136話 恋心と冤罪②
「先日は申し訳ございませんでした。風邪などお召しになっていませんか?」
「……先日のことよりも、今のこの状況を説明してもらえるか?」
扉に背をつけ、じっと彼女の様子を伺う。イザベラは何故か頬を赤くして、感動したように両手で口を押さえた。
「あんなに失礼なことをしてしまったのに、不問にしてくださるというのですね。やっぱりクールソン様はお優しいお方ですわ」
返って来た答えに眉根を寄せる。もちろん最初は不問にするつもりだった。私が水を掛けられたのは故意ではなく、事故だったからだ。
しかし今の状況はどう考えても彼女が意図して作り上げたものだ。杖を奪って教室に閉じ込めるなんて、水を掛けるよりも問題になると思わないのだろうか。
「私の質問に対する答えにはなっていないようだが」
イザベラから目を逸らさず、ここからどうやって脱出しようかと考える。頼んだところで簡単には出してもらえそうにない。
廊下に続く扉は外から魔法で塞がれている。窓はあるが、校舎裏に面しているためバルコニーはない。2階ならまだ飛び降りることもできたが、4階から無傷で下りるのはさすがに厳しいだろう。
――なんにせよ、どんなつもりでこんなことをしているのか聞き出さなければ。
彼女は頬に手を当てて口を開く。
「ずっと直接お会いする機会がなくて、あれこれと方法を考えておりましたの。どうすればクールソン様をお助けできるかと」
「助ける……?」
何のことだと尋ねる前に彼女が足を踏み出した。迷いなく腕を伸ばすと、正面から抱き着いてくる。
攻撃ではないと分かっていたから避けなかったが、何がしたいのかわからず余計に困惑してしまう。彼女の肩を掴み、さっと距離を取る。
イザベラは残念そうに眉を下げて口を尖らせた。
「もっと素直になられてもよろしいのに。私は構いませんのよ?」
「さっきから何を言っている?」
「私はクールソン様をお慕いしておりますので」
「いや、だから……」
この調子では埒が明かない。ため息をついて、肩を掴んだまま目を合わせる。
「私を『助ける』とはどういう意味だ?」
「そのままの意味ですわ。今のままでは、あなた様は不幸になってしまいます」
彼女は両手で私の手を握り、首を傾げた。金色の髪がさらりと横に流れる。
「ご存知ですか? クールソン様が食堂で庇われたあの女は大きな隠し事をしているのです。休日の度に厚かましくも公爵家の馬車に同乗して、あなた様と2人きりで出かけているにも関わらず……!」
ぐっと手に力が入る。イザベラは俯いてわなわなと肩を震わせると、酷く悲しそうな顔で私を見上げた。
「あの女は……あの女はあろうことか公爵家のクールソン様を蔑ろにして、男爵家の男子生徒を誑かしているのです!!」
悲痛な叫びに思わず目を丸くしてしまう。あの女というのはエミリアだろう。そしてイザベラの言う男子生徒は、おそらくギルのことだ。
誑かしたも何も、彼らを引き合わせたのは私だ。しかし彼女の目には、エミリアが私とギルに二股をかけているように映っているらしい。
――そういえば、変な噂が立っていたな。
食堂でエミリアの代わりに水を被った後、医務室で聞いた話を思い出す。あれ以来まったく聞かなかったから消えたものだと思っていたが、私とエミリアの噂はイザベラの耳にも届いていたようだ。
そして、休日に同じ馬車で神殿に通っているのも見られていたらしい。彼女は私とエミリアが婚約していると思ったから、こうして忠告してくれたのだろうか。
そう考えていると、イザベラが懇願するように言った。
「あんな女よりも私の方がずっとクールソン様をお慕いしております! どうか目を覚まして、私を選んでくださいませ!!」
「イザベラ、違う。エミリアと私はそんな関係では……」
手を振って否定しようとしたところで、彼女は「わかっております」と頷いた。
「クールソン様がお優しい方だということは十分存じております。私のために嘘をおっしゃっているのでしょう?」
