154話 主従と悪意②
「い、……ッ!」
喉から声にならない声が漏れ、息が詰まる。棚に背をつけたまま抑え込まれるようにしてしゃがみ込む。両手でテッドの肩を押したがうまく力が入らない。仕方なく体の隙間に脚を滑り込ませ、力の限り彼を蹴り飛ばす。
首筋に食い込んでいた牙が抜けた反動で床に血が滴る。傷口を押さえると、制服越しでもしっとりと手のひらが濡れた。
「あーあ、もったいねえ! 血なんて魔力の塊みてえなもんなのに」
騒いでいる不快な声が耳に響く。ズキズキと脈動に合わせて痺れが強まる。
噛まれた痛みはあるが、それ以上に。
――熱い……!!
痛みが麻痺してしまうほど傷口が熱を持っている。いや、首筋だけではない。熱がじわじわと体内に広がっていくような感覚を覚え、思わず歯を食いしばる。
この熱の正体は分かっている。以前、目の前の彼から直接聞いた。
魔族はみんな牙に『毒』を持っていると。
風邪をひいて高熱を出した時のように視界が霞み、ぐらぐらと目が回る。死ぬようなものではないようだが、それなりに強い毒らしい。
棚に掴まって体を支えつつテッドに顔を向ける。未だ正気に戻っていない彼は転がるようにして体勢を整えた。
深く息をつき、再び飛び掛かろうとしたテッドに向けて手をかざす。
「――『リセット』!!」
ホリラバの続編に入った今でもこの呪文は問題なく使用できるらしい。門の前で使った時と同じく、詠唱と同時に白い光が瞬いた。
一瞬だけ目を見開いたテッドは、糸が切れた人形のようにその場に崩れ落ちる。
さらさらと彼の体から黒い靄が抜けていくのが見えてほっとする。しかしそれで毒の効果が消えるわけではない。聖魔法も自分には使えない。
少し遅かったかと唇を噛む。彼が魔物化した時点でリセットを試していれば……なんて、悠長に反省している暇はなかった。
「あ? ……何だ、今の呪文?」
声が聞こえてハッとする。人型の影は不思議そうに首を傾げてテッドに近寄った。魔物化が解けていることに気付いたらしく、信じられないというように叫ぶ。
「はぁあ!? これも失敗かよ! ったく、殺される前に倒れやがって!」
影はそう言って躊躇いなく倒れているテッドを踏みつけた。「やめろ」と慌てて声を上げたが、熱を持った体は思うように動かない。
立ち上がることもできず、ぐっと拳を握る。
氷魔法を使おうと思ったが、握っていた杖は離れたところに転がっていた。どうやら噛まれた時に手放してしまったらしい。
テッドに足を乗せたまま、影は思い付いたというように手を叩く。
「そうだ! 聖女様の目の前でこいつを殺しちまえば多少は」
「ッホーリーライト!」
あまり魔力を溜められなかったが、今の私にできることはこれしかない。小さい光の球が空中に現れ、影を目掛けてまっすぐ飛ぶ。
人のように見えてもその体は魔物に近いらしく、彼は慌てて飛び退いた。ギロリとこちらを睨みつけて舌打ちを響かせる。
「無駄に魔力を消費すんな! 俺の取り分が減るだろうが。大人しくしてろ!」
「な……、っ!?」
突然横から衝撃を受け、耐えられず床に倒れ込む。ズキンと傷が疼いて一気に熱が頭に回る。何かをぶつけられたのだと分かったが、それが何かと思考する余裕がない。少しでも気を抜いたら意識が飛びそうだ。
――駄目だ、こんなところで気絶している場合では……!
