157話 狙われた聖女②
突き飛ばされるように生徒会室の中心へ転がり、すぐに手をついて立ち上がる。カーテンが閉まっているせいか辺りは薄暗く、嫌な気配が漂っていた。
この部屋全体が闇魔力で覆われているようだ。
――これは……簡単に逃がしてはくれなさそうだな。
いつから部屋の中にいたのだろう。私だけを選んで閉じ込めたということは、やはり狙いは聖女だったらしい。体勢を整えて目の前の相手を睨み付ける。
そこにいた彼は、魔道具庫で見た魔物のような姿ではなかった。黒い長髪を横に流し、緑の瞳に片眼鏡を掛けた執事服の男性だ。
直接話したことはないが、まったく見覚えがないわけでもない。
「オリバー……だったか?」
「おや、覚えていてくださったとは。さすがは聖女様」
オリバーは魔王城にいた時とは違う社交的な笑みを浮かべ、恭しく頭を下げる。しかし、気になるのは彼の隣にいる影の方だった。
コウモリ程度の小さな黒い生物。魔族と同じ羽を生やし、頭には牛のような角が見える。垂れ下がった尻尾の先は尖っていた。
その姿はまるで、物語に出てくる『悪魔』のようだ。
彼はオリバーの肩辺りに浮いたままニヤニヤと笑っている。輪郭はぼやけているのに強い圧を感じ、ぐっと拳を握る。
「聖女らしい姿になったじゃねえか。ま、別に男のままでもよかったけどな。魔法が使えないのは好都合だ」
状況はすべて筒抜けらしい。そう言って笑う声と口調には聞き覚えがあった。魔道具庫で人型の魔物から聞こえていたのは、彼の声だったようだ。
碌な答えが返ってこないのは分かっていたが、尋ねないわけにはいかない。小さく息をついて身構える。
「……私に何の用だ?」
「本当にお分かりになりませんか?」
反対に尋ねられ、眉を顰める。オリバーは微笑みを崩さない。明らかに魔界の住人である彼らが私を狙う理由と言えば、思い当たるのはひとつだけだ。
魔道具庫でわざわざテッドを殺させようとした理由を探しつつ、答える。
「私を殺して門を開けるつもりか」
満足げに頷いて、オリバーは影に目を向けた。そして再びこちらに向き直る。
「最終的にはそうなります。ですが、すぐに殺すつもりはありません。あなたには初代様復活のための贄となっていただきたいのです」
「初代様?」
「ええ、そうです。門の開放後も世界の均衡を保つには、初代魔王様がいらっしゃらなければ不可能ですから」
「そんな話は……」
聞いたことがない、と言いかけたところで遮るように小さな影が飛び出した。くるくるとオリバーの周りを飛び回り、彼の肩に座る。
「まぁまぁ、門を開放したいってのは分かっただろ? で、人間界と魔界それぞれの世界で実体化するためには『2つの魂』と『大量の魔力』が必要なんだよ。片方はオリバーから吸収すれば済む話だが、魔力の量に極端な差がある人間の相手は選ばなきゃならねえ。その点、お前は良い条件が揃ってる」
小さな黒い瞳がじっと私を見詰めた。ぞくりと嫌な予感がして数歩後退る。ジャックから受け取った魔道具がポケットに入っていることを思い出し、気付かれないようそっと手を伸ばす。
「魔力持ちを別に探すのも面倒だからな。門と強く繋がってるお前からなら魔力も魂も奪いやすい。邪魔なのはその意思だけだ」
彼がそう言ったところで、しゅるりと何かが右手首に巻き付いた。振り払う間もなく伸びてきた黒い触手に引き上げられ、足が床から離れる。
左手で触手を掴もうとしたが、魔物と同じくこちらからは触れられない。空気を掴んだように手がすり抜け、わずかに形が崩れるだけだった。
「……そういや、余計なもんを持ってたな。オリバー」
「かしこまりました」
不機嫌そうな声が聞こえて顔を向ける。いつの間にか近くまで来ていたオリバーは私の制服のポケットに手を入れると、白い球を取り出した。軽く放り投げられた魔道具はコロコロと転がり、来客用のテーブルにぶつかって止まる。
――魔道具を持っていることも知られていたのか。
小さい影は私の目の前に浮かんでケラケラと笑った。
「残念だったな。封印が弱まったおかげで声が拾いやすくなったんだ。学園のどこにいても分かっちまうぞ」
「封印が……?」
呟いてハッとする。確かに、魔界の門に魔力が吸われている感覚がほとんどなくなっている。魔法が使えない状態のため、門の封印も一時的に弱まってしまっているようだ。だからこそ彼らは、こうして実体として現れたのだろう。
