162.5話 乾杯 ◇
今日はこれくらいにしておこうと本を閉じる。時計に目を向けると、まもなく日付が変わる時間だった。久しぶりに夜更かしをしてしまったようだ。
普段はもう少し早くベッドに入っているが、明日は休日だ。昼から生徒会としてダンスパーティーについて会議をする予定は入っているものの、朝は多少遅くなっても構わない。ジェニーにもそう伝えてあるため、ついのんびりしていた。
眠くないわけではないが、まだ寝ようとは思えない。ソファーから立ち上がって窓に足を向ける。
――まぁ……またあの夢を見たくない、というのもあるか。
芸術祭のあの日から、眠る度に変な夢を見るようになった。真っ暗な空間に誰かが立っていて、話しかけようとすると消えてしまう。悪夢というほど怖いわけではない。どちらかといえば、寂しさを感じるような夢だ。
心配をかけないためにも人に話すことはないが、さすがに何度も繰り返すと不安になってしまう。自分では気にしていないつもりでも、初代魔王に襲われたことが心の傷になっているのだろうか。
小さく息をついてカーテンの隙間から外を見る。窓の向こうはかなり寒いらしく、辺りの景色がぼんやりと白く染まっていた。学園内では魔道具によって1日で消えてしまうが、明日の朝は雪が積もっているかもしれない。
真っ暗な空にちらちらと白い結晶が降るのを眺めていると、ふいにノックの音が聞こえた気がした。
もしや、誰か来たのだろうか。聞き間違いかと思いつつ廊下に繋がる扉へ近寄る。声をかけるより先に、再度控えめな音が耳に届く。
寮の中であれば夜でも行動に制限があるわけではないが、今までこんな時間に来客があったことはない。念のため杖を握り、警戒しながらそっと扉を開ける。
そこに立っていた金髪の彼は、柔らかい笑顔を浮かべて言った。
「こんな深夜にすまない。誕生日おめでとう、アレン」
まったく予想していなかったため、目を丸くしてしまう。廊下にいたのはこの国の王子であり、親友のセシルだった。
護衛兵のスティーブンも寮内にいるはずだが、今は周りに誰もいない。内緒で出てきたのだろうかと急いで中へ通したところで、ようやく彼の言葉に気付いた。
「誕生日?」
「うん。今日は君の誕生日だろう?」
「そういえば……」
杖を机に置いて時間を確かめる。日付が変わったことで18歳の誕生日を迎えていたらしい。去年は当日に家からプレゼントが届いたところで思い出したが、今年は続編のエンディングに気を取られていたこともあって、完全に頭から抜けていた。
セシルは小さく笑うと、抱えていた袋の中身が見えるように持ち上げた。
「眠ってしまう前でよかった。君が成人するまで待っていたんだ。1杯だけでいいから、一緒に祝わせてほしい」
そこに入っていたのは豪華な飾りのついた細いガラス瓶だった。見覚えがあるわけではないが、話の流れでこれが何か分かってしまう。
「学園の寮で飲酒なんて問題にならないのか?」
「成人しているなら自己責任で飲んでも構わないらしいよ。談話室や食堂では禁止されているようだけどね」
この国では18で成人としか定められていないし、生徒会長である彼が言うなら正しいのだろう。前世の記憶があるせいで若干の背徳感を覚えるが、せっかくの気持ちを無碍にはできない。
テーブルにグラスを用意して透き通った酒を注ぐ。セシルと向き合ってソファーに座り、グラスを軽く掲げる。
「成人おめでとう、アレン」
「ああ、ありがとう」
セシルの誕生日はつい先日だったが、婚約者が決まっていないため大規模なパーティーは開かれなかった。当日は王宮に住む王族のみで祝われていたようだ。
クールソン家経由でプレゼントは贈ったものの、直接祝うことはできなかった。
――それなのに、こうして部屋に来て祝ってくれるとは。
待っていたということは、セシルも今日まで飲酒を我慢していたのだろうか。友情に感謝しながら少しだけグラスを傾ける。
前世でそれなりに嗜んでいたとはいえ、この世界の酒を飲むのは初めてだ。度数はそこまで高くないようだが、今の自分がどの程度強いか分からない。
「そういえば、クールソン家で誕生日パーティーは開かれないのかい? 必要であれば王宮から魔術師と護衛兵を向かわせるけど……」
同じようにグラスを傾けていたセシルが顔を上げた。少し考え、首を振る。
「大丈夫だ。今のところそんな予定はない」
