……?」
「魔界の門がある校庭の地下だ。君は何故ここにいる?」
「何故も何も……私が聞きたいわよ。神殿の外門に鍵をかけようとしたら、急に目の前が暗くなって……そのまま連れ出されたのかしら」
状況に混乱しているようだが、意識はハッキリしているらしい。彼女が無事だったことに安堵しつつ、外しかけていた指輪を嵌め直して部屋の中を見回す。
蝋燭に照らされた室内は薄暗いが、目を凝らしても初代魔王の姿はない。彼女だけをここに放置する理由は何だろうと頭を捻っていると、後ろから足音がした。
「2人とも! 急に離れないでくれ」
「ルーシーが見つかったの?」
私たちを追ってきたセシルとリリー先生が慌てて部屋に飛び込んでくる。彼らに答えようと顔を上げた瞬間、黒い壁のようなもので入口が閉ざされた。
闇魔力の気配に気付いたセシルがハッとして振り返る。これはと彼が口を開いたところで、ライアンに抱えられていたルーシーが思い出したように体を起こした。
「そうだ! これだけはアレン様に伝えなきゃ!」
「な……なんだ?」
そんなに大切な話なのだろうか。勢いよく腕を掴まれて面食らってしまう。
彼女は私を見上げると、にやりと笑った。
「恋愛感情がないなんて欠陥品なのね。本当に可哀想」
――え……?
一瞬何を言われたか理解できず、思考が停止する。
静かな部屋に反響した言葉が耳に残る。
どうして彼女がそれを知っているのか、どうしてこの状況でそんなことを言ったのか。その理由を考える間もなく、ドスッと体に鈍い衝撃を受ける。
次いで腹部に焼けるような痛みが走り、タキシードが赤く染まった。
ライアンが固まっている。何か嫌なものが体内に流れ込んでくるのを感じる。目の前の彼女の体から黒い靄が抜けていく。と、認識できたのはそこまでだった。
――そうか……オリバー以外にも、憑依できるのか。
氷のように冷たい闇に意識が沈む。体から力が抜けて視界が傾く。
誰かの笑い声が、耳鳴りのように遠く聞こえた気がした。
===
「は……!? な、何で、何よこれっ!?」
悲鳴のようなルーシーの声で我に返る。真っ先に視界に飛び込んで来たのは、腹部を赤く染めたアレンだった。ぐったりと地面に倒れ、傷口には黒い短剣が刺さったままになっている。
アレン、と彼の名を呼ぶ声が掠れる。弾かれるように駆け出して彼に近寄る。震える手でアレンを抱き起こそうとしたところで、ガシと肩を掴まれた。
「駄目よ、動かさないで! 出血が酷くなるわ!」
リリー先生は素早くしゃがみ込んで上着を脱ぐと応急処置を始めた。傷口を固定しながら、ギリと唇を噛んでルーシーを睨み付ける。
「何してんのよ! あんた、改心したんじゃなかったの!?」
「ち、違っ……体が勝手に」
「いいから聖魔法で治療してちょうだい! 止血だけじゃどうにもならないわ!」
ルーシーはハッとした顔をして、アレンに両手をかざした。そしてヒールを唱えた瞬間、何故か不自然に瞬いた光によって後ろに弾き飛ばされる。
台座にぶつかる直前でライアンに受け止められた彼女が、呆然として呟いた。
「ど、どうして? 魔法が弾かれるなんて……」
その直後、我慢できないというように不快な笑い声が響いた。頭上から嫌な気配を感じて目を向ける。薄暗い中に、ぽつんと小さな影が見えた。
いつか本に描かれていた悪魔のような影は羽を使って下りてくると、台座に腰かけて手を叩いた。
「ははっ、やると思った! 効くわけねえだろ、もう『刺さった』後なんだから。こんなに上手く行くなら最初からこうするべきだったぜ」
小鳥程度の大きさなのに強い存在感を放っている。こちらに向けられた瞳は闇を映しているように真っ黒だ。ぞくりと鳥肌が立ち、気付けば杖を握り締めていた。
相手が何者か、なんて考えなくても分かる。
「……お前が初代魔王か?」
「よう、人間の王子様。大事なお友達を守れなくて残念だったなぁ。せっかく入口を塞ぐ前にお前らまで入れてやったのに」
悪意しかない返答に唇を噛む。彼はニヤニヤと笑って続けた。
「俺のことは聞いてても、この体じゃ憑依しかできねぇと思ってたか? オリバーが移動魔法を使えるんだから俺も闇魔法が使えるに決まってんだろ。ま、しばらくゆっくりしていけよ。どうせ何もできねぇんだからさ」
視界の端ではリリー先生が必死にアレンの手当てをしている。ルーシーが再び聖魔法を試しては弾かれ、ライアンに止められている。
――今ここで、僕に何ができる?
