158話 狙われた聖女③
はっとして目を開ける。一瞬だけ意識が飛んでいたらしい。我に返った途端、背中に痛みを感じて激しく咳込む。口の中を切ったのか、わずかに血の味がした。
これで何度目だろう。先程から繰り返し黒い触手に放り投げられ、壁や床に叩きつけられている。初めはなんとか受け身を取れていたが、もはや天地も左右も分からなくなってしまった。
どうにかして状況を変えなければと思考する余裕もない。酷い乗り物酔いのように目が回り、深く息が吸えない。
うつ伏せに倒れたまま動けないでいると、ぐんと体が宙に浮いた。
――またか……!
魔法を使えないだけでこんなに一方的なのかと圧倒的な力に恐ろしくなる。歯を食い縛るのも間に合わず、勢いよく放られる。
すぐに背中と頭を打ち付け、脳内に星が瞬いた。
「う、ぐ……っ」
衝撃で声が漏れる。今度は壁際に置かれた本棚にぶつけられたらしい。床に落ちると同時に、ドサドサと上から本が降ってくる。眼鏡を失ったせいで霞んだ視界には机に置かれていた書類が散乱していた。
初代魔王に憑依されたオリバーはまっすぐこちらに歩いてくる。彼が何かを握った腕を振り下ろした瞬間、パチッと弾かれたような感覚を覚えた。
鋭い舌打ちが響き、ため息が聞こえる。
「まだ駄目か。思ったよりしぶといな」
そう言って彼はおもむろに片足を引いた。咄嗟に腹を守った手ごと躊躇なく蹴り飛ばされ、床を転がりながら吐き気を堪える。
彼は私の隣にしゃがみ込むと、頬杖をついて怪訝な顔をした。
「本物の女みたいに泣き喚かねえし悲鳴も上げねえし。つまんねぇ奴だな。床を転がされても平気なのか? 本当に貴族かよ」
部屋に張られた闇魔法の影響か、廊下にいるはずのジャック達の声は聞こえない。未だに誰も入って来ないところを見ると、通常の魔法は効かないらしい。
――聖魔法を扱えるエミリアに頼るしかないのか。
何もできない情けなさに唇を噛む。どうにかして彼女に状況を伝えられたらと思ったところで、いつの間にかオリバーが黒い剣を握っていることに気付いた。
刃まで黒く染まった短剣。それを見て、魔道具庫でも彼らが尖ったものを持っていたことを思い出す。もしや、何度も弾かれているのはこの短剣なのだろうか。
ふいに、オリバーが辺りを見回す。彼は首を傾げてこちらを見下ろすと、不思議そうな顔をした。
「そういやお前、『婚約者』は?」
「……婚約、者?」
「真っ先に狙ってやろうと思ったのに、それらしい相手は見なかったな。容姿も身分も揃ってて1人も相手がいないなんてありえねぇだろ。実は何か、人に言えないような重大な秘密でも抱えてんのか?」
ここで婚約者がいない理由を聞かれるとは思わなかった。うまい誤魔化し方が浮かばず、つい口をつぐんでしまう。
私の反応を見ていた彼は、面白いものを見つけたとでもいうように目を輝かせた。なるほどと頷き、わざとらしく柔らかい声で囁く。
「やっと心が揺れたな、聖女様。……詳しく教えてもらおうか」
向けられた目にぞっと悪寒が走る。彼は手を伸ばして私の頭に触れた。
おそらく闇魔法を使おうとしているのだろう。聖魔力を持っているから耐性があるとはいえ、それが完璧でないことは去年の経験から知っている。
聖魔法が使えない今、直接闇魔法を使われたらどうなるか分からない。反射的に逃れようとして床に手をつく。
そこで、何かがコツンと指に当たった。
目の前に転がってきたのは、先程オリバーに放り投げられたはずの白い球体。この部屋の中で私が唯一使える反撃用の魔道具だ。
私が球を掴んで魔力を込めたのと、彼が顔を強張らせて立ち上がったのはほぼ同時だった。
次の瞬間、その場で音もなく白い光が弾けた。
ギャッと鋭い悲鳴が上がり、オリバーがよろけながら後退る。引っ張られるようにして彼の体から黒い靄が現れ、「初代様!」と焦った声が耳に届いた。
苦しそうなうめき声と共に弱々しい舌打ちが響く。