以前は誰かの誕生日が来る度に家族で祝っていたが、寮に入ってからはそれも難しくなった。パーティーのために1日だけ家に帰るという手もあるが、学園の行事が連続して入っているこの期間はどうしても時間が合わない。
成人のパーティーは卒業後に王宮で開かれるため、クールソン家でもその時にまとめて祝うということで落ち着いたらしい。……それに
――再び襲われるかもしれないと考えると、それどころではないからな。
芸術祭の日。神殿から学園に戻る前に一度、クールソン家の屋敷へ向かった。
初代魔王のことや性別が変わっていたことは省いたが、聖女として『魔物』に狙われていることだけは伝えておいた。ちょうど学園長からも同じような連絡が届いていたらしく、母様も父様もかなり心配していたようだ。
屋敷に帰る提案もされたが、それは根本的な解決にはならない。魔法を使える者が少ないのは却って危険だからと、卒業までは学園にいることを許された。
見送ってくれた家族の不安げな顔が頭に浮かぶ。あまり心配をかけたくはないが、このまま何も起きないでほしいと願うだけ無駄なことは分かっている。
乙女ゲームの世界で物語が続いている以上、必ずイベントは起こるからだ。
ダンスパーティーでは何が起こるのだろうと考えていると、セシルが申し訳なさそうに口を開いた。
「ごめんね。誕生日なのに生徒会の仕事を優先させてしまって」
「いや、構わない。芸術祭は君たちにばかり任せてしまったからな」
生徒会としての仕事をするのもあと少しだ。気がかりなことは多いが、寮に籠って守られていても状況は変わらないだろう。
相手がどう動くか分からない以上、じっとしているのが正しいとも限らない。
ハッピーエンドまでは去年と同じく自分にできることをやらなければ、とグラスに口をつける。セシルはグラスを大きく傾けると、眉を下げて笑った。
「あれは君の責任ではないよ。前日までしっかり準備してくれていたんだから気にしないでくれ。それより、ダンスパーティーには魔族の彼らも参加予定だろう? ジャックとテッドがいつ戻ってくるかは聞いているかい?」
「当日までには戻ってくると思うが……」
詳しい話は私も知らない。テッドの謹慎はそろそろ解けるはずだが、ジャックは門について調べるために魔界へ戻ったきりだ。
魔道具を使って行き来しているギル経由でダンスパーティーのことを伝えてはいるものの、ジャックがどう考えているかは分からない。もしかしたら、攻略対象として参加するのはギルだけでいいと思っているかもしれない。
――できればイベントには、前世の記憶を持っている彼にいてもらいたいな。
そう思いつつグラスを置いたところで、セシルのグラスが空になっていることに気付いた。ずいぶん早いなと彼に顔を向け、ハッとする。
「セシル? ……大丈夫か?」
考えながら話していたせいで気付くのが遅れたようだ。いつの間にか、彼の顔は薄暗い部屋でも分かるほど赤くなっていた。
グラス1杯で完全に酔ってしまったらしい。セシルが酒に弱かったのか、もしくは私が強いのだろうか。酔い覚ましの薬もないため、どうしようかと頭を捻る。
とりあえず、しばらく休ませよう。もし体調が悪そうならヒールを試してみるかと考えながら彼のグラスに水を注ぐ。
セシルは勧められるままそれを飲み干すと、眠そうに目を擦った。
「す、すまない。大丈夫だよ。なんだか急に眠くなってしまって」
「初めての酒だから慣れていなかったんだろう。無理をするな」
「君も初めてじゃないのかい……?」
今にも閉じそうな目を向けられて苦笑する。酔っている自覚はないが私も同じ酒を飲んでいる。急に酔いが回るかもしれないし、彼を部屋へ運ぶのは危険だろう。
王子をソファーで寝かせるわけにもいかず、肩を貸してベッドへ運ぶ。少し休むよう声をかけたところで、セシルが躊躇いがちに言った。
「アレン、頼みたいことがあるんだ」
赤い瞳に見上げられ、何だろうとベッドの縁に腰かける。
彼はうとうとと微睡ながら続けた。
「いつか、君が隠している秘密を、僕にも教えてくれるかい?」
「え?」
「君のことなら、僕は……」
その声が最後まで聞こえることはなかった。セシルは返事を待たずに眠ってしまったようだ。すやすやと気持ちよさそうな寝息が聞こえ、口をつぐむ。
秘密とは一体どれのことだろう。先日のお茶会で、ルーシー達に話した内容を知りたいのだろうか。……それとも
――『気付かれて』しまったんだろうか?