床に手をついてなんとか体を起こす。黒い影が足音もなく歩いてくる。彼はじっとこちらを見下ろすと、何か考える素振りをした。
いつの間にか彼の手には尖ったものが握られている。本体と同じく真っ黒な輪郭はぼやけていて、はっきりした形はわからない。
「……あ? 今はまだ無理だろ。試すだけ試してもいいけどよ」
誰かと会話をするように呟いた影は、おもむろに腕を振り上げた。手に持った何かを勢いよく振り下ろしたが、それが私に当たることはなかった。
触れる直前にパチッと弾くような感覚があり、カランと金属音が部屋に響く。
「ほらな、やっぱこの程度じゃ効いてねえ。体が弱れば心も弱るはずなんだが。まぁ今なら抵抗もできねぇだろうし、このまま痛めつけてやっても……」
と、彼がそう言いかけた時だ。
黒い影の後ろで、床に倒れていたテッドがゆらりと起き上がったのが見えた。薄闇に光る黄色の目は人型の魔物に向けられている。
彼は大きく腕を振り被ると、駆け出した勢いのまま後ろから影を殴り飛ばした。
気配が薄いテッドの攻撃は直前まで気付かれなかったらしい。ぐえっ、と短い呻き声を上げて影が床を転がる。それは柔らかい粘土のように形が変わり、今までのような人型ではなくなっていた。
「クッソ、崩れた……もういい、仕切り直しだ!」
どこから発しているのか、影は不機嫌そうに叫んで消える。一瞬で辺りが静かになり、魔道具庫からも嫌な気配が消えた。
ホーリーライトは範囲が小さすぎて避けられてしまったが、物理的な攻撃は一撃でも十分な効果があったようだ。
ただ、彼らは何故母様を襲ったのか。一体何を試そうとしていたのか。結局何も分からなかった。『魔力の取り分が減る』とはどういうことだろう。
そう考えていたところで、テッドがぱっとこちらに顔を向けた。
「ご主人……!!」
彼は慌てて駆け寄ってくると私の前にしゃがみ込んだ。そこで首筋の怪我に気が付いたらしい。真っ青な顔をして声を震わせる。
「こ、これ、俺がやったんだよね? 俺が、ご主人を噛んだよね……!?」
魔物化していた間の記憶は消えているわけではないらしい。大丈夫だと返して立ち上がろうとしたが、脚に力が入らなかった。
棚を背にして座り込んだまま、何と伝えればいいか迷う。ふいに彼の蜂蜜のような瞳が揺れた。次いでボロボロと大粒の涙が零れる。
「ごめんなさい!! 誰のことも噛むなって言われてたのに、ご主人のことも絶対噛まないって約束してたのに……!!」
目の前で子供のように泣きじゃくる彼を見ていたたまれなくなる。魔物化したのも噛み付いたのも彼の意思ではない。彼は利用されてしまっただけで、最初から敵の狙いは私だったのだろう。
テッドは乱暴に目を擦った。
「約束破ってごめんなさい!! 痛い、よね。魔族の牙なんて……こんな、危険なのに、俺が近くにいたから」
「テッド、それは」
「ごめんなさい、俺が魔族だから、ご主人に怪我を……ごめんなさい!!」
声をかけるだけでは彼の涙は止まらない。小さく息をついて片手を伸ばす。
ぐっと頭を抱き寄せると、テッドは驚いたように口をつぐんだ。
「テッド、落ち着け。大丈夫だ」
「で……でも血が、毒も」
「これくらい平気だ。言っただろう。人間は君が思っているほど弱くはないと」
彼はハッとしたように顔を上げた。目を合わせ、安心させるように笑う。
「しかし、いつまでもここにいるわけにはいかない。エルビン先生が戻ってきたら驚かれてしまう。すぐに私を医務室まで運んでもらえるか?」
「……うん、わかった!!」
テッドは涙目のまま大きく頷いた。学園内では基本的に猫の姿で過ごしているため、彼はこの姿を見られるわけにはいかない。誰かに見付からないよう、衣類型の箱に入っていた魔道具を使わせてもらうことにする。
魔道具庫の扉は魔法で固定されていたのか、鍵もかかっておらずあっさりと開いた。気になることはたくさんあるが、まずは動けるようにならなければならない。
テッドに抱えられて医務室に向かいながら、ふうと体に溜まった熱を吐き出す。
このまま眠ってしまいたい……が、意識を失うわけにはいかない。せめてリリー先生にはしっかり説明しておかないと、魔族のテッドが疑われてしまう。
『大丈夫だよ、死んだりするような毒じゃないから。ただ一時的に体が変わっちゃうだけでちゃんと戻るよ』
ふと、以前校舎裏で彼から聞いた話を思い出す。毒の効果は人間にも同じように現れるんだろうか。体が燃えるように熱いのは、一時的な変化とやらが起こっているせいなのかもしれない。
――私も猫になるんだろうか……?