「仕方ねえ……後はお前がやれ。間違っても殺すなよ」
姿は見えないのにどこからか声が聞こえ、今まで感じていた圧が消える。その場には短剣を握ったオリバーだけが残っていた。
聖魔法で魔物は祓えても魔族を倒すことはできない。相手が闇魔法を使うことには変わりない。痛みを堪えて体を起こし、恨みの籠った視線を受け止める。
「……諦めの悪い人ですね。まぁ、これで反撃の方法はなくなったでしょう」
どことなく顔色の悪いオリバーが眉を顰める。すぐに魔法を使ってこないということは、多少なりとも対話する意思があるのだろうか。
それならもう少し情報を引き出せるかもしれない。小さく息をついて、彼の動きを警戒しつつ口を開く。
「何故そうまでして、門を開けたいんだ?」
「決まっているでしょう。瘴気に侵された魔界から魔族を解放するためですよ」
返って来た答えに目を丸くしてしまう。オリバーが嘘をついているようには見えない。彼は本当に善意のみで行動しているようだ。
しかしそれでは、根本的な解決になっていない。
「その後はどうするつもりだ?」
「その後、とは?」
「……瘴気が人間界にも溢れたらどうする? 聖魔力を持っているのは人間だけなんだろう。人間が滅んだら魔物化を治療できる者もいなくなる。門を開けても、問題を先送りにするだけじゃないのか」
突然、オリバーが動きを止めた。まるで人形のような不自然な様子に違和感を覚える。彼は震える手で頭を押さえると、おろおろと視線を泳がせた。
「い、いいえ。そんなはずは……門を開ければ、初代様を復活させさえすればみんな助かると。魔界が元に戻り、魔物化で苦しむ民もいなくなると……」
「初代にそう言われたのか? そもそも門の開放に彼の復活は、っ!?」
それ以上言葉を続けることができなかった。床から伸びた触手が首に絡まり付く。そのままオリバーが下に見えるほど高く持ち上げられ、ぐっと息が詰まる。
――まずい……!
彼を蹴ろうとしても届かず、触手に触れることもできない。体から力が抜け、こちらを睨みつける彼の姿が徐々に霞んでいく。
「黙れ、私を惑わせるな! 崇高な初代魔王様が嘘をおっしゃるはずがない!!」
自分に言い聞かせるような声が遠くで聞こえる。
意識を手放す寸前、どこかでガラスの割れる音がした。
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「アレン様は生徒会室だ。外から回るぞ!」
「は、はい!」
ギル様が前を向いたままそう言った。警備のため、校舎の入口には鍵が掛かっているらしい。迷わず応えて共に生徒会室を目指す。
走るのは得意ではないけれど、彼がずっと手を引いてくれているから立ち止まるわけにはいかない。何より、敵に捕まったアレン様のことが心配で仕方がない。
あの方には数えきれないほど助けられている。今こそ恩返しをしなければ。役に立たなければ、と繋いでいるのと反対の手で拳を握る。
生徒会室のバルコニーが目に入ったところでギル様が呪文を唱えた。すぐに地面から氷の階段が現れ、滑らないよう気を付けつつ駆け上る。
並んだテーブルと椅子を避けて進むと、今まで感じたことのない嫌な気配がした。バルコニーに面したガラス窓にはカーテンが閉められていて、室内の様子はほとんど見えない。でも、強い闇魔法で部屋全体が覆われているのは分かった。
「エミリア、聖魔法を使えるか?」
振り返ったギル様と目を合わせて小さく頷く。前神官様の伝記で学んだように両手をかざし、覚えている呪文を口にする。
「ホーリーライト!」
ふわりと柔らかい風が吹き、白い光が手のひらから飛ぶ。一瞬嫌な気配が薄まったものの、それはすぐに元に戻ってしまった。
さっと頭から血の気が引く。慌ててもう一度同じ呪文を唱える。しかし、相変わらず生徒会室は闇魔法に包まれたままだった。
「そ、そんな」
――魔法を使えるようになっても、肝心な時に役に立てないなんて……!