だって、と彼女は話を続ける。両手で赤い頬を挟み、視線を逸らした。
「私は公爵家の1人娘。他に子供も養子もいませんもの。そしてクールソン様は公爵家の1人息子。当然我が家に入るわけにもいかず、かといって私が家を出てしまったらブランストーン家の跡継ぎがいなくなってしまう。それを心配されているのでしょう」
「……どうしてそんな話になるんだ?」
嫌な予感がして後退る。すぐ後ろに扉があるため、あまり離れられずに足が止まる。イザベラは胸に手を当てて、恥ずかしそうに笑った。
「私も初めは困惑しましたわ。でも、すぐに理解しましたの。あなた様はあの女に恋をしているわけではないと。クールソン様が本当に好きなのは、私でしょう?」
「えっ?」
自信に満ちた目を向けられ、慌てて首を振る。彼女は何か大きな勘違いをしている気がする。「それは違う」となんとか口から出た否定の言葉は、残念ながら届かなかったらしい。
イザベラは軽やかなステップで後ろに下がり、胸の前で手を組んだ。
「間違いありませんわ。私のことを好きでなければ、こんなに優しくしてくださるはずがありませんもの! でも、クールソン様のお立場では素直におっしゃることができないのでしょう? 聖魔力保持者であるあの女を婚約者にしろと、誰かに言われたのではありませんか? そう、それで無理やり好きになろうとなさっていたのですね」
「イザベラ、私の話を」
「ご安心くださいませ。もう大丈夫ですわ。私が助けて差し上げます!」
向けられた微笑みにゾッとしてしまう。まったく話が通じない。聞いているようで何も聞いていない。先程から彼女は、ずっと1人で話しているようだ。
彼女を特別扱いした覚えはまったくない。私がイザベラを好きだという勘違いはどこから来たんだろう。どうやらエミリアとの噂も私が送った返事の手紙も、彼女に都合よく解釈されているようだ。
いい加減にしてくれと言いかけたところで、イザベラは思い出したように自分の制服に手をかけた。
そして、力任せに引き裂いた。
ビリリと音を立ててシャツの一部が裂け、ボタンが弾け飛ぶ。突然のことにその場で固まってしまう。貴族の制服なのに、そこまで脆い生地なのだろうか。
破れたシャツの隙間から肌が見えていることに気付き、はっとする。
今になってようやく自分が置かれている状況を理解した。薄暗い教室に2人きり。その上、貴族令嬢である彼女の制服が引き裂かれている。
当然彼女が自分で破ったなんて誰も思わないだろう。疑われるのは、彼女と同じ部屋にいた『男』の私だ。
もしこの状態を誰かに見られてしまったら。
どう思われるかなんて、考えなくても分かる。
「あなた様が言い出せないのなら、周りに知ってもらえば良いのです。私たちの正しい関係を。これでクールソン様もちゃんと幸せになれますわ」
イザベラはそう言って微笑んだ。無意識のうちに握っていた拳が震える。なんてことを、と頭に浮かんだ言葉は口に出せないまま消えていく。
勘違いと冤罪で結ばれた縁が幸せなわけがない。
――こんな形で罠に嵌められるなんて。
うかつだった。せめて杖を持っていれば、閉じ込められた瞬間に扉をこじ開けて出ることもできた。窓から外に出ることもできた。
しかし魔法が使えない今、部屋から出る方法は閉じられた扉しかない。
そこで、廊下から声がした。
「誰か来てくださいませ! イザベラ様が部屋に連れ込まれてしまいました!」
驚いて扉から離れる。さっと頭から血の気が引いていく。廊下にいた女子生徒たちは人を集めてから扉を開けるつもりらしい。
このまま部屋にいるのはまずい。監視カメラもDNA鑑定もないこの世界では、私がイザベラに何もしていないことを証明できない。いくら彼女に興味がないと言ったところで、破れた制服は元に戻らない。
どうすればと教室の中を見回すが、役に立ちそうなものは何もない。隠れられるような場所もない。部屋の中心にはテーブルとソファーが並べられているだけだ。