ドクンと不安に胸が脈打つ。もうハッキリとは覚えていない、前世の嫌な記憶が一瞬だけ頭をよぎる。
全てを正直に話せたら、今後彼に嘘をつく必要はなくなるだろう。しかし過去の経験から、それが簡単に受け入れられるようなことではないと知っている。
「……すまない」
ぽつりと口から呟きが零れた。前世のことならともかく、私自身の問題なんて彼にとってはどうでもいいことだろう。わざわざ余計なことを伝えて今の親友という関係を壊したくはない。
セシルは誰かに恋をしている。その相手と結ばれて幸せになれば、きっと私への興味は薄れるはずだ。だから、それまでは。
「君の前では『普通』の友人でありたい」
うっかり溢れそうな言葉を飲み込んで拳を握る。
本格的に降り始めた雪のせいか、部屋の中はしんと静まり返っていた。
===
誰かの気配を感じて目を覚ます。見慣れたはずの寮の天井が目に入るが、なんとなく違和感を覚える。
――おかしいな……昨夜の記憶が曖昧だ。
未だぼんやりしている気がして目を擦る。アレンの誕生日を祝おうとしていたことは覚えているが、酒を飲み始めた辺りから急激に眠くなってしまった。
無意識のうちに自分の部屋へ戻って来たのだろうかと考えながら顔を横に向ける。そこで、息が止まった。
見間違えるはずもない鮮やかな青い髪が手の届く距離に広がっている。普段こちらに向けられる淡い色の瞳は、閉じられた瞼で隠れている。
すぐ近くで小さな寝息が聞こえ、ボッと顔が熱くなった。
何故。どうしてアレンが同じベッドに寝ているんだろう。慌てて体を起こしたところで、ようやくここが彼の部屋であることに気付いた。
どうやら酒に酔ったまま眠ってしまったようだ。
――ということは、彼が運んでくれたのか。
親友に情けない姿を見せてしまったと頭を押さえる。まさかここまで酒に弱かったなんて自分でも予想外だ。母上も父上も強いはずなのに、その耐性は引き継ぐことができなかったらしい。
丸くなるように眠っているアレンにそっと毛布を掛ける。もうしばらく眺めていたい気持ちはあるが、時計の針は6時を指していた。ジェニーが朝の準備をするために入ってくるかもしれないと思うと、のんびりしてはいられない。
綺麗に洗われていた瓶を回収し、音を立てないよう気を付けながら部屋を出る。
6階へ移動して、廊下に誰もいないことに安堵する。今声を掛けられたら上手い言い訳をする自信がない。騒がしい胸を押さえて深く息をつく。
アレンの誕生日を祝うつもりだったのに、僕のほうがプレゼントを貰ってしまったみたいだ。これでは彼に申し訳ない。
ちゃんとしたプレゼントを改めて贈らなければと部屋の鍵を取り出す。
「おはようございます、セシル王子。こんな早くにどうかなさいましたか?」
突然声をかけられ、驚いて取り落としかけた瓶の袋を抱え直す。ちょうど専属メイドの1人が部屋から出てきたところだった。これから食事の用意へ向かうらしく、普段とは違うエプロンを着けている。
なんでもないよと笑顔で返し、それ以上尋ねられる前に部屋へ入る。まっすぐ奥の部屋へ進み、そのままベッドに倒れ込む。
――もったいないことをした。せっかくアレンが一緒に眠ってくれていたのに。
ベッドに横になった後のことを何か覚えていないかと頭を捻る。
眠る前に彼と話した気もするが、その内容はどうしても思い出せなかった。