そこで左手にも触手が巻き付いた。流れるように頭上で両手をまとめられたところで、闇魔法を操っているのがオリバーだと気付く。影は飛び回るだけで今のところ会話しかしていない。特に魔法が使えるわけではないのだろうか。
私の視線に気付いたのか、オリバーは一瞬考える素振りをして白手袋を嵌めた手を伸ばした。物腰の柔らかさとは反対に、乱暴に顎を掴まれて顔を顰める。
「初代様。それではどうやって意思に隙を作りますか?」
「バッカお前、それを考えるのが楽しいんだろ」
聞かれていることにも構わず、彼らは「廊下にいる奴を使うか」「さすがに危険では」と話し合っている。その会話の中で、この小さな影こそオリバーのいう『初代魔王』本人なのだと理解した。
おそらくオリバーは彼に利用されているのだろう。今になって姿を現したということは、マディが門を開ける際にはまだ関わっていなかったのかもしれない。
どうやら彼らは、私から魔力と魂を奪おうとしているらしい。テッドや母様が狙われたのも『私の心に隙を作るため』だったと知って唇を噛む。
――こうして直接姿を現したなら、もう他の誰かが襲われることはないだろうか。
何故門を開けたがっているのかは分からない。しかし乙女ゲームの裏で動いている彼らが、ホリラバ2のラスボスだろうということは分かる。
本当ならこうして狙われるのは、ルーシーかエミリアだったのだろう。……と、冷静に考えられていたのはそこまでだった。
ふいに、オリバーがこちらを向く。するりとネクタイを外され、弾くように上着のボタンを外される。その行動の意味を考える前に、彼が言った。
「この体なら、手っ取り早く痛めつける方法はいくらでも」
軽く触れるように腹部を撫でられ、ぞわと鳥肌が立つ。彼の言葉が何を示しているのか分かってしまったせいで頭から血の気が引く。離れようとしたが、拘束されている上に宙に浮いている今はどうしようもない。
顔に出さないよう口をつぐんでいると、影が呆れたように言った。
「おいおい、魔族と人間だぞ。それじゃ契りを交わすことになっちまうだろうが。一瞬で終わっても面白くねえし、もっとじっくり楽しもうぜ」
「しかし、早くしなければ魔族の民が」
「大丈夫だって! 1日も2日も変わらねえ。俺が言うなら間違いない。もっと楽しんだっていいだろ? こんな機会滅多にねえんだからさ」
「……初代様がそうおっしゃるのであれば」
納得したようにオリバーが離れる。影は考える素振りをすると、すっと彼に近付いた。ぼやけていた輪郭がさらに崩れ、同時にオリバーの頭を黒い靄が包む。
「貸せ。いいことを思い付いた」
口調は初代魔王のようだったが、その言葉を発したのはオリバーだった。いつの間にか悪魔のような姿は消え、目の前のオリバーがにやりと笑う。
まさか、と思わず口を開く。
「オリバーの体に憑依し……、ッ!?」
言い終わる前に、胴体に触手が巻き付いた。手の拘束は解けたが、足は宙に浮いたままだ。そのまま天井にぶつかりそうなほど高く持ち上げられ、一体何をするつもりなのかと息をのむ。
「どうせなら、この部屋もめちゃくちゃにしてやろう」
その声が耳に届いた瞬間、ぐるりと視界が回転する。
浮遊感に次いで、背中に強い衝撃を感じた。
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「エミリア、すまない。……隣に座るのは俺じゃない方がよかったか?」
2曲目が終わり講堂が拍手に包まれたところで、ぽつりとギル様がそう言った。後方の端の席だったから周りには聞こえなかったようだ。
向けられた申し訳なさそうな表情に驚いて、慌てて首を振る。
「そんな。ギル様と一緒にいられて嬉しいです」
それは素直な気持ちだったが、ギル様は静かに目を伏せた。青い瞳は薄暗い講堂の中では黒く見える。続く言葉を待っていると、彼が顔を上げた。
「怖くないのか? 俺は、半分はお前と違う血が流れている」
彼が『魔族』であることを言っているのだと気付き、口をつぐむ。何と答えるのが正解なんだろう。次の曲が始まってしまったが、ぎゅっと制服を掴んで考える。
昨日、ギル様が魔族であることを初めて知った。ジャック様ともう1人、種族を隠して学園にいるということも伝えられた。