騒がしい心臓の音に急かされながら、おろおろと教室内を歩き回る。
「落ち着いてくださいませ、クールソン様。このまま待っていれば彼女たちが扉を開けてくれますわ。そうすれば、自然と私たちは婚約することに」
「……落ち着いていられるわけがないだろう」
声を振り絞り、イザベラを睨み付ける。彼女はきょとんと首を傾げた。2歳しか変わらないはずなのに、これがどういうことか分かっていないらしい。
学園内で婚約前の貴族令嬢に手を出したなんてことになれば、家名に傷がつくどころではない。
退学は当然。下手をすればあらぬ噂を流され、家族が縁を切らなければ家の爵位まで取り上げられるような事態もあり得る。既成事実を作ったからといって、婚約して終わりという単純な話ではない。
悪い噂ほど広まるのは早い。クールソン家の評判は確実に地に落ちるだろう。
――私のせいで家に迷惑をかけるなんて、絶対に駄目だ。
聖女という立場を考えれば神殿にも迷惑がかかるかもしれない。廊下には少しずつ気配が集まっている。そのせいで余計に焦ってしまう。
このまま部屋に留まって弁明するべきか。それともどこかに隠れるべきか。頭を捻るが、良い考えは浮かばない。逃げ出そうにも方法がない。
イザベラは小さく笑って、こちらへ歩み寄って来た。
「素直になってくださいませ、クールソン様。私はあなた様であれば、どんなことをされたって……」
そう言いながらさらに制服を裂こうとする。が、それ以上破れなかったらしい。自分でシャツのボタンを外し始めた彼女の手を掴んで止める。
「やめろ。私は君にそんな気持ちを抱いていない」
「まさか。女性に迫られて嬉しくない男性なんていないのでしょう? さぁ、もはや言い訳も必要ありません。その気にさせた責任を取られるべきではなくて?」
彼女は恍惚とした表情を浮かべて懐から杖を取り出した。力では無理だからと、風魔法で服を破くつもりらしい。
女性相手に心苦しいが躊躇っている暇もない。息をついて、顔を上げる。
「――ッすまない!」
「えっ?」
小声で謝ると同時にイザベラの腕を引く。体勢を崩した彼女の首に振り上げた手を叩き込む。あっと短い声を漏らして、イザベラは前のめりに倒れ込んだ。
気絶した彼女を受け止め、急いでソファーに運ぶ。護衛兵に習った方法だが実際に使ったのは初めてだ。念のためヒールをかけ、急いで窓に駆け寄る。
いくら無罪を主張したところで、室内に2人きりでいた事実は変わらない。誰かに姿を見られる前にここから逃げ出さなければならない。
下の階で授業をしていなければ降りられるだろうかと考えたところで、廊下から聞き覚えのある声がした。
「……本当にここにアレンがいるんだね?」
「ちょっと、王子様。この子の話を信じるの?」
その瞬間、ドクンと胸が鳴った。
今までも妙な噂が流れる度に周囲の目が変わっていたのは知っている。それでも気にせずにいられたのは、私を信じてくれる友達がいたからだ。
他の生徒にどう思われようと構わない。
――でもこの場を見て、彼らに誤解されるのは……。
耳元で心臓の音が鳴り響く。早く逃げなければと思うのに扉から目が離せない。喉が渇いて息が詰まる。わずかに後退った足が壁にぶつかる。
2人に勘違いさせたくない。失望されたくない。私が女性に無体を働くような人間だと、もし一瞬でも彼らに疑われたら。向けられる視線を想像するだけで息が止まりそうだ。
どうすれば、と口から呟きが漏れる。
それに答えるように後ろから声がした。
「ご主人、こんなところで何してるの?」
はっとして振り返る。窓枠にいた黒猫は私を見て首を傾げた。
魔界に帰ったのでは。どうしてここに。聞きたいことはいくつもあったが、今はそれどころじゃない。廊下ではなにやら騒いでいる声がする。
急いで窓を開け、黒猫に向き直る。
「テッド……私を抱えて飛べるか!?」
彼は黄色い目を大きく見開くと、嬉しそうに笑って頷いた。