感情的になっても相手に面白がられるだけだろう。冷静になれ、と湧き上がる怒りを抑えて深く息をつく。
初代魔王は短い脚を揺らして完全に油断している。生徒会室でオリバーと対峙した時は避けられてしまったが、今なら火魔法も当たるかもしれない。
アレンの治療は進んでいない。ルーシーで駄目ならエミリアに、それでも駄目なら神殿で治療を頼むしかないだろう。
そのためには、一刻も早く初代魔王を倒して部屋から出るしかない。
「狙われるのが分かってんならほっときゃいいのに、さすが聖女様。深い繋がりがありそうな桃髪を餌にしたのは正解だったな。闇魔力持ちは憑依先としても都合がいい。ま、聖魔力もあるせいで短時間しか使えなかったが」
「……ルーシーを操ってアレンを刺したのか」
そのために彼女を神殿から連れてきたんだなと眉を顰める。アレンと親しい相手を利用して襲うなんて。しかも、じわじわと苦しめるような方法で。
これ以上初代魔王を自由にしてはいけない。このまま大人しく話を聞いてやる意味もない。そう思い、彼に向かって杖を構える。
しかし彼は逃げなかった。呆れたような顔をして、やれやれと両手を上げる。
「おいおい、やめとけよ。俺が死んだらそこの聖女様も死ぬぜ?」
「――は?」
予想外の言葉に息が止まる。リリー先生とライアンが信じられないという顔をしている。ルーシーは何かに気付いたらしく、「まさか」と口を押さえた。
彼女の視線の先には、未だアレンに刺さったままの短剣がある。僕たちの反応を見ていた初代は満足げに頷いた。
「ご明察! それは対象から魂と魔力を奪う特別な魔法が込められた剣だ。刺すのに条件がいるが、刺さっちまえば楽勝よ。後は対象が諦めるのを待つだけでいい」
あの黒い短剣がアレンと初代の魔力を繋いでいるようだ。刺された本人以外には触れることもできず、聖魔法で治療することもできない。
アレンの魔力が尽きるまで初代魔王はその場から動けないが、その間に彼を倒せばアレンも道連れになってしまうという。
敵の言葉を素直に信じるつもりはない。しかし嘘だと断言できる証拠もない。
大事な親友を襲った相手に攻撃することもできないまま、どこにも向けられない感情で杖を握る手が震える。
黙って話を聞いていたリリー先生が、苛立ちを隠さずに言った。
「諦めるですって? ふざけないで。アレンが簡単に諦めるわけないじゃない」
「いいや、聖女様にそれ以外の選択肢はねぇよ。言ったろ? 特別な剣だって。聖魔力を持っていようがいまいが関係ねえ。刺された本人にしか抜けないからこそ、きっちり対策魔法を込めてあるのさ」
初代魔王は馬鹿にしたようにため息をついて台座の上に横になる。そしてアレンを眺めながら、嫌らしい笑みを浮かべた。
「二度と目覚められないように夢を見せるんだ。生を諦めて自ら魂を手放したくなるような、特別な悪夢をな」