それまで魔族が存在していることも知らなかったし、出会ったこともない。
――でも……怖いなんて、思ったことはないわ。
何故かその話を聞いた時、私は迷いなく受け入れてしまった。種族が違っていたとしても、2人は優しくて大切なお友達だ。
一緒に授業を受けてお話をして昼食を取って、おでかけをして。今までずっと傍で過ごしてきた。だからこそ、分かる。
「関係ありません。ギル様は、ギル様です」
はっきり言葉を伝えるのは、まだ少し怖い。曲の邪魔をしてはいけないとさらに押さえたせいで、答えた声は思ったより小さくなってしまった。
魔族のことは詳しく知らない。聞いたのは魔界に住んでいることと、牙に毒を持っていることくらいだ。そんな状態で関係ないなんて言うのは、むしろ失礼かもしれない。でも、それ以外の答えが浮かばなかった。
他の答え方があったかしらと悩んでいると、視界の端でギル様が小さく笑った。
「お前もそう言ってくれるのか」
それがどういう意味かは分からなかったが、彼はとても嬉しそうに見えた。この答えで間違っていなかったのだとほっとする。
ギル様は優しい方だ。同じ人間で血が繋がっている私の家族よりも、ずっと。
――ああ、駄目よ。家族のことをそんな風に考えてしまうなんて、私は悪い子ね。
つい、昔のことを思い出す。しつけは辛くて悲しい思い出しかないけれど、きっとそこにも家族の愛はあったのだろう。
家族だから、こんな私にも期待を抱いてこの歳になるまで育ててくれた。それなのに、私がそれに答えられなかった。
妹であるノーラが私をホワイト家から連れ出してくれたけれど、それが本当に正しいことだったのか今でも時々悩んでしまう。
神殿の方々は優しくて、学園生活は初めて知ることばかりだ。でも、家族はバラバラになってしまった。母様が命がけで守った家族の形を、私が壊してしまった。
聖魔法を使えるようになってようやく家族の役に立てるかと思ったけれど、その辺りの記憶は曖昧だ。気が付いたら暗いところにいて風邪をひいていて、ノーラに手を引かれるまま路地を走ったことしか覚えていない。
神殿まであと一歩のところで倒れてしまって、アレン様に助けられた。
――私の聖魔法が弱いせいで、毒を完全に消し去ることができなかったのかしら。
薄暗い中で自分の手のひらを見る。神官のアデル様が魔法は段々強くなるものだと言っていたけれど、まだ成長しているとは感じられない。
魔族の彼らは聖魔力保持者を魔界に連れていきたいらしい。今のままでは、きっと私は役に立たない。たくさん助けていただいた分、私も何かお返ししたいのに。
そう思ったところで、ふいにギル様が耳に手を当てた。辺りを見回して眉を顰めている。ステージから聞こえる音楽に耳を傾けているようには見えない。
どうかされましたかと尋ねる前に、彼に手を掴まれた。
「エミリア、俺と一緒に来てくれ!」
「えっ?」
小声にしては声が大きかったため、周りの生徒たちから視線を向けられる。しかし彼はそんなことを気にしている暇はないというように席を立った。
まだ演奏中だというのに、構わず講堂の出口へと向かっていく。ギル様に手を引かれるまま、私も駆け足で外に出る。
「ど、どうなさったのですか?」
「アレン様が敵に捕まったらしい。力を貸してくれ!」
間を置かず返って来た言葉に息をのむ。どこで捕まったのか、アレン様は無事なのか、彼はどうやってその情報を知ったのか。気になることはたくさんあったが、尋ねている余裕がないことくらい私にも分かる。
敵というのは魔道具庫でアレン様を襲った魔物のことだろう。私に力を貸してほしいということは、求められているのは聖魔力だろうか。
アレン様が魔法を使えない今、学園内で聖魔法が使えるのは私しかいない。
『今の自分が何もできない役に立たないと思うのであれば、これから何かをやって誰かの役に立てばいい』
ふと、林の中でアレン様に言われたことを思い出す。家族には何も応えられなかったけれど、私の力が求められているなら躊躇う理由なんてない。
できるかできないかではなく、まずはやってみなければ。
「わ……わかりました!」
握られた手に力を込めつつ前を走るギル様に答える。
彼は一瞬目を丸くすると、優しく頷いてくれた。