それはそれで便利かもしれないが、明日は芸術祭だ。
熱に浮かされていたせいで、「今は困るな」と少し的外れなことを考えていた。
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「……おふたりとも遅いですわね」
僕が口を開くより先に、カロリーナがぽつりと呟いた。小さく頷いて時計に目を向ける。今日は芸術祭準備のため午後の授業がなかったが、あと針が半周もすれば鐘が鳴る時間だ。
アレンとエルビン先生が生徒会室を出たのは1時間ほど前。魔道具庫から部品を講堂に運ぶだけだというのに、何も連絡がないまま時間が過ぎていく。
「少し様子を見てこようかな」
「それなら私が……いえ、分かりました。お気をつけて」
途中で言葉を止めたカロリーナに見送られ、生徒会室を出る。先生が一緒なら大丈夫だろうと考えていたが、そんなに不安そうな顔をしていたのだろうか。
――彼のことを心配しすぎている自覚はあるけど……。
もしかしたら、先生と共に講堂で部品交換をしているのかもしれない。頼まれなくても積極的に手伝いを希望する性格なのも知っている。
しかし、それなら一言くらい連絡があってもおかしくない。そう思いながら階段を下りて廊下の角を曲がろうとしたところで、前から足早に歩いて来た男子生徒とぶつかりそうになった。
「っと、悪い!」
「こちらこそ、……ジャック? もう帰ったんじゃなかったのかい?」
「そのつもりだったんだけど、アレンに呼ばれて魔道具庫に向かったテッドがなかなか戻ってこなくてよ。探してたんだ」
「アレンに?」
確かに彼は魔道具庫へ向かったが、エルビン先生と一緒にいるはずだ。魔族であることを隠しているテッドをわざわざ呼び出すだろうか。
ジャックは魔道具庫を確認して戻って来たところらしい。部屋にはエルビン先生しかいなかったと聞いて眉を顰める。
「先生が台車を運んで戻って来た時には誰もいなかったんだと。俺も探したけど妙に魔道具が散らかってるだけで……あっ」
そこで彼は思い出したように懐に手を入れた。そしてとても見覚えのあるものを差し出す。ジャックが説明する前にそれがアレンの杖であることに気付き、さっと頭から血の気が引く。
彼はこの杖が魔道具庫の端に転がっているのを偶然見つけ、念のため生徒会室まで届けようとしていたそうだ。
震える手で杖を受け取って握り締める。上着ではなく杖だけが落ちているということは、魔法を使うために懐から取り出す必要があったということだ。
まさかまたイザベラの時のようなことが起こっていたのだろうか。アレンとテッドは、今どこにいるんだろう。
不安になったところで足音が聞こえた。次いで、慌てたような声がする。
「エミリア、こっちよ! 急いで!」
「は、はい!」
思わずジャックと顔を見合わせ、声が聞こえた方へ足を向ける。廊下の角を曲がると、ちょうど医務室の扉が音を立てて閉まるところだった。
――嫌な予感がする。
無意識のうちに駆け出していた。ノックも忘れて医務室の扉を開く。振り返ったリリー先生が目を丸くしたが、視線は彼らの傍に置かれたベッドへ向かう。
白いシーツの上に鮮やかな青い髪が広がっている。彼の制服が一部赤く染まっているのが目に入り、息が止まりそうになる。
「……テッド?」
固まっていた僕の後ろからジャックが医務室に入ってきた。その声でようやく扉の横にいた魔族の彼に気付く。普段は黒猫の姿なのに、今は珍しく人型だ。
彼の服にも赤い血が付いているのを見て反射的に駆け寄る。ジャックに止められるのも構わずテッドの襟を掴む。彼はギクリと肩を跳ねさせた。
「何があった……!? どうしてアレンが怪我をしているんだ!? まさか君が」
「ちょっと、分かるけど落ち着きなさいって!」
横から僕の腕を掴んだのはリリー先生だった。そのまま強制的にテッドから離される。先生は僕と彼の間に入ると、こちらに向き直って言った。
「傷はそれほど深くないから大丈夫。ちゃんと治療したし、エミリアにも聖魔法をかけてもらってるから。何があったかはだいたいアレンから直接聞いたの。この彼も巻き込まれただけだから、責めないでくれって言ってたわよ」
それを聞いて口をつぐむ。ここでリリー先生が嘘をつく意味はない。アレンがテッドを庇うというのなら、何も知らない僕が責めるわけにはいかないだろう。
小さく息をついてベッドに目を向ける。ふと、妙な違和感を覚えた。
「怪我は、大丈夫なんだけどね……」
リリー先生が零した声が耳に届く。アレンから目を離さず、手に持ったままの杖を握る。数秒置いて違和感の正体に気付き、同時に彼の言葉の意味を理解する。
すやすやと眠っている彼は、どう見ても『男性』には見えなかった。