今この場で聖魔法を使えるのは私だけなのに。アレン様を助けなければならないのに。まさかまったく効かないなんてと手が震える。
その手を力強く握って、ギル様が言った。
「大丈夫だ。大きな魔法にはそれだけの魔力が要る。落ち着いて魔力を溜めろ」
彼も焦っているはずなのに、向けられた目はいつも通り優しかった。傍に誰かがいてくれるだけでこんなに安心できるのね、と意識的に深く息をつく。ぎゅっと彼の手を握り返し、改めて窓に顔を向ける。
そこで突然、大きくカーテンが揺れた。室内の様子が分かるだろうかと急いで目を凝らしたところで、隙間から見えた光景に息が止まった。
黒い紐のような物がアレン様を持ち上げ、床に壁にとぶつけている。魔族の毒を受けて女性の身体になっている彼は床に倒れたまま動かない。
初めて見る闇魔法に背筋が冷たくなる。魔法も使えないのにあんなことをされて無事でいられるわけがない。アレン様の怪我を確かめなければと窓に顔を寄せる。
青い髪が床に広がっているのが目に入ったところで、ふとその姿に強い既視感を覚えた。圧倒的な力に何もできない、傷だらけの長い髪の女の子。
――あれは……いつかの私と、同じ。
家族と暮らしていた日々を思い出す。しつけとして振るわれた力で床を転がっていたこと。魔法が使えないため抵抗もできず、痛みに耐えるしかなかったこと。
いくら冷たいことを言われても魔法で傷付けられても、家族ならそこに愛はあると思っていた。それは私に対して必要な行為で、どうしようもないことなのだと。
でもこんな行為に、良い意味なんて本当にあるのかしら。
薄暗い部屋の中。アレン様の傍にいた見覚えのない男性は、あろうことか倒れている彼を躊躇いなく蹴り飛ばした。
ドクンと大きく心臓が跳ねる。何といえばいいかわからない気持ちがざわざわと胸の中で渦巻くのを感じる。
いつも優しくてこんな私にも気を遣ってくれて、聖女として多くの人から愛されている彼にどうしてそんなことができるのだろう。アレン様がそんなことをされる理由なんて何もないのに。どうしてそんな酷いことを、……。
――そうか。私も今まで、その『酷いこと』をされていたのね。
その事実に気付いた瞬間、パチンと体の中で何かが弾けたような気がした。
初めて魔法を使った時のような温かいものが全身を巡る。腹の底が熱くなって、じわじわと頭まで熱が昇る。胸の奥に溜まっている何かが溢れるのを堪えようと唇を噛む。涙が出そうなほど顔に力が入り、無意識のうちに両手で拳を握る。
部屋の中にいる彼の声は聞こえないのに、以前言われた言葉が耳に響いた。
『少しくらい怒ってもいいんだぞ』
その気持ちがどこを向いているのかは分からない。かつての家族に対してか、アレン様を傷付ける敵に対してか。もしかしたら、自分に対してかもしれない。
ふいに、部屋の中で白い光が弾けた。部屋を覆う闇魔法が揺らぎ、わずかに嫌な気配が薄れる。それでも完全には消えなかった。思わず手を伸ばしたけれど、窓に触れることすらできない。……でもきっと、今の私なら。
「聖魔法の魔道具か! これでも効かないなんて……、エミリア?」
背後からギル様の声が聞こえる。この状態で彼の顔を見たら感情が溢れてしまいそうだ。あえて振り返らず、初めて感じた気持ちと魔力を込めて再び唱える。
「ッホーリーライト!!」
強い風が吹き、辺りが真っ白に輝く。闇魔法は弾けるようにして霧散した。ようやく触れられた窓には鍵が掛かっているらしく、取っ手を握っても開かない。
それに気付いたギル様が氷魔法を使うより、私が近くに置かれた椅子を持ち上げるほうが早かった。
心に溜まった怒りを吐き出すように、窓に向かって思い切り振り下ろす。
ガシャン、と大きな音を響かせて窓ガラスが粉々に砕け散る。破片を浴びないようにと素早く私を引き寄せながら、ギル様が唱えた。
「アイススピア!」
氷の槍が空中に現れ、割れたガラスの間から室内に向かって飛ぶ。その後を追うように私たちも生徒会室へ足を踏み入れる。
中にいた男性が振り返ったところで、氷魔法がアレン様に絡みついていた闇魔法を貫いた。闇が煙のように消え、床に下ろされた彼が崩れるようにして倒れ込む。
「アレン様ッ!!」
脇目も振らずアレン様に駆け寄って、そっと抱き起こす。かろうじて息はあるものの意識はなく、あちこちに怪我を負っているのが分かった。細い首にも痛々しい痣が見え、ぐっと胸の奥が苦しくなる。
すぐに治療をしなければ、と彼を抱えたままヒールを唱える。精神的な変化があったためか、以前よりも魔力量が増えている気がした。
白い光がアレン様を包んで傷を癒していく。しっかり治療できていることに安堵していると、男性から私たちを庇うように立ったギル様が口を開いた。
「……オリバー? どうして、お前が」
信じられないというような声に顔を上げる。冷たい目でこちらを見ていた男性は深いため息をつくと、やれやれと首を振った。
「また邪魔が入ってしまいましたか。私は魔族のために動いているというのに、どうしてあなた方は余計なことばかりするのでしょう」
「何を言って……」
どうやらギル様のお知り合いらしい。彼も魔族なのかしらと思っていると、オリバーと呼ばれた男性の周りに黒い紐のようなものが現れた。
強い敵意を感じて息をのむ。意味が分からない、と呟いたギル様が身構える。
闇魔法が動き出したところで、音を立てて廊下に面した扉が開く。
同時に、赤い火の玉が生徒会室に飛び込